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【文学作家】人気・実力ともに傑出した近代・現代の文学作家!作家の生涯に交友関係、代表作

 2021/01/17 造形 芸術
 
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森鷗外

[生年月日]1862年(文久2年)2月17日
[没年月日]1922年(大正11年)7月9日
[本名]森林太郎


[生涯]

代々、医者の家系の長男として生まれた森鷗外は、婿養子だった父や祖父の期待を一身に受けて成長。子供の頃から「論語」や「孟子」などの教育を受け、オランダ語やドイツ語も学びました。当時、最年少の12歳で東京大学予科(現在の東京大学医学部)に入学。卒業後は陸軍省に入省し軍医となります。1884年(明治17年)には陸軍省派遣留学生としてドイツへ渡航し、その経験をもとに書いたのが「舞姫」です。その他にも評論専門誌「しがらみ草紙」の創刊や、海外文学などの翻訳作品「即興詩人」、「ファウスト」は好評を得ました。

とは言っても本業は作家ではなく医師であり、1894年(明治27年)に起きた「日清戦争」には軍医として出征しています。続いて1904年(明治37年)からの「日露戦争」にも出征。こうしたことを評価され1907年(明治40年)には、軍医のトップに就任しました。

軍医としての傍ら創作活動も活発で、西洋風のサロンを好んだこともあり同人誌の主宰や、自宅で歌会を開くなどしていました。定期的に開催された「観潮楼歌会」は有名です。この歌会には、伊藤左千夫や上田敏、北原白秋、石川啄木などが参加、多くの歌人や詩人、小説家が集いました。

[交友関係]

【永井荷風】

作家の永井荷風は森鷗外の17歳年下で、彼を文学上の師匠だと言い尊敬し続けました。森鷗外の方も慶應義塾大学部文学科の教授に推薦、永井荷風が主宰した雑誌「三田文学」創刊の手助けをしています。

[代表作品]

・「舞姫」
・「高瀬舟」
・「阿部一族」


夏目漱石

[生年月日]1867年(慶応3年)2月9日
[没年月日]1916年(大正5年)12月9日
[本名]夏目金之助


[生涯]

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」の冒頭で知られる夏目漱石ですが、当初は小説家を目指していたわけではありませんでした。大学卒業後は、愛媛県尋常中学校や熊本県の第五高等学校(現在の熊本大学)で英語教師として働きます。その後、文部省の要請で英語教育法研究のためイギリスに留学。帰国後は東京帝国大学で講師として就任し、その傍ら友人にすすめられ執筆したのが「吾輩は猫である」でした。

1905年(明治38年)1月の「ホトトギス」に「吾輩は猫である」は掲載され、大好評だったことから続編の執筆をすることになります。そうして「倫敦塔」や「坊っちゃん」など、今なお有名な作品をどんどん執筆していき、人気作家としての地位を固めていきました。1907年(明治40年)、ついに英語教師を辞めて朝日新聞社へ転職を決め、本格的に職業作家への道を歩むことを決めたのです。

また、夏目家には「木曜会」と呼ばれる門下生が集う会があり、この会には作家の鈴木三重吉や文学者の小宮豊隆など著名人が集っていました。夏目漱石の名声が高まるごとに来客する人々は増えていき、その中には学生時代の芥川龍之介もいました。

[交友関係]

【正岡子規】

正岡子規は、俳人で歌人、近代の俳句の世界を整えたとも言われる人物です。俳句雑誌「ホトトギス」は「子規」の名前にちなんだもので、正岡子規も選者として活躍。「柿食えば鐘がなるなり法隆寺」などの句が有名です。夏目漱石とは大学時代からの親友で、彼に俳句を教えたのは正岡子規だと言われています。

[代表作品]

・「吾輩は猫である」
・「こころ」
・「坊っちゃん」


北原白秋

[生年月日]1885年(明治18年)1月25日
[没年月日]1942年(昭和17年)11月2日
[本名]北原隆吉


[生涯]

