【茶道】茶人の特徴が掴める!? 歴史的な茶人の異名を一挙紹介
千利休
[茶聖]
侘び茶(草庵の茶)の大成者として知られる千利休は、松尾芭蕉が「俳聖」、雪舟が「画聖」と呼ばれるように「茶聖」という異名を持っています。これは千利休が茶の湯の神様のような存在として位置付けられていることに由来します。
そもそも利休が完成したとされる侘び茶とは、それまでの書院の茶と異なり、廉価で簡素な道具を使用していました。例えば、利休が造ったとされる「待庵(たいあん)」は、藁を練り込んだ土壁、天井と窓には竹材を多用したわずか2畳の極小の空間です。さらに、楽焼(らくやき)や竹花入をプロデュースした利休は、その後の茶道具のスタンダードを作り上げた人物として圧倒的な影響力を残しています。
古田織部
[へうげもの]
現在では古田織部自身のことを指すようになった「へうげもの(ひょうげもの)」という異名は、もともと織部が使用した茶碗を示す言葉でした。茶会に招かれた博多の豪商、神屋宗湛(かみやそうたん)は織部の茶碗を「セト茶碗ヒツミ候也。ヘウケモノ也」と記録しています。
「ヒツミ候也」と表現されているように、織部茶碗の特徴は、その独特な形にあります。意図的に不規則な楕円形や三角形などに変形させた茶碗は、現代において「破調の美」と評価され、師匠の千利休とは違った美の価値観を提唱しています。
小堀遠州
[きれいさび]
千利休、古田織部の後に茶道の中心的な人物として活躍したのが小堀遠州です。「きれいさび」とは利休の侘び茶をもとにしながらも、華やかで明るい雰囲気を感じさせる遠州の茶の湯を表現する言葉です。
このころになると徳川幕府によって泰平の世が訪れ、安定志向が強まる世相を反映した茶道具が注目を集めるようになりました。時代の雰囲気に合わせ、遠州は白色をメインとした端正で綺麗な茶碗を多く使用し、茶室も光を取り入れた明るいものが多く見受けられます。例えば、京都の金地院にある「八窓席(はっそうせき)」は明かり取りの窓が多く、利休の時代の茶室の雰囲気とは大きく異なっています。
千宗旦
[乞食宗旦]
千宗旦は利休の孫で千家中興の祖とされる人物です。利休は晩年に豊臣秀吉の勘気に触れて切腹となり、子の少庵(しょうあん)は会津の蒲生氏郷のもとでの蟄居を命じられます。その後、秀吉の許しを得て京都に戻った少庵は、大徳寺に預けられていた息子の宗旦を還俗させ、千家の跡取りとしての道を歩ませます。
宗旦は茶人として利休の侘び茶を継承発展させていきますが、その過程で大名に仕官せず貧しい暮らしを続けていたので「乞食宗旦」と呼ばれました。宗旦が大名に仕えなかったのは、祖父の利休が秀吉に近づきすぎて切腹を命じられたことから政治との関わりを避け、自身が目指した侘び茶の精神を貫くためだと言われています。
金森宗和
[姫宗和]
優美で柔らかな茶風から「姫宗和」と呼ばれた人物が金森宗和です。もともと飛騨を領有していた金森家の跡取りとして生まれまた宗和ですが、父親と対立し勘当された末に母親と京都で暮らすことになります。
織部や遠州の茶の湯を取り入れた宗和の茶は、公家のあいだで評判になり、宮中への出入りも許されるようになりました。また、京焼の野々村仁清(ののむらにんせい)をプロデュースしたことでも知られ、金や銀なども使用した華やかな色絵はその後の茶陶へ大きな影響を与えています。
おわりに
茶人たちの異名を知ることで、その人物の性格と茶の湯の特徴を大まかにイメージすることができます。
美的感覚の違いや時代の雰囲気などにより、茶人たちが表現しようとした茶の湯の世界は異なっているので、その差異を探っていくことも茶道の楽しみの1つなのではないでしょうか。