【近江神宮】競技かるた『ちはやふる』の舞台!流鏑馬開催や漏刻祭にご利益を紹介
大津に鎮座する近江神宮
手前から北神門、外透塀、外廻廊、神符授与所、楼門
出典:Wikipedia
近江神宮は大津市中心部のやや北、宇佐山(標高336メートル)のふもとにあります。
正面入り口である一の鳥居から入り、薄暗いほど茂った森の中をしばらく進むと、やがて広い石段の上にそびえ、鮮やかな朱塗りの楼門が目に入ります。その楼門をくぐると、一転して素塗りで落ち着いた色合いの外拝殿が建っています。
さらに内拝殿・中門・本殿などがあり、いずれも規模の大きさに驚くでしょう。「さすが勅祭社(ちょくさいしゃ)のひとつ」といったところです。勅祭社とは祭祀(さいし)の際に天皇からの使いが送られる神社のことで、春日大社・熱田神宮・出雲大社など全国でも16しかありません。
御祭神
ご祭神の天智天皇(在位668〜671年)は、即位前の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の名前のほうがイメージがわく人も多いかもしれません。大化改新の中心人物で、中央集権化を進めた人物として学校の教科書でもおなじみです。
667年からの5年間とほんの短い期間だったため忘れられがちですが、かつてこの地には都が置かれました。
この近江大津宮(おうみおおつのみや、別名は「志賀の都」など)への遷都を行ったのが天智天皇です。大津が選ばれた理由ははっきりしていないものの、「663年の白村江(はくそんこう)の戦いで敗れたのが影響した」との見方もあります。「勢いに乗った唐・新羅の連合軍が日本にまで攻めてくるかもしれない。その場合にこれまで都があった飛鳥よりも防衛には都合がいい」というのです。
ご由緒
建物などの風格からすると意外なことに歴史は新しく、昭和15(1940)年に創建されました。ゆかりの地である大津に天智天皇を祭った神社を作ろうという運動は、明治時代の末からあったもののなかなか実現しないままだったのです。
戦前は、「日本の歴史は万世一系の天皇を中心に展開されてきた」とする皇国史観が支配的でした。その皇国史観では、この年は「神武天皇が即位してからちょうど2,600年目に当たる」とされ、「皇紀2600年」の式典が全国で行われました。近江神宮創建にはその記念行事の一環としての意味もあります。
創建当時は近江大津宮の正確な場所は分かっておらず、「おそらくはこのあたりにあった」として現在の場所が選ばれました。その後の発掘調査で、近江神宮の主要な建物から南東へ400メートルのあたりで朝堂院跡などが発見されました。今では近江神宮の境内は近江大津宮中心部に隣接している、あるいはその一角だったと考えられています。
競技かるた決定戦
若い世代ならば、「競技かるたが題材になった『ちはやふる』で初めて近江神宮の名前を知った」という人も多いでしょう。その主人公の綾瀬千早(あやせちはや)とライバルの若宮詩暢(わかみやしのぶ)らが火花をちらした大会を「クイーン戦」、その男子版を「名人戦」と呼びます。これで競技かるたのナンバーワンが決まります。
名人戦・クイーン戦では、まず先に挑戦者を決めるための予選がトーナメント方式で行われます。その最後の勝者が前年の名人・クイーンと対戦します。実は近江神宮で行われるのは、その一番最後の名人位戦とクイーン位戦だけです。つまり、「男女ともタイトルマッチの舞台が近江神宮」というわけです。
時期は1月の上旬です。そのため、「新春の風物詩」などとも呼ばれています。
近江神宮がこの名人位戦・クイーン位戦の会場として選ばれているのは、百人一首の最初の歌(一番歌)
秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ
を詠んだのが天智天皇だったためです。
出典:Wikipedia
近江神宮流鏑馬神事
[おうみじんぐうやぶさめしんじ]
日本書紀には、都を大津に移した直後の天智天皇の話として「近江国、武(つはもの)を講(なら)ふ。また多(さは)に牧(うまき)を置きて馬を放つ」と記されています。「近江の国で軍事演習をした。また、多くの牧場を作って馬を放牧した」というのです。これにはやはり、白村江の戦い後の対外的な緊張状態が反映していると見ていいでしょう。
この故事にちなみ、また近江神宮鎮座50年の記念行事として平成2(1990年)年11月に第1回が行われたのが、「近江神宮流鏑馬神事」です。今は6月の第1日曜日に行われるようになり、新緑のころの風物詩として定着しました。参道に200メートル余りの馬場が設けられ、その途中に3つの的が設けられます。全速力で走る馬の上から、これらを次々に射抜いていきます。
