【忍者】有名な忍者からマニアックな忍者まで! 歴史上実在した忍者を紹介
服部半蔵
[はっとりはんぞう]
服部半蔵は忍者の代名詞とも言うべき超有名忍者です。
実は「服部半蔵」とは伊賀の里において代々受け継がれた上忍(忍者の頭領)の名前で、歴史上何人もの服部半蔵が存在しました。特に有名なのが2代目服部半蔵の正成です。
三河国で服部保長の子として生まれた正成は徳川家康に仕えて数多くの戦功を上げ、「鬼の半蔵」の異名をとりました。半蔵正成の実像は一般的にイメージされる「忍者」とは異なり、戦場で活躍する「武将」でした。
正成の事績で特に有名なのが、家康の伊賀越えを助けた働きです。
本能寺の変後に明智光秀軍に命を狙われる家康を半蔵を中心とする伊賀衆らが護衛して三河まで無事に送り届けました。伊賀越えの際に功績があった伊賀衆は、正成を頭領として伊賀同心として家康に召し抱えられました。
百地丹波
[ももちたんば]
百地丹波は安土桃山時代に伊賀国で活動した土豪です。
百地家は服部家・藤林家と並ぶ伊賀の三上忍家の一つで、百地丹波は伊賀流忍術の創始者とも言われます。物語や伝承では石川五右衛門の師匠とされる百地三太夫と同一人物とされますが、真偽のほどは定かではありません。
百地丹波の活動で特筆すべきは、織田信長が伊賀忍者を滅ぼすために伊賀の里に侵攻した「天正伊賀の乱」での働きです。
丹波は1579(天正7)年に織田信長の息子の信雄が率いる織田軍を一度は撃退したものの、1581(天正9)年に信長自らが大軍を率いて攻めてくると衆寡敵せずに敗れました。敗れはしたものの、時の覇者である織田信長を相手にして果敢に戦い、伊賀忍者の誇りを天下に示したと言えるでしょう。
藤林長門守
[ふじばやしながとのかみ]
藤林長門守は、服部半蔵・百地丹波と並ぶ伊賀の三上忍の一人です。伊賀忍者だけでなく甲賀忍者にも配下がおり、伊賀と甲賀にまたがり大きな影響力を持っていました。
しかし、藤林長門守に関する記録はほとんど残っておらず、はっきりとした事績は伝わっていません。ただ、歴史の陰で人知れず活動する忍者にとって記録がほとんど残ってないということは、むしろ超一流であることを示しているのではないでしょうか。
数少ない記録の一つとして、「藤林家由緒書」に藤林長門守が今川義元の元にいる時に山本勘助(武田信玄の軍師)に忍術を伝授したことが記されています。江戸時代に記された忍術書「万川集海」は藤林長門守の子孫である藤林保武によって書かれました。
伊賀崎道順
[いがのさきどうじゅん]
伊賀崎道順は戦国時代に活躍した伊賀流の中忍です。
伊賀楯岡の出身なので「楯岡ノ道順」とも呼ばれ、一説では藤林長門守の配下とされます。道順は伊勢の北畠氏・近江の六角氏・徳川家康に仕えました。
道順の事績として有名なものは、六角義賢に仕えている際に義賢の家臣の百々氏の反乱討伐で手柄を立てたことです。
道順は百々氏の拠点である沢山城に巧みに忍び込み、火をかけて城内を大混乱に陥れて落城させました。この時の道順の活躍は「伊賀崎入れば落ちにけるかな」と詠われました。
また、道順は鉄砲の名人としても知られており、織田信長を狙撃したとも言われます。ただし、実際に信長を狙撃したのは道順と同じ伊賀流忍者の城戸弥左衛門だという説もあります。
風魔小太郎
[ふうまこたろう]
風魔小太郎(風間小太郎とも)は相模国(現在の神奈川県)を拠点として代々後北条氏に仕えた乱波(忍者のこと)の頭領の名前です。
「北条五代記」という文献によると、風魔小太郎は後北条氏と武田氏の戦いの際に乱波衆を率いて武田軍の陣に夜襲を仕掛けて苦しめたとされます。
また、同書によると小太郎の風貌は「身長7尺2寸(約218cm)」「目や口が裂けている」「牙が4本ある」というものでした。