北原白秋は「国民的天才詩人」と呼ばれ、詩はもちろん、童謡、短歌、民謡など多くの傑作を世に送り出した人です。北原白秋は福岡県の江戸時代から続く商家に誕生。そして学生時代に文学に熱中し、与謝野晶子・鉄幹夫婦が創刊した文芸誌「明星」に傾倒します。1904年(明治37年)に早稲田大学に入学。翌年には「早稲田学報」に掲載された詩「全都覚醒賦」が1等に入選し、新進気鋭の詩人として注目されるようになります。

さらに1906年(明治39年)に与謝野晶子ら主宰の明星に詩を発表、そこで同じ明星派の石川啄木らと親交を深めていきました。明星が廃刊となったあと1908年(明治41年)に与謝野晶子・鉄幹と森鷗外らが創刊した文芸誌「スバル」にも詩を発表し、着実に実力を付けてきました。

ついに1909年(明治42年)に処女詩集「邪宗門」を出版。詩の他にも、童謡や童話が掲載れた児童雑誌「赤い鳥」の掲載作品の選者となり、自らも「からたちの花」や「待ちぼうけ」などの歌詞を書いて発表しました。

[交友関係]

【萩原朔太郎】

萩原朔太郎は、北原白秋の弟子で「日本近代詩の父」とも称される人物です。韻を踏まない、自由律の詩を開拓し、一躍詩壇の寵児となります。そんな萩原朔太郎は、師匠の北原白秋が好きすぎて「北原白秋全集」の推薦文に「ゲーテと比類さるべき大詩人であり、正に日本の『詩人王』といふべきである」とまで讃えています。北原白秋をどれほど崇めていたかがわかる一文ですね。

[代表作品]

・「邪宗門」
・「桐の花」
・「落葉松」


石川啄木

[生年月日]1886年(明治19年)2月20日
[没年月日]1912年(明治45年)4月13日
[本名]石川 一


[生涯]

石川啄木は、明治時代の詩人で歌人、岩手県にある寺の住職の子として生まれました。勉強が良くでき尋常小学校(現在の小学校)へは1年早く入学するなど、故郷の村では神童と呼ばれて育ちます。けれど中学校へ上がる頃に、短歌に傾倒し成績が下がるようになり、試験でカンニングが発覚したため退学。

その後、文学を志しながら岩手や北海道を転々とし1905年(明治38年)に処女詩集「あこがれ」を出版します。続いて1910年(明治43年)に歌集「一握の砂」を出版しました。職に就いていたものの、借金をしながら生活しており、こうした貧困や社会的弱者の立場に立った歌を多く遺しています。

[交友関係]

【金田一京助】

金田一京助は言語学者で、アイヌ語研究の第一人者です。石川啄木の中学校時代の先輩で、借金癖のあった彼をよく助けた親友でもあります。誰よりも石川啄木の才能を知っていたからこそ、お金を工面するために自身の蔵書や、妻の着物まで売り、彼を援助することに躊躇しなかったのではないかと言います。

[代表作品]

・「あこがれ」
・「一握の砂」
・「悲しき玩具」


宮沢賢治

[生年月日]1896年(明治29年)8月27日
[没年月日]1933年(昭和8年)9月21日


[生涯]

宮沢賢治は、生前は評価されなかったものの、仏教信仰(法華経)や農民の生活に根差した童話を数多く作りました。中学時代に同じ東北出身の石川啄木に傾倒したことで、詩作を行うようになります。そして盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)に入学する頃には、文学への関心がより高まり、同人誌で詩や小説を発表。卒業後は、農学校教師として働きながら詩や童話を書き続けました。

1921年(大正10年)12月と翌年1月の雑誌「愛国婦人」に「雪渡り」を掲載し、このとき得た原稿料の5円(現在の2万円ほど)が生前唯一の原稿料となります。1924年(大正13年)に処女詩集となる「春と修羅」を1,000部ほど自費出版し、発行名義の「関根書店」に配本を依頼。しかし、関根書店はこれをゾッキ本(新品なのに安く売られた本のこと)として古書店に流してしまい、本はほとんど売れませんでした。

