【文明開化】いつから始まった? 西洋文明を取り入れ急速に変わった生活様式「衣食住」
この記事の目次
文明開化とは
700年以上にも及んだ侍の世の中を終わらせた西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允等、明治新政府の面々は、新しい日本の形を創るためにさまざまな改革を取り入れました。そのうちの一つが文明開化です。
文明開化の波は新しい日本の首都となった東京やその他の都市部では急速に、そして地方では緩やかに広がっていきました。
新政府が多くの日本人を海外へと派遣したことから、次第に、そして確実に日本人の生活様式に大きな変化をもたらしました。1871(明治4)年11月に横浜港から旅立った『岩倉使節』には、当時外務卿と右大臣を兼務していた岩倉具視、大久保や木戸ら政府首脳陣たち、さらには中江兆民、津田梅子といった留学生など総勢107名が乗船していました。アメリカとヨーロッパ諸国を訪れた彼らは、初めて触れる西洋文明や思想に衝撃を受け、帰国後それぞれに政治・経済・科学・教育などさまざまな分野で活躍し、日本の近代化に大きく貢献しています。
彼らが持ち帰った欧米の風は、日本の衣食住の形態をも大きく変えていきました。
出典:Wikipedia / 左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
服飾文化
まげに着物に草履
文明開化の時代を迎えるまで、日本人のファッションは「着物」だったことはご承知の通りです。男も女も、身分によってマテリアルやデザインは異なるものの「着物」を着て、足元は「下駄」「草履」「わらじ」という鼻緒のついた履物を常に着用していました。
1871(明治4)年にサンフランシスコで撮影されたという前述の『岩倉使節団』の写真には5人の団員たちの姿が映し出されています。写真の真ん中に写る岩倉を除く4人の髪は短く整えられ、服装はスーツに革靴、手にはトップハットを携えた姿で写真に納まっていて、当時のイギリス紳士たちの姿を彷彿とさせます。たった一人、当時の“日本人らしさ”を醸し出しているのが、使節団をリードしていた岩倉でした。当時まだちょんまげと着物にこだわっていたという岩倉も、この後のアメリカ訪問では、まげを落として文明開化の第一歩を踏み出したといいます。
和装は祭服、洋装を正装
実は『岩倉使節団』の出発と時を同じくして、明治天皇は『服制更改の勅諭』を下して洋装を奨励、 翌年には自ら燕尾型御正服を着用されたことが記録されています。しかし洋服が日本で一般的になるまでには、これ以降も長い時間がかかりました。当時はまだ珍しかった洋服は高額な上に入手が困難だったため、単純に一般市民の手の届くものではなかったといえます。
1878(明治11)年に「束帯などの和装は祭服とし、洋装を正装とする」という法令を明治政府が定めると、男性の皇室方や文官たちの正装は洋服へと移行しました。これに続いて駅員や郵便局員などの公的機関の制服が洋服と定められました。
時を溯ること1873(明治6)年には徴兵令が敷かれて、武士たちのように戦闘経験のない一般の市民も軍隊に入隊して、日本のために忠誠を尽くすことが奨励されるようになりました。そんな軍隊の制服もまた洋服でした。珍しい洋装の制服に身を包んだ彼らに、人々は強い憧れを抱いたといいます。
文明開化のシンボル
女性たちが洋装を身にまとうようになったのは、男性たちの洋服姿を見かけるようになってから10年近くも後のことでした。欧米列強の仲間入りを目指すべく、皇室や政府高官の家族たちもさまざまな変化を受け入れることを求められ、ヨーロッパの宮廷と同じように儀礼への参加には夫人も帯同するようになりました。
これを受けて、1886(明治19)年に『夫人洋服の制』が定められ、多くの人々の目には、洋装の女性たちの姿は文明開化のシンボルのように映りました。
美しいシルエットのバッスルライン
『鹿鳴館(ろくめいかん)』で繰り広げられる華麗な舞踏会には、西洋の女性たちと競い合うように美しいドレスに身を包んだ日本女性たちが華を添えました。
鹿鳴館時代のファッションは『バッスルライン』のドレスが主流でした。スカートの部分の後方に腰あてなどを入れてヒップラインを大きく膨らませるスタイルのドレスなので、ウエストが細く見えて、女性らしいシルエットを作るとして世界の社交界でもてはやされました。しかし、これらのドレスは入手するのに時間がかかったことから、日本女性たちが『鹿鳴館』で『バッスルライン』のドレスを着用した頃には、欧米では既に新しいスタイルのドレスが人気だったといいます。
