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【浮世絵】歌川広重「東海道五十三次」江戸から京都まで解説![袋井〜京都編]

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東海道五十三次

歌川広重が東海道の宿場風景を描いた多色刷の木版画です。またはその宿場町の総称として使われています。東海道の宿場53か所に出発点の日本橋・終点の京都三条大橋を足した55枚構成です。

1833年に出版された保永堂版が一般に有名で、ほかに「行書版」「隷書版」の3つがあり、3つのシリーズは絵が異なり、通称は出版された版元の名前が由来となっています。

この作品は幕臣だった歌川広重が、作品に取り掛かる前年に献上品を届ける際に同行した経験をもとにしたといわれていましたが、規定の年齢に達していないことや、描かれている場所の地理関係の矛盾、仕様の違う橋が描いてある、景色選択に謎が残る場所があることなどから同行していない説もあります。

街道整備と宿場

徳川家康は1601年に公用の荷物や書状、江戸まで迅速に安全に送るため、関西方面によりはやく到着する道筋を確保する軍事上の目的から、交通網と街道整備に取り掛かりました。

そうして始まった元禄元(1604)年から行われた東海道の宿場整備は、寛永元(1624)年に完成しました。

幕府は各宿場に、伝馬(てんま)(荷物を運ぶ馬)と人足の用意を義務付け、朱印状で許可した荷物の通行のみを許可しました。また、入り鉄砲と出女といわれたように不審な武器や身元不明の庶民の出入りについては、関所を設けて厳しく監視しました。

東海道ミニデータ

全長124里8丁(487.8キロメートル)

宿場間の距離は1里半~4里半(1里は約3.9㎞)、旅籠(旅館)数は街道全体で3000件以上、一か所で200件を超える宿場(宮宿)もありました。

旅にかかる日数は?

京都までの旅には、普通の大人の足で大体15日前後だったようです。

『東海道中膝栗毛』の弥次喜多コンビは四日市まで12日、お伊勢参りをして京都まで14日間の旅をしています。江戸時代に来日したオランダ人医師シーボルトは17日、アメリカ領事官のハリスは籠を利用して12日かかっています。飛脚業では、リレー方式に何人かで荷物を引き継いでいく継飛脚で3日程度、一人の飛脚は10日程度かかりました。

どんな宿に泊まった?

身分によって、大名や位の高い人が泊まる本陣、次は脇本陣。一般の町人が泊まる旅籠(はたご)一番安い木賃宿(きちんやど)という素泊まりのような宿です。

また飯盛女(食事や男性の相手をする女性)のいる旅籠と置かない普通の平旅籠宿泊施設はなく、土地の土産・名物を楽しむ茶屋がありました。

宿場で一番重要場所は問屋場

問屋場(といやば)は、次の宿場までの荷物を届けるために、馬や人を準備している場所で、宿場で一番大事な場所でした、また、リレー方式に書簡を運ぶ継飛脚の中継点でもありました。

作品を楽しむ豆知識

画面上にある一文字にひかれた線は、青が晴天や日中、赤や黄色は朝夕、茶色は雪と描き分けられています。

53枚の中のいくつかには、登場人物には『東海道中膝膝栗毛』の弥次喜多を思わせる旅人が描かれています。また、土地にまつわる伝説や有名な歌を主題とした作品が多く、エピソードを知っているとより楽しめます。

歌川広重とは

歌川広重については、【浮世絵】歌川広重「東海道五十三次」江戸から京都まで解説![日本橋〜掛川編]にて解説。

>> https://watsunagi.jp/craft/4903/2


袋井

[出茶屋之図]


出茶屋(でちゃや)という茶店の様子です。図にあるように大木の影などに旅人が、一服して休む場です。街道沿いに出されたこの図のような店は一番簡素なもので旅人が少し休憩してのどを潤す程度のお店です。

やかんの湯をわかす出茶屋の女、座って鳥がとまっている高札を読みながら休む男、反対側には草履のひもを結びなおしている駕籠かきがいます。旅の何気ない一コマを上手に画面に収めています。稲を刈り取って束にした稲室があることから秋冬と分かります。やかんで沸かした暖かいお茶が旅の疲れをいやす季節です。

高札は幕府の法令や罪人の処罰など幕府からのお達しを伝えるもので、各宿場に必ず設置されていました。

袋井宿は、旅籠数50の比較的規模の大きい家康ゆかりの遠州三山の門前町として栄えました。1601年から始まった街道整備もほぼ完成した後の元和元(1624)年に遅れて宿場となりました。江戸からも京都からもちょうど27番目の宿場です

静岡県袋井市


見付

[天竜川之図]


