【北条時政】鎌倉幕府執権の職!時政の生涯。北条氏の家紋「三つの鱗」にまつわる龍神伝説
北条時政の前半生
北条時政は、1138(保延4)年に伊豆国で生まれました。父は伊豆国の在庁官人・北条時方、母は伴為房の娘で、「北条四郎」と称しました。
平治の乱(1159年)で敗れた源義朝の子・頼朝が伊豆に流されてくると、時政は頼朝の監視役となりまが、頼朝と密かに通じ娘の政子を娶らせて、頼朝の後援者となりました。
1180(治承4)年に以仁王(もちひとおう)によって平家追討の令旨が出されると、時政は頼朝と共に挙兵し、源氏再興のために尽力することになります。
手始めに伊豆国目代の山木兼隆(やまきかねたか)を急襲しこれを打ち取り、続く石橋山の戦いでは敗北を喫し、長男の宗時を失う悲運に見舞われますが、平維盛(たいら のこれもり)を総大将とする平氏軍を迎え撃った富士川の戦いでは大勝利を収めます。
1185(文治元)年に、朝廷が頼朝の弟の義経に対して頼朝追討の宣旨を出すと、時政は頼朝の代官として大軍を率いて上洛します。朝廷は義経追討の宣旨を出すことで対応しますが、時政はこれを機に全国に守護・地頭を置くことを朝廷に認めさせました。
近年では、頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年ではなく、守護・地頭が設置され頼朝の権力基盤が固まった1185年を、鎌倉時代の実質的な始まりとする説もあります。
北条時政の後半生
源頼朝と北条政子の間に頼家が生まれると、時政は外戚として重きをなしていきます。1199(正治元)年に頼朝が亡くなった後には、政子とともに頼家を補佐し、鎌倉幕府の政治を担うことになりました。
征夷大将軍である頼家の権限を制限し、御家人による合議制で幕府を運営する体制を構築しました。
頼家の側近を排除する過程で、有力御家人である比企能員(ひきよしかず)(頼家の外戚)との対立が生じます。能員を自邸に誘い込んで謀殺し、頼家を廃して実朝(頼朝の三男)を将軍に据え、幕府権力を掌握します(比企能員の変)。
時政による幕府権力の掌握は、武蔵国の武士団を統率する畠山重忠(はたけやましげただ)との軋轢を生みだしました。畠山重忠は、「鎌倉武士の典型」と称される清廉潔白な忠義の武士です。
時政は娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)らの讒言を受けて、重忠に謀反の罪を着せて滅ぼします。重忠が無実であることに気付いた義時(時政の息子)が、涙ながらに父を責めたというエピソードが伝わっています。
有力御家人を次々に滅ぼして権力を掌握した時政でしたが、次第に政子・義時と齟齬をきたすようになります。
時政は後妻の牧の方を寵愛し、娘婿である平賀朝雅を将軍職に着けようと画策するに至りますが、この企みは失敗して伊豆に隠居させられ、1215(建保3)年にその地で没しました。
権力掌握のために次々に政敵を葬り去る、権謀術策に満ちた生涯でした。
北条時政と龍神伝説
北条時政には、「龍神伝説」が伝わっており、「太平記」には、次のような伝説が記されています。
幕府草創の時、時政は子孫繁栄を願って江ノ島に参籠し祈りました。その満願の夜に、美女の姿をした弁財天が時政の前に現れ、次のように告げます。
「お前の前世は箱根法師だった。六十六部の法華経を書き写し、六十六ヵ国の霊地に奉納した功徳で、今の世に生まれ変わった。お前の子孫は永く日本の主となり、繁栄するだろう。だが、正しい行いをしないと七代以上は続かない。」
こう告げた弁財天は龍の姿に変化し、海中へと消えていきました。その後には、三つの鱗が残されていました。
この出来事に喜んだ時政は、三つの鱗を北条氏の家紋としたのです。
三つの鱗は江島神社の御神紋にもなっています。
まとめ
北条時政は、権謀術策に明け暮れ次々に政敵を葬り去る一方で、鎌倉幕府の基礎を固めた功労者でもありました。まさに功罪相半ばする人物だったと言えるでしょう。
「太平記」にある「正しい行いをしないと七代以上は続かない」という弁財天の言葉は、果たして当たったのでしょうか?鎌倉幕府の執権は全部で九代続きましたが、兄弟間での継承もあるため、世代で数えると丁度七代で終わりました。
太平記は鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代に書かれた書物であり、歴史の結末を知った上で伝承が作られた可能性があるとはいえ、「どれほど繁栄しようとも、正しい行いをしないと滅びる」という先人が込めた思いを伝承からうかがい知ることができます。