その後も、童話の本を出版し雑誌等にも掲載されますが、売れることはありません。体調を崩すようになり、1933年(昭和8年)の9月21日に急性肺炎により息を引き取りました。

[交友関係]

【中原中也】

中原中也は、宮沢賢治の処女詩集「春と修羅」を読み多大な影響を受けたと言われています。ゾッキ本として古書店に出回っていた「春と修羅」を大量に買い、友人知人にすすめるほど傾倒しますが、自身も詩人としては無名だったため誰も興味を持ってくれないと落胆。そして、一度も会うことなく宮沢賢治が病死。けれども宮沢賢治の没後一周年に刊行された「宮沢賢治全集」に、推薦文を書いています。「僕は彼の詩集『春と修羅』を十年来愛読している」といった熱烈な一文が掲載されています。

[代表作品]

・「春と修羅」
・「銀河鉄道の夜」
・「注文の多い料理店」


中原中也

[生年月日]1907年(明治40年)4月29日
[没年月日]1937年(昭和12年)10月22日


[生涯]

開業医の名家に生まれ、幼い頃から聡明であったことから、神童ともてはやされて育ちます。しかし中学へ上がる頃には文学に傾倒し成績はどんどん落ち、大学受験にも幾度も失敗。そうした中での1926年(大正15年/昭和元年)、同人雑誌「山繭」に詩を寄稿したことをきっかけに、自分自身の詩集刊行も考え始めます。1934年(昭和9年)11月に処女詩集「山羊の歌」を刊行。有名な「汚れつちまつた悲しみに」を含む44編の詩が収められています。

[交友関係]

【坂口安吾】

酒癖が悪く喧嘩っ早いことでも有名な中原中也なのですが、その喧嘩をふっかけられて仲良くなったのが坂口安吾です。その理由も、ある酒場にお気に入りの女給がいた中原。しかしその女給の好きな相手がなんと坂口安吾で、坂口安吾が一人店で飲んでいるときに出くわしそのまま「ヤイ!アンゴ!」と声をかけ喧嘩を仕掛けました。けれどこの出来事をきっかけに仲良くなったと坂口安吾が著した本「酒のあとさき」に記されています。

[代表作品]

・「山羊の歌」
・「ランボオ詩集」
・「在りし日の歌」


江戸川乱歩

[生年月日]1894年(明治27年)10月21日
[没年月日]1965年(昭和40年)7月28日
[本名]平井太郎


[生涯]

大正時代から昭和初期に活躍し、日本に探偵小説(推理小説)というジャンルを確立させた小説家。しかし、最初は小説の道ではなく色々な職を転々としながら過ごします。1917年(大正6年)に鳥羽造船所電機部(現在のシンフォニアテクノロジー)に就職し、社内誌を編集しましたが1年4ヶ月ほどで退職。そして1923年(大正12年)に推理小説「二銭銅貨」でデビューを飾ります。江戸川乱歩はその後も推理小説を書き、日本の探偵小説界に多大な影響を及ぼしました。

[交友関係]

【横溝正史】

横溝正史の存在は、江戸川乱歩を語る上で欠かすことのできない人物です。この横溝正史といえば「金田一シリーズ」の作者で、江戸川乱歩と同様に戦前・戦後にかけて大衆から支持された探偵小説作家なのです。

江戸川乱歩は、横溝正史について「横溝正史君は私にとって恐ろしき存在である。(略)誰の批評よりも彼の批評が、私には一番ギクンとこたえるのだ」といった言葉を残しています。また横溝正史の妻は、夫が江戸川乱歩に対して「負けるもんか、負けるもんか」とよく言っていたなどと伝わっています。それだけ、江戸川乱歩と横溝正史は、同じ土俵で戦う作家同士ライバル関係であったことが分かりますね。

[代表作品]

・「D坂の殺人事件」
・「人間椅子」
・「怪人二十面相」


芥川龍之介

[生年月日]1892年(明治25年)3月1日
[没年月日]1927年(昭和2年)7月24日


[生涯]