副題の通り、天竜川を渡る渡しの図です。

これまでの渡しと違う点は、中洲で待つ姿が描かれています。船頭はキセルを吸って一服、船の客もくつろいでいます。遠景には広重が得意とする影絵的なコントラストの技法が見られます。

派手さはありませんが、平坦な画面のメリハリを細い漕ぎ手一本を描くことで、バランスをとっている画面構成は見事です。

天竜川は昔から「暴れ天竜」とあだ名のつくほどの激しい川で、氾濫を繰り返してきました。川筋も定まっておらず中州がないときもありますが、中州で分けて川は大天竜・天竜と呼ばれています。

もう一つの難所の川、大井川に比べ、天竜川は深さがあるので渡しは通りやすいようです。当時から川幅が広く10丁(約1キロ)もありました。

見附宿は旅籠の数も54と多く天竜川の渡しを渡る旅人と、城下町を抱えて栄える次の浜松宿を避けてこちらに泊まる客とで賑わっていました。

地名の由来は、京都方面から来た時に、初めて富士山が見えたことから「みつけ」となりました。

静岡県磐田市見付


浜松

[冬枯之図]


大きな松を一本画面中央に据えた寂しい風景を描いています。

焚火の煙が黙々と上がり、いかつい駕篭かきの男性たちと、それを遠目に遠慮しながら蓑を被った旅人の姿が対照的です。

画面右手の奥に見える松林は「颯々松(ざざんざのまつ)」といわれる松林で六代将軍足利義政がこの松の下で宴を行ったとき「浜松の音はざざんざ」と言ったそうです。浜松という地名の由来もこのエピソードから来ています。

松は30本ほどの林を指しているという説と、その中の一本という説があります。

浜松宿は旅籠数も100を超え、浜松城の城下町として栄えた宿場です。図の寂しい風景とは趣の異なる賑わいのある街でした。城下町の風景を描くことが少ないのは、広重が嫌いだったのでしょうか。

城下町として栄えた浜松は、現在は浜名湖畔の観光と音楽の街として栄えていて、宿場の面影はあまりありません。ピアノの生産地としても知られますが足利義政が松林の音をうたって地名が付いたのは何かの縁でしょうか。

静岡県浜松市中区伝馬町


舞阪

[今切真景]


浜名湖を渡る渡しの船を遠景です。

画面中央に存在感の大きい山が描かれていますが、このような山はありません。あるときは写実的に風景を描いたかと思うと、このように現実にはない山を大胆に付け足すこともあり、特に忠実に再現にはこだわってなかったようです。

図の手前には波除けのための杭が描かれ、当時の防波堤の様子がわかります。

浜名湖は1493年の地震の際に湖の形が変わり、駿河湾に流れ出るようになりました。それを今切(いまぎり)と言います。軍事上の理由と、度重なる反乱のため橋が壊れてしまう。という二つの理由から、1601年に同街道が整備されたときから渡し船の運航が始まりました。

現在も舞阪宿と荒井の関跡は、予約制ですが歴史散策の観光船が運航されています。

静岡県浜松市西区舞阪町舞阪


荒井

[渡舟ノ図]


舞阪宿につづいて浜名湖の「今切(いまぎれ)の渡し」の近景です。

遠くに小さく描かれた金谷港と関所が見えます。そこから出発している帆かけ船は大名の乗る船です。手前の船と比べると一目でつくりの違いがわかります。手前は庶民の乗りあい船です。

舞阪宿は厳しい取り調べのある関所のあることで有名でした、地理的にも西日本方面からの不審者の出入りを防ぐことがこの場所の需要な任務でした。

ここまで見てきた、人足を使った川越えの様子と比べると、船で渡るのは優雅に感じられます。船頭の縞模様の服装は無地の画面にポイントとなっています、また奥の帆かけ船には保永堂のマークが施されています。

静岡県湖西市新居町新居


白須賀

[汐見坂図]


遠くに見える遠州灘を横目に汐見坂を大名行列が登っています。急な坂を、丸い菅笠の武士たちが連なっていく様がユニークです。

広重が描く山の急斜面の独特な表現は、シリーズを見ていくうえでの醍醐味の一つと言えます。

白須賀宿は 宝永元年の地震により、遠州灘を見下ろす高台に宿場が移動しました。東海地方の海沿いの宿場は、必ずと言っていいほど地震の被害で内陸に移る歴史を持っています。

現在も汐見坂からは、絵と同じような風景を見ることのできるスポットがあります。国道1号線 40号線からは晴れた日は遠州灘を見ることが出来ます。

静岡県湖西市白須賀


二川

[猿ケ馬場]


