【京焼】卓越した技術から生まれた陶磁器!京焼の歴史や代表的な陶工を紹介
京焼の特徴
磁器を専門に扱う有田焼や釉薬(器の表面を覆うガラス質の部分)を使用しない備前焼と異なり、京焼には決まった技法や様式があるわけではありません。ですが、数多くの卓越した技術を持った陶工を輩出したことや貴族中心の雅やかな文化を育んできたことを背景に、華やかで装飾性に富んだ陶磁器が多いのが特徴です。
宮廷文化や茶の湯文化の影響を受けたデザインは現在でも見本とされることが多く、「写しもの」と呼ばれる過去の作品を手本とした陶磁器が頻繁に作られています。また、現在の京都では原料となる陶土がほとんど採れないため、他の産地から土を取り寄せるのが一般的です。それにより、窯元ごとの工夫が発揮され、同じ京焼でも作風の異なる陶磁器が多く作られています。
京焼の歴史
京都では古くから陶器の製作が行われていましたが、本格的な窯業が行われるようになったのは江戸時代の初めごろです。
現在の青蓮院門跡の北側にあたる粟田口(あわたぐち)に窯元が集まり、粟田焼(あわたやき)と呼ばれる焼き物が作られるようになります。その後、東山山麓の八坂焼や清水焼、仁和寺の門前に窯を構えた御室焼(おむろやき)などが誕生し、窯業は京都の各地に広がります。
特に御室焼では天才的な陶工として知られる野々村仁清(ののむらにんせい)が1656、7(明暦2、3)年ごろから多彩色で装飾された色絵陶器を開発し、京焼の可能性を大きく広げることとなります。金や銀などを使用した華やかな色絵は、その後、粟田口焼や八坂焼、清水焼にも影響を与え、江戸初期から中期にかけてつくられた京焼を特に「古清水」と総称しています。
18世紀後半になると、奥田頴川(おくだえいせん)によって本格的な磁器が京都で作られるようになります。有田で生産が始まった磁器は、陶器に比べて軽くて丈夫なうえ、滑らかな質感があるのが特徴です。京都の陶工たちによる優れた絵付けの技術は磁器にも応用され、頴川の門下からは青木木米(あおきもくべい)や仁阿弥道八(にんあみどうはち)といった優れた陶工を輩出しています。
なお、今日では京焼は清水焼とも呼ばれていますが、清水焼はもともと複数ある京都の窯場の1つでしかありませんでした。それが、時代の流れとともに清水焼だけが発展したため、現在では「京焼=清水焼」という認識が一般的になっています。
京焼の代表的陶工
すでに触れたように京都では江戸時代を中心に優れた陶工が幾人も誕生しました。以下、京焼を代表する陶工を年代順に取り上げ、彼らの業績や作風を紹介していきます。
野々村仁清
(生没年不詳)
丹波野々村の出身で本名を清右衛門(せいえもん)と言い、仁和寺の門前に開窯したことから、仁和寺の「仁」と清右衛門の「清」を取り「仁清」と名乗りました。宮中で活躍した茶人の金森宗和の指導のもと、正確な轆轤技術と華やかな色絵技法で多くの傑作を生みだしました。令和4年現在、国宝に2点、重要文化財に20点の作品が指定され、京焼を代表する陶工として高い評価を受けています。
尾形乾山
1663年~1743年
琳派を代表する絵師の尾形光琳(おがたこうりん)を兄に持つ尾形乾山は、器全体をキャンパスに見立てたような大胆な絵付けが特徴です。野々村仁清に焼き物の技術を学び、1699(元禄12)年仁和寺付近の鳴滝(なるたき)に窯を開きました。この場所が京都の北西(乾)の方角にあるため「乾山」という号を用いています。大胆な絵付けと器に文字を添える手法、そして梅や菊などの文様を意匠化した作品を得意とし、なかには兄の光琳が絵付けをした兄弟での合作も残っています。
初代清水六兵衛
1738年~1799年
大阪の生まれで京都五条坂で焼き物の技術を学び、1771(明和8)年に独立して窯を開いています。瀬戸焼や信楽焼の技法を取り入れ、主に茶碗や水指などの茶道具を作製しているのが特徴です。清水家は現在でも続く陶芸の家系で、歴代が独自の作風を用いて京焼を発展させてきました。
奥田頴川
1753年~1811年
京都で初めて磁器の焼成に成功し、京焼の第二の隆盛期を築いたと評価される人物です。中国風の絵付けを得意とし、なかでも赤を基調に緑や黄色、青色などで彩色した「呉須赤絵」は奥田頴川を代表する作風となっています。磁器の大成と並んで奥田頴川の大きな功績は、その門下から青木木米や仁阿弥道八など江戸末期を代表する陶工が出現していることです。そのため、奥田頴川は京焼中興の祖とも呼ばれ、京焼の歴史を辿るうえで欠かせない人物となっています。
青木木米
1767年~1833年
書や絵画をはじめ芸術一般に精通した人物で、中国清朝の『陶説』という書籍を読んだことをきっかけに陶芸の道に入ったと言われています。奥田頴川に師事し磁器の製法を学ぶとともに中国古陶磁に学び、染付や赤絵、交趾などの作風に影響を受けた煎茶器を中心に作陶しています。青木木米は窯に耳を近づけ、窯の温度を音で判断していたために、後年は耳が不自由になり「聾米(ろうべい)」という号を用いています。
仁阿弥道八
1783年~1855年
初代高橋道八の息子として2代目を継ぎ、出家後に用いた「仁阿弥」の号で知られる陶工です。奥田頴川の門下ですが、中国色の強い作風とは異なり、落ち着いた色彩の和風の焼き物を数多く作製しています。上品で華やかな作品は「尾形乾山、野々村仁清の再来」と称され、今日の京焼を確立するうえで大きな影響を与えた人物です。
おわりに
江戸時代が終わり明治時代に入ると茶道具の需要が減少したため、海外への輸出を目的に「京薩摩」と呼ばれる煌びやかな陶磁器の生産が始まりました。
京薩摩は当時欧米で人気を博していた薩摩焼のデザインを取り入れた金彩色絵の京焼です。
残念ながら、京薩摩は数十年で戦争の影響や多大な生産コストが原因で衰退しますが、確固たる技術を踏まえた京焼は現在でも脈々とその伝統を保ち続けています。