本当にこういう風貌だった可能性もありますが、神出鬼没の風魔衆に対する恐怖心がこうしたイメージを作り出したのかもしれません。
そんな風魔小太郎も小田原の陣で後北条氏が滅びた後は盗賊に身をやつしたとされます。最期は1603(慶長8)年に徳川幕府の手によって捕えられ処刑されたと伝わっています。
加藤段蔵
[かとうだんぞう]
加藤段蔵は戦国時代の一匹狼的な忍者で、驚異的な跳躍力を持つことから「飛び加藤」の異名をとりました。
出自ははっきりせず、出身地に関しては常陸国(今の茨城県)・伊賀・甲賀など複数の説があります。段蔵は忍術の中でも幻術を得意としました。
段蔵が「牛を呑む」という幻術を披露していたところ、上杉謙信の目に留まり呼び出されます。謙信が段蔵に家臣の直江兼続の屋敷から刀を取ってくるように命じると、段蔵は巧みに屋敷に忍び込み難なく刀を持ち帰りました。ところが、謙信は段蔵の忍術のあまりの練達ぶりを見て危険視し、段蔵を暗殺するように兼続に命じます。段蔵は危険を察知して逃げおおせました。
次に武田信玄に仕官しようとしたものの、またもや危険視されて今度は逃げることかなわず殺されてしまいました。
石川五右衛門
[いしかわごえもん]
石川五右衛門は言わずと知れた安土桃山時代の大盗賊ですが、元々は伊賀流忍者だったという説があります。
忍者が「正心」という高いモラルを要求されたのは、裏を返せば忍術は偸盗術(盗賊の技)としてそのまま使えるからでした。一説によると、石川五右衛門は伊賀の三上忍の一人である百地丹波と同一人物とされる百地三太夫の弟子だったと言います。
五右衛門は数々の盗みを繰り返した挙句に大坂城に忍び込んで捕らえられ、最期は釜茹での刑に処されたと伝わります。伝説では、処刑の際に「浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ」(海辺の砂が尽きるようなことがあっても、世の中に盗人の種は尽きないだろう)と言い残しました。
江戸時代になると石川五右衛門は浄瑠璃や歌舞伎の題材として取り上げられ、「天下の大盗賊」のイメージを確立しました。
楠木正成
[くすのきまさしげ]
楠木正成は南北朝時代に南朝方として活躍した武将ですが、「楠木流忍術」の祖としても知られています。
正成は歴史的に忍者と密接な関係にある修験者の情報ネットワークを持っていました。これ以外に正成の忍者的側面が窺われるのが、赤坂城・千早城の戦いです。
わずか200人ほどの兵を率いて城に立て籠った正成に対して、時の鎌倉幕府は総勢30万の大軍を差し向けてきました。普通なら絶体絶命の窮地ですが、正成軍は巧みなゲリラ戦法を用いて見事に幕府の大軍を撃退しました。
この時に正成が用いた「偽の塀を切り落とし敵兵に大木や石を投げ落とす」「兵に見立てた藁人形で敵兵を欺く」「盾を持って近づく敵兵に熱湯をかけて追い返す」など敵の意表を突くゲリラ戦法が実に忍者的なのです。
忍者の戦いと言えば、室町幕府の将軍・足利義尚が近江の六角高頼を攻めた「鈎(まがり)の陣」の際に、六角氏に味方した甲賀忍者が山岳ゲリラ戦法にて幕府軍を撃退した活躍が有名ですが、正成はそういった忍者的なゲリラ戦法の先駆者でした。
後世では楠木正成は水戸学などの影響で「南朝の忠臣」として知られるようになりましたが、忍者的戦法を駆使した戦の名手だったことも忘れてはならないでしょう。
まとめ
これらの人物達は歴史上実在した忍者のほんの一部に過ぎません。他にも数多くの忍者がいるので、興味のある方は調べてみてはいかがでしょうか?
歴史上の忍者について知れば知るほど日本の歴史や文化への理解が深まり、忍者エンターテイメントも益々面白くなるはずです。