名物かしわ餅の看板が見えます。その土地の特産品を出す茶屋で一休みすることは、今も昔も旅の楽しみの一つです。丸子宿に描かれているとろろ蕎麦や、川崎宿の麦飯などが有名な茶店でした。二川名物の柏餅は豊臣秀吉が食べたことが始まりといわれています。

画面下に見える絣のような服を着た女性は、ごぜと呼ばれる盲目の三味線弾きの旅芸人です。江戸幕府は盲目の人に旅の権利を与えていました。男性は座頭と呼ばれ、按摩などのマッサージを職業としていました。

二川宿は、前の宿と1.5里しか離れておらず。副題となっている猿ケ馬場は海岸沿いの小さな松の群生した砂浜のような場所で、馬場があるわけではありません。宿場町としてもだんだんすたれていきましたが、現在は観光に力を入れていて、「商家駒屋」など江戸風情を残した場所がたくさんあり、現在も画と似た風景を見ることが出来ます。

愛知県豊橋市二川町中町


出典:Wikipedia 商家『駒屋』


吉田

[豊川橋]


川幅が約一丁あった豊川にかかる大橋を横目に、二川城の普請をする職人の姿が生き生きと描かれています。川の濃い藍色が、黄色がかった空によく映えています

これまでの画で、旅に関する飛脚や渡し、茶屋の女など旅に関係する人たちはよく描かれていましたが、大工を描いている点が目新しいです。また、大きく城を描き、橋を中心に俯瞰的構図をとって城下町の風景を描いていることは、シリーズ中でも珍しい一枚です。

吉田宿は、今川氏が居城していた吉田城の城下町として栄えました。江戸時代に入ってからは城主が定まることはありませんでした。3〜8万石の大名が出世して他に移ることが多く、出世城とも呼ばれました。

本丸の櫓は、取り外されたり、失ったりし、そのたびに再建された歴史を繰り返しています。現在の吉田上の櫓は戦後に再建されたものです。

愛知県豊橋市札木町


出典:Wikipedia 吉田城 石垣と鉄櫓(模擬再建)


御油

[旅人留女]


御油(ごゆ)宿は、飯盛女(食事や身の回りの世話をする女)のいる旅籠が多数あり、この画でも客引きをする留女(とめおんな)と、弥次喜多コンビを思わせる旅客のかけひきの様子がユニークです。

客引きの女性は憎めない風貌ですね。夜の街での客引きが激しいのは、いつの時代も同じです。手前の店には版元である保永堂の宣伝があります。保永堂の竹のマークの描きこみは、シリーズでもおなじみですね。

江戸時代に最も活気があったのは町人層で、武家は参勤交代や藩の資金繰りに頭を痛めていました。農民は年貢に苦しんだ藩と地場産業がうまくいって潤う地域に分かれました。宿場町も同じで繁栄している宿場と、必要な数だけ人足や馬を用意できない宿場で明暗が分かれました。御油のようにして潤うのも一つの手です。

御油宿は、現在の豊橋市になり、宿場の面影はあまりありませんが、御油の松並木は古来から有名な松並木があります。広重はなぜかこの並木は描きませんでした。

愛知県豊川市御油町美世賜


赤坂

[旅舎娼婦之図]


御油宿と二枚続きのようになっています。御油では客引きの風景でしたが、こちらは店内の様子です。

右手には化粧をする女性の姿、その隣の部屋では食事の膳を運ぶ女性と、寝転ぶ男性に話しかける按摩がいます。廊下には風呂上がりの男性、奥の階段下にも、つま先だけの男性が見え、この店が繁盛している様子が見られます。

斜め上から室内をのぞき込むような構図は源氏物語絵巻などでも見られる伝統的な手法です。

赤坂宿には江戸時代から現在も続いている旅籠「大橋屋」があります。

図中に描かれている蘇鉄の木は、移植され、現在、近くの浄泉寺の門前にあります。樹齢300年近いなんて蘇鉄の生命力の強さに感動します!

愛知県豊川市赤坂町紅里


出典:Wikipedia 赤坂宿に現存する旅籠、大橋屋


藤川

[棒鼻ノ図]


副題にある棒鼻とは、宿場入口に建てられた杭のことで、宿場の入り口を指します。画面右下の杭が棒鼻です。

毎年八月一日に朝廷で行われる馬ひきという行事に、江戸幕府は馬を献上していました。画の中の御幣(ごへい)の立てられた赤色の馬と黒毛の馬が朝廷に献上される馬です。

図中では行列に対して土下座する町人の姿が見られます。このような場面を厳密に描く一方で、版元の保永堂の竹のマークも描きこんでいるところに、広重の遊び心を感じます。

藤川宿と岡崎の間には国の指定史跡の大平一里塚(おおひらいちりづか)があります。東海地方で唯一残っている一里塚です。

一里塚とは江戸からに一里(約3.9キロ)ごとに旅人が距離をわかるように設置された石の指標です。

愛知県岡崎市中町北


岡崎

[矢矧之橋(やはぎのはし)]