芥川龍之介は、日本一有名な小説家と言っても過言ではない人物ではないでしょうか。そんな彼は、明治時代の東京に生まれるものの、母が病気がちだったため母方の実家に預けられます。母の実家に迷惑をかけまいと必死に勉強し東京帝国大学に入学。そこで生涯の親友となる菊池寛と出会い、文学の師となる夏目漱石にも見出されます。夏目漱石には、在学中に第4次「新思潮」に掲載した「鼻」を大絶賛されたことで、小説家としての道を進むことになります。

絶大な人気を誇る作家となるものの、1927年(昭和2年)7月24日に「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」といった遺書を残して亡くなりました。死の数日前から大量の睡眠薬を常用していたようで、自殺は睡眠薬によるものでした。芥川龍之介という作家は、短編を得意とし、古典や王朝ものなどをベースに、人間の内面を描いた作品を多く遺しました。そしてその突然の死は、菊池寛や太宰治をはじめ多くの国民に影響を与えたと言います。

[交友関係]

【菊池寛】

菊池寛は、小説家で実業家、芥川龍之介らと文芸誌「新思潮」を創刊。作家としても多くの成功を治めていますが、実業家としての功績も大きいもので、現在の文藝春秋社を作り上げその初代社長に就任。また、親友である芥川龍之介が亡くなった際の葬儀では涙ながらに弔事を読み上げています。

[代表作品]

・「鼻」
・「羅生門」
・「地獄変」


菊池寛

[生年月日]1888年(明治21年)12月26日
[没年月日]1948年(昭和23年)3月6日


[生涯]

雑誌「週刊文春」などで有名な文藝春秋社を創設し、実業家でありながら小説家としての才能を持つのが菊池寛です。彼は学生時代、成績優秀だったものの、サボり癖があり東京高等師範学校(のちの筑波大学)や明治大学、早稲田大学に入学しては退学するのを繰り返していました。最終的に第一高等学校(のちの東京大学)に入学するも、このときは盗品と知らずに品物を質に入れたことがばれて退学処分となっています。

その後、京都帝国大学に入学しこちらは無事卒業。紆余曲折ありましたが、第一高等学校時代に親友となる芥川龍之介と出会っていたことが菊池寛の運命を変えました。その縁から1916年(大正5年)に、芥川龍之介や久米正雄らと文芸誌「新思潮」を創刊。小説家として順調に人気を上げ、文藝春秋創刊や後進を育てるため芥川賞・直木賞の設立をしました。

[交友関係]

【芥川龍之介】

芥川龍之介は、1927年(昭和2年)7月24日に薬物による服毒自殺で亡くなっています。実は、亡くなる前の7月初旬に2回も菊池寛の会社である文藝春秋社を訪ねていました。しかしこの2回とも菊池寛は不在にしており、芥川龍之介と菊池寛はそれきり会うことなく最後の別れとなっているのです。彼の葬儀の席で弔事を読んだ菊池寛の涙は、とどまることはなかったと言います。

[代表作品]

・「恩讐の彼方に」
・「真珠夫人」


川端康成

[生年月日]1899年(明治32年)6月14日
[没年月日]1972年(昭和47年)4月16日


[生涯]

川端康成は、少年の頃に「もっともっと勉強してノーベル賞を取る」と宣言した通りに日本人初のノーベル文学賞を受賞。大阪府出身で、幼い頃に父母、祖父母、姉を亡くし天涯孤独の身でしたが、成績は良く、中学時代に文芸雑誌を読み作家を志すようになります。東京帝国大学に入学し、第6次「新思潮」創刊、そのときに生涯世話になる菊池寛と出会い、菊池寛を介して親友となる横光利一とも出会いました。

その後、文壇デビューを果たし、横光利一らと一緒に文芸誌「文藝時代」を創刊。「新感覚派」の代表的作家として活躍します。川端の「伊豆の踊子」、「雪国」などは幾度も映画化やドラマ化をされ、日本を代表する文学作品として誰もが知る小説となりました。

