【熊野詣】自然深く神秘的な熊野!熊野三山(本宮・速玉・那智)へ通ずる参拝・熊野古道
熊野詣とは
和歌山県の紀伊半島にある熊野三山。熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社は古くより神々の霊が籠る聖地とされ、信仰の対象となっていました。その三山を詣でることを「熊野詣」と言います。
熊野信仰のシンボルは八咫烏。
三本足を持つとされるこのカラスは、日本神話の「東征」において神武天皇を先導したとされており、その経路がこの熊野三山のある紀伊半島でした。
熊野は古来より、修験道の修行の場とされていました。修験道は山にこもって厳しい修行に励む、日本に根ざしていた山岳信仰と仏教が合わさった宗教です。
熊野本宮大社では奈良時代より仏教が取り入れられ、平安時代以降は熊野三山の神々は仏と一体という信仰が広まり、祀られる神々は「熊野権現」と称されるようになりました。それに伴い、神々に仏名を配されるようになったようです。(イザナミ=千手観音、イザナギ=薬師如来、スサノオ=阿弥陀如来など)
平安時代は浄土信仰が強まり、熊野は浄土への入口と考えられるようになりました。そこで皇族や貴族が頻繁に京都から熊野の地へと足を運ぶようになり、それが熊野詣の始まりとされています。
そんな中世の熊野詣は、承久の乱によって参詣の中心だった皇族や、熊野三山の統括をしていた熊野別当が衰退したことで、ほとんど行われなくなりました。代わりに武士や庶民に熊野信仰が広まります。
身分や男女を問わず、多くの人々の参詣を受け入れた熊野。
その賑わいは蟻の行列にたとえられ、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほど、多くの人々が切れ目なく通いました。
熊野三山
熊野本宮大社
熊野本宮大社は、全国の熊野神社の総本宮である熊野三山の中心的存在とされています。
かつては「熊野坐神社」と呼ばれていました。
主祭神は素戔嗚尊(家都美御子大神/スサノオ)をお祀りしています。
社殿が建てられたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)ごろと言われています。第十代崇神天皇の時代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神・天火明命の孫にあたる熊野連が神勅を賜り、創建したと伝えられています。
以来、大斎原と呼ばれる中州に鎮座していましたが、明治22年(1889年)に水害に罹災してしまいます。それ以降、現在の場所に再建されました。
第一殿(西御前)・第二殿(中御前)・第三殿(證証殿)・第四殿(若宮)は1995年に重要文化財に指定されています。
熊野速玉大社
熊野速玉大社には12の社殿があり、伊邪那岐命(熊野速玉大神/イザナギ)と伊邪那美命(熊野夫須美大神/イザナミ)を主神とし12柱の神様をお祀りしています。
この「速玉之男」が社名の由来となっているようです。もともとは近くにある神倉山にて祀られていました。
神倉山にある神倉神社が速玉大社の摂社として扱われており、現在の速玉大社の社殿は「新宮社」と呼ばれています。この神倉神社は、熊野大神(熊野権現/熊野三山に祀られる神々)が熊野三山として祀られる以前に、最初に降臨された巨岩(ゴトビキ岩)があり聖地とされています。
境内にそびえるご神木の「ナギの大樹」は樹齢千年で、国の天然記念物に指定されており、平清盛の嫡男である重盛の手植えという説があります。
その向かいにある熊野神宝館には1000点を超える古神宝類を所蔵し、国宝に指定されています。
熊野那智大社
熊野那智大社といえば、なんといっても滝。その筆頭となる「那智大滝」が一の滝とも呼ばれ一段の滝としては落差日本一というのですから、その雄大さから崇拝が始まったのも納得です。ちなみに、熊野那智大社の別宮の飛瀧神社は、この一の滝がご神体となっています。
有名な那智の滝ですが、那智大滝の東側には那智原始林が広がっていて60以上の滝があり、そのうち48の滝を総称して「那智四十八滝」と呼ばれます。主祭神は伊邪那美命(熊野夫須美大神/イザナミ)。第一殿では大国主命(大己貴命/オオクニヌシ)を祀っています。
神武天皇の東征では、この地で那智大滝を見つけた神武天皇が大己貴命のご神体として祀ったと言われています。境内には烏石と呼ばれるものがあり、これは神武天皇の道案内を終えた八咫烏が姿を変えて休んでいるのだという伝承が残っています。
熊野古道
紀伊路
伊勢路と並んで、最も古くから知られているのがこの紀伊路です。畿内と熊野三山をつないでいます。
皇族や貴族たちが京から通うにはかなり険しいのですが、参詣儀礼の指導をするのは修験者でした。この道のりを通うことこそが修行であり、信仰の表れになるとされたようです。
先述の承久の乱で、熊野の参詣者の主流が京の貴族たちでなくなったことから、紀伊路はメインルートから外れていきます。その後、近畿地方や岐阜県に点在する33か所の霊場を巡る西国三十三所の巡礼道に組み込まれました。
中辺路
熊野古道は、和歌山県田辺市で二手に分かれます。中辺路は、田辺市から始まって熊野本宮大社、熊野那智大社を通り、熊野速玉大社に至る道のりです。
京の都からやってきた皇族・貴族が一番使ったと言われ、公式の参詣道として扱われました。そのせいか、現代でも観光客に人気の高いルートです。
歴史上の人物たちが使ったこの道は、熊野大神の御子神を祀った「王子」と、その遺跡が点在します。
大辺路
同じく和歌山県田辺市から始まり、那智勝浦町に至るまでの海辺の道です。
きちんと文献に登場したのは元和9年(1623年)ごろのことで、熊野古道のなかでは比較的新しい経路とされています。険しいのは他のルートと変わりませんが、この大辺路は紀州藩が熱心に整備したそうです。
中世の熊野詣が衰退し、お伊勢参りや西国三十三所巡礼が盛んになった近世で、大辺路は熊野詣のルートの中でも特に注目すべき霊場や聖地がないため、参詣の帰路として利用される他に、文人たちが海を眺められる風光明媚なこのルートを観光的に楽しんだようです。
小辺路
小辺路は、熊野本宮大社と密教の聖地である高野山を最短距離で結ぶ道です。
元々は周辺の住民の生活道路でした。
何度か峠を越えなければならない、上級者用の険しい道です。高野山と熊野三山、二つの名高い霊場を結ぶだけあって、それなりの覚悟と気力が求められたことでしょう。
伊勢路
伊勢神宮と熊野三山をつなぐルートです。京の貴族たちが使った紀伊路とは違って、庶民によく使われたそうです。
お伊勢参りを終えた旅人が熊野三山や西国三十三所巡礼を目指した祈りの道と言われています。
江戸時代には、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に登場し「伊勢に七度、熊野へ三度」という言葉ができたほど、庶民にとっては憧れの巡礼だったとのことです。
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まとめ
熊野三山や熊野古道を巡る! 日本人の神仏信仰の歴史に触れることができたのではないでしょうか。
参詣自体が修行とされるほど険しいところにある熊野の地ですが、その分霊験を感じられますよね。
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