流鏑馬は平安時代の寛平3(896)年にはすでに記録にあり、盛んになったのは鎌倉時代です。その後、衰退した時期もあるものの江戸時代になって徳川吉宗が復興させました。小笠原流と武田流が2大流派で、流鏑馬の作法や習わし、技術を今に伝えています。近江神宮で行っているのは、武田流の一門、日本古式弓馬術協会(武田流鎌倉派)です。
漏刻祭
[ろうこくまつり]
出典:Wikipedia
「漏刻(ろうこく)」とは水時計のことです。やはり日本書紀に、飛鳥に都があった斉明6 (660) 年、「皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻(水時計)をつくり……」(『日本書紀(下)全現代語訳』講談社学術文庫)と記されています。また、大津に都が移っていた11年後には、「漏刻(水時計)を新しい台の上に置き、はじめて鐘・鼓を打って時刻を知らせた」(同)ともあります。
「漏刻」とあるだけで、この天智天皇の水時計がどのような姿だったのかは分かっていません。ただ、古代中国で使われていたものを参考にし、2段から4段の木箱を上下に置き、一番上のものに水を入れ、管で順々に下に送ったと考えられています。複数の木箱を使ったのは水が落ちるスピードを一定にするための工夫で、最後の木箱にたまった水の量で時間の経過を計りました。
この「はじめて……時刻を知らせた」日を新暦に直した6月10日が「時の記念日」に定められました。近江神宮でもこの日に「漏刻祭」が開かれ、采女(うねめ)姿の女性たちが各メーカーの時計を神前に供えるほか、舞楽などが奉納されます。
また、昭和38(1963)年、楼門のわきには「時計博物館」が設置されました。現在は「時計館宝物館」と名前を変え、日本最古級の懐中時計や日本や世界中から集められた新旧の時計が展示されています。
近江神宮のご利益
近江神宮のご神徳(ご利益)は、時の祖神(そしん)、開運・導きの大神、文化・学芸・産業の守護神とされています。ご祭神は天智天皇しかいません。そのため、いずれも天智天皇の業績にちなんだものとなっています。
時の祖神についてはもちろん漏刻が由来です。文化・学芸については、「秋の田の かりほの庵の……」の作者とされるほか、万葉集などにもいくつも歌が残されていて、歌人としても活躍したことがわかります。産業については、越国(こしのくに、今の日本沿岸地域の北半分)から燃える土(石炭)と燃える水(石油)が献上されたのも天智天皇の時代でした。
最も見落としてはいけないのは、開運・導きの大神としての側面でしょう。大化元(645)年の乙巳(いっし)の変では臣下でありながら一族による独裁をしていた蘇我入鹿を倒し、それに続く大化改新では周辺諸国に対抗するために中央集権化を図りました。また、全国規模のものとしては初めての戸籍、庚午年籍(こうごねんじゃく)も作っています。これは後の律令制への基礎のひとつになりました。
近江神宮アクセス
近江神宮
住所/ 滋賀県大津市神宮町1番1号
JR湖西線 / 大津京駅からタクシー3分、徒歩20分
京阪石山坂本線 / 近江神宮前から徒歩9分
参拝時間 / 6:00〜18:00
近江神宮時計館宝物館
時間 / 9:30〜16:30、入館16:15まで(祝日以外の月曜は休館)
入館料/ 大人300円、小中学生150円
まとめ
近江神宮は競技かるたの聖地です。ただ、それも元をたどればご祭神で古代史の英雄・天智天皇からです。
『ちはやふる』のファンもこれを機会に、歴史の世界へと足を踏み入れてみるのもいかがでしょうか。
また、その天智天皇が都として選んだこの場所で、境内の深い緑に囲まれてパワーをもらうのもいいでしょう。
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■【近江神宮】『ちはやふる』の舞台!流鏑馬開催や漏刻祭にご利益を紹介・ライター
柳本 学
文学部史学科卒。学生時代、普段は京都をうろつき、夏休みなどは奈良に入り浸りでした。とはいえ、それは大昔のことで、「もう一回勉強し直そう」と2年ほど前に、高校生用教科書の『詳説日本史』『詳説世界史』(山川出版社)を購入し、たまにパラパラ開いて読み直しているところです。
かつて活字媒体2社に勤務。勤務地は東京・横浜・名古屋・福岡など。京都では金閣寺(鹿苑寺)の金閣(舎利殿)に入ったことも。一休さんも将軍様もいませんでした……
今は関西に舞い戻り、お天気のいい日はカメラをリュックに突っ込んでサイクリング車でそこらを走り回っています。