[交友関係]

【横光利一】

横光利一には、川端康成が好きすぎて常に一緒にいようとしてしまうエピソードがあります。彼の二度目の結婚式のことで、その披露宴に東京上野まで来ていた川端がその日の宿に困っていることを知ると横光は「では、一緒に逗子のホテルまで行かないか?」と誘いました。しかし、それは横光とその妻の新婚旅行先。宿には困っていたけれど、さすがに同行するわけにはいかず断ったそうです。

[代表作品]

・「伊豆の踊子」
・「雪国」


横光利一

[生年月日]1898年(明治31年)3月17日
[没年月日]1947年(昭和22年)12月30日


[生涯]

「文学の神様」と呼ばれた、文壇でも一二を争う真面目男。そんな横光利一の幼少期は、父が鉄道技師であったこともあり地方を転々とする日々でした。そして三重県立第3中学を卒業し、早稲田大学へと入学。この頃から、雑誌や新聞に小説を寄稿していました。そうした活動が繋がり、菊池寛と川端康成と出会います。川端康成とは以降、無二の親友となり共に過ごすようになり、菊池寛主宰の文芸誌「文藝春秋」の編集も共に担当。さらに川端康成とは文芸誌「文藝時代」を創刊することになります。

[交友関係]

【川端康成】

川端康成が横光利一と初めて出会ったのは、菊池寛の紹介によるものでした。そのとき本郷弓町の牛鍋屋で食事をしていましたが、一向に鍋に箸をつけない横光利一に対し菊池寛が「なぜ食べないのか」と聞きます。すると貧しい生活をしていた横光利一は「こんないいものを食べてしまっては明日からの貧乏生活に耐えられない」と一口も食べずに帰ったのです。そんな横光利一のことを菊池寛は「大したやつだ。川端、横光と友達になれ」と言われ、本当にその後、親友となります。けれど言われて友人になったとは考えにくいので、川端康成自身も真面目な横光利一に何か通じるものがあったのではないかと思います。

[代表作品]

・「日輪」
・「春は馬車に乗って」


坂口安吾

[生年月日]1906年(明治39年)10月20日
[没年月日]1955年(昭和30年)2月17日
[本名]坂口炳五(さかぐちへいご)


[生涯]

「人生の落伍者」を目指した退廃的な人物。学生時代に石川啄木を読みその社会的弱者に寄り添った短歌に耽溺しました。「余は偉大なる落伍者になる」といった言葉を書き残し、流行作家となってからも常に堕落し怠惰な生活をよしとしました。彼は常にお酒を飲み、薬物に溺れるような日々を送ります。しかしながら文学に関しては、純文学・エッセイ・推理小説・歴史小説と幅広い才能を持っていました。

[交友関係]

【太宰治・織田作之助】

坂口安吾と太宰治は、権威的な組織を嫌い反権威、反道徳的言動をモットーとする共通認識で仲を深めます。そこに作家・織田作之助も加わり、この3人で「無頼派(ぶらいは)」と呼ばれるように。出会いは1946年(昭和21年)11月の文壇が集まる会「現代小説を語る座談会」で初めて顔を合わせました。会では、当時の文壇で幅をきかせていた志賀直哉などの作家を激しくこきおろし、その後、意気投合した3人は銀座のバー「ルパン」で飲み明かします。こうした自由な言動などが目立ち、無頼派は戦後の文壇を騒がせた不良少年のようでもあったと言われています。

[代表作品]

・「堕落論」
・「桜の森の満開の下」
・「不良連続殺人事件」


太宰治

[生年月日]1909年(明治42年)6月19日
[没年月日]1948年(明治23年)6月13日
[本名]津島修治


[生涯]

昭和が生んだ天才小説家で、誰もが知っている、あるいは大好きな作家のひとりとして名前を挙げる小説家です。太宰治は、青森県の大地主の家に生まれ、父は県会議員などを務めており、いわゆる“お坊ちゃん”として裕福な家庭環境で育ちます。