矢矧川にかかる矢矧大橋(やはぎおおはし)を画面中央に据えた大胆な構図の一枚です。

矢矧大橋は、長さ二百八間(約400m弱)東海道一の長さを誇る橋でした。城へと向かう人々を橋一杯に描いていることから岡崎宿の賑わいが感じられます。

橋の先には岡崎城の城と城下町が小さく見えます。岡崎城は徳川家康が生まれた城として知られています。

五十三次中で城と橋が一緒にある風景は、この岡崎宿と吉田宿の2枚のみです。

現在、矢矧大橋は立派なコンクリート橋になって国道一号線が通っています。岡崎城は再建されて観光化されています。

愛知県岡崎市伝馬通


池鯉鮒(ちりゅう)

[百夏馬市]


宿場町内の神社の池に鮒と鯉が一緒にいたことが地名の名前の由来です。その池のあった慈願寺の近くで行われていた馬市の様子です。

江戸時代の馬は絵にあるように足が太くて短く、大きさもロバより少し大きい程度です。馬というとサラブレッドを思い浮かべますが図からも馬の背が、トンの身長(江戸時代の平均身長は150㎝前後)より低いことがわかります。

画面奥、松の木の下に人が集まっているのは、馬の売買のための話し合いが行われているからです。この松は談合松と呼ばれていました。

徳川家康は三河で飼育されていた三河馬という馬で戦場の馬をまかなったといわれています。しかし現在は宿場のあった知立市でも近隣地域でも三河馬は生産されていません。

知立は古くから交通の要所として栄えていて、刈谷街道・街道の分岐点となっていました。また市内には旧東海道の松並木通りがあります。

愛知県知立市本町


鳴海

[名物有松絞]


鳴海宿の名物である有松絞の店が並びます。道には、店に立ち寄ろうかどうか迷う女性の旅人、駕篭にも女性が乗っています。建物を重なるように描く広重の独特の遠近法の表現が絵に面白みを加えています。

目を引くのは店の立派な構えです。二階建てで間口も広く、白塗り瓦屋根の建物は、繁盛している証拠です。並びの2件目の店も立派な二階建てです。

鳴海絞、有田絞は現在でも伝統産業として受け継がれています。絞り染めは絵柄を再疎に考え、糊付けして愛が染まる部分と染まらない部分を作り、藍染の液につけて、乾かして作る綿織物です。この地域は山間の作物の育ちにくい坂の多い場所なので、こうした地場産業を盛り立てることで経済を賄っていました。

現在もこの織物は継承されており、伝統的建物保存地区では、画のような建造物を見ることも出来ます。

愛知県名古屋市緑区鳴海町根古屋


[熱田神事]


熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ規模の伝統ある神社で、三種の神器の一つ・草薙が祭られていることで知られています。その熱田神宮で毎年5月5日に開催される、馬を献上するお祭りの一コマです。

奥には有田絞を着た男たち、手前には馬とともに走る男たちの姿が勇壮に描かれています。熱気が絵から伝わってくるような迫力のある構図で、広重の名作に数えられる一枚です。

熱宮宿は熱田神宮の門前町として栄えた東海道最大の宿場です。

旅籠も一か所の宿場としては異例の200件を超えていて、ほかの宿場の6倍近くもありました。伊勢神宮へ行く「七里の渡し」があるお隣の桑名宿に続き、東海道ベスト5の大きな宿場町が続きます。

愛知県名古屋市熱田区神戸町


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ライター紹介 ライター一覧

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小さいころから歴史好きで、大学では日本美術・江戸文学を学び、歴史系の学芸員の資格を取りました。

40代の主婦ですのでかれこれ四半世紀前のことになりますが、研修旅行では、おいしいものもろくろく食べず京都の寺社を東奔西走していました。博物館や美術館にもレポートなどでよく行きました。

現在は子育てや体調もあり、実物を見る機会はめっきり減りました。それでも、家にある図録などから縄文式土器のパワーに惹かれ、仏像の美しさに見入り、焼き物や工芸品の匠の技に感心し、庶民の力が花開いた町人の世界に思いをめぐらせ・・と、江戸文化や美術をできる範囲で楽しんでいます。

作品から当時の人々の息遣いを感じることができると、歴史を楽しむ醍醐味がわかります。そのお手伝いができたらいいなと思います。

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