しかし父は多忙で、母は病弱だったことからなかなか構ってもらえず寂しい幼少期を過ごしています。それでも成績は優秀で、読書が好きだったこともあり、芥川龍之介、泉鏡花、井伏鱒二、室生犀星などの作品を愛読。なかでも芥川龍之介は大のお気に入りで、芥川龍之介と書き連ねたノートや芥川龍之介ポーズで撮った写真が発見されています。

ただ、非常に不安定な精神面を持っていて、幾度も自殺未遂や心中未遂を重ねました。婚約者がいながら違う女性と関係を持つ、結婚後も不倫をするなどあり、「文豪=ダメ人間」のイメージを作った人でもあります。ただ小説に関しては、「斜陽」、「人間失格」など、人間の深い心理を描き、今もなお多くのファンを魅了し続けています。

[交友関係]

【檀一雄】

太宰治の3歳年下の作家で、躁鬱が激しく不安定な彼の唯一の理解者だったと言われています。「最後の無頼派」とも呼ばれる作家で「火宅の人」、「真説石川五右衛門」など多くの作品を遺していますが、太宰治のことを書いた「小説 太宰治」が有名。内容は、酔っ払って2人で心中未遂を図ったことや、旅行に行って旅費が足りず檀一雄を旅館に置いて行ったことなど。まさに事実は小説より奇なりとは言ったもので、太宰治との驚きの出来事が書かれています。それでも見捨てずに最後まで友人であった檀一雄は、懐の深い人物であったのではないかと思います。

[代表作品]

・「走れメロス」
・「斜陽」
・「人間失格」


新美南吉

[生年月日]1913年(大正2年)7月30日
[没年月日]1943年(昭和18年)3月22日
[本名]新美正八(旧姓:渡邊)


[生涯]

新美南吉は愛知県出身の童話作家で、「ごん狐」、「手袋を買いに」などの作品を遺して、29歳の若さでこの世を去りました。そんな彼は、幼い頃に母を亡くし、養子に出されるなど寂しく苦労の多い幼少期を過ごしています。文章を書くことが好きだった南吉は、中学2年の頃から本格的に童謡や童話を書き始めました。小学校の代用教員になると、児童雑誌「赤い鳥」に投稿した童謡「窓」が掲載され、これがきっかけとなり北原白秋と対面し1932年(昭和7年)の1月号「赤い鳥」に「ごん狐」が掲載されることになります。しかし度々体調を崩すようになり1943年(昭和18年)に3月に、喉頭結核のため永眠。

[交友関係]

【巽聖歌】

童謡作家で詩人。そして北原白秋の弟子であったことから、新美南吉に北原白秋を引き合させるなどした新美南吉にとってはなくてはならない存在。また、新美南吉が東京外国語学校に通うようになると、すでに結婚していた巽聖歌宅に下宿させるなど、色々な面倒を見てくれました。新美南吉の死後は知名度が決して高かったとは言えない彼のために、作品を広める助力をしてくれました。

[代表作品]

・「ごん狐」
・「手袋を買いに」
・「おじいさんのランプ」


まとめ

どのような経緯で作品が誕生したのか?

作家たちの性格、交友関係などが分かると、近寄り難そうだった作家たちが一気に身近に感じられるようになったのではないでしょうか。

ぜひ、この機会に文学作家の作品に触れてみてください。


 

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藤原 一葉

藤原 一葉

歴史や伝統文化、美術など、興味のある方はもちろんのこと、そうでない方にも楽しんでもらえる文章を目指しています!

物心ついた頃から、読書、歴史、世界遺産などに興味を持ち、大学では日本美術史を中心に学んできました。将来的に、趣味と仕事を兼ねることができたら人生楽しいだろうと好きなことを活かせる仕事を探し、行政の歴史書編纂所に勤務。その後、Web制作業、校正業を経て、現在は副業でライターのお仕事をしています。

趣味は、読書、美術館・博物館めぐり、アクセサリー作り、ヒトカラなど。

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