女性の洋装がなかなか一般化しなかったのは、高額で入手困難だったことはもとより、洋装に似合う髪型がなかなか開発されなかったことなどの理由からだったと言われています。
食文化
肉食文化の広がりは口コミ
文明開化がもたらした「食」の変化は、なんといっても肉食の普及でしょう。
日本では古くから「家畜を食べるべからず」という慣習があったので、人々は肉食文化を受け入れることに強い抵抗を示したことは容易に想像がつきます。しかし洋服の普及と比べて、肉食文化は予想を上回る速さで広がっていきました。
その理由は「口コミ」でした。「食べてみたら美味しかった」という評判が評判を呼び、日本人好みの甘じょっぱい味に調理された『牛鍋』があれよあれよという間に人気になりました。福沢諭吉や戯作者・新聞記者として活躍中だった仮名垣魯文(かながきろぶん)などの著名人が、折に触れて「肉好き」を公言していたことも肉食普及を後押ししました。
肉食の広がりと共に「パン」や「パスタ」などの小麦製品も消費されるようになり、日本人の食のバラエティが広がっていきました。
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人気の洋食メニューも誕生
今では一般的に家庭の食卓に上る「とんかつ」や「コロッケ」そして米が主食の日本人にとってはたまらない「カレーライス」「オムライス」「ハヤシライス」と言った人気の洋食メニューも、文明開化の時代を彩るように次々に誕生しました。
特に、今や日本の国民食とまで称される「カレーライス」は、イギリスから日本に伝わったとされています。そのころの『西洋料理指南』という料理本の中でカレーの作り方が紹介されました。西郷従道や山本権丘衛といった明治期の歴代海軍大臣が、艦上での食事として「カレーライス」を奨励していたため、海軍では「カレーライス」を食する習慣が生まれました。そして、「カレーライス」は今なお海上自衛隊の人気メニューとして食されています。
「カレーライス」にまつわる逸話は「少年よ大志を抱け(Boys Be Ambitious)」という名言で有名な、アメリカ人教育者ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)に因んだものも残されています。札幌農学校に教師として在職していたクラークは、「西洋人に負けない体づくりを目指す」というモットーのもと、生徒たちに肉食を推奨したといいます。そんな彼が唯一食すことを推奨した米食が「カレーライス」だったといわれています。
建築文化
明治時代の建築文化を築いた二つの建築様式をご紹介します。ひとつは、お雇い人として来日した建築家によって設計された「洋風建築」。そしてもうひとつは、日本人の大工や左官職人がそれぞれの意匠や工法を駆使して、見よう見まねで西洋風の建物を手がけた「擬洋風建築(ぎようふうけんちく)」です。
レンガを使用した洋風建築
お雇い人として来日した建築家によって設計された「洋風建築」。
レンガを使用した本格的な建物は、政府関連の施設を中心に、当時多くの外国人を迎え入れていた、首都・東京に建設されました。
欧米並みの近代国家であることを内外に印象付けるという思惑があったといわれています。当時要人たちの社交場として賑わった、前述の『鹿鳴館』や今なお当時の面影に触れることができる神田駿河台の正教会大聖堂、通称『ニコライ堂』などが、この様式の建物として挙げられます。
また『鹿鳴館』の設計を手がけたイギリス人建築家のジョサイア・コンドル(Josiah Conder)は、多くの日本人建築家を育てたことでも有名です。彼の元で学んだ日本人建築家の一人、辰野金吾が設計した『東京駅』や『日本銀行』も、この様式の建築物として名を連ねています。
和洋折衷の佇まい擬洋風建築
日本人の大工や左官職人がそれぞれの意匠や工法を駆使して、見よう見まねで西洋風の建物を手がけた「擬洋風建築(ぎようふうけんちく)」。
木造なのに石造りに見える外観や瓦ののった洋風の三角屋根といった、和洋折衷のユニークな佇まいが特徴です。
都市部だけではなく地方にも数多く設計されました。現存のものとしては、福島県郡山市の『開成館』や新潟市の『新潟県議会旧議事堂』などが挙げられます。
残念ながら明治期を偲ぶことができた多くの建築物は老朽などから取り壊されてしまったり、戦争や自然災害によって倒壊してしまったりして、現存のものは数少なくなっています。全国各地に残された当時の建築物は文化財に指定されるなどして、大切に保存されています。
まとめ
西洋の文明を取り入れて変わっていったのは、服飾、食、建築の他、交通や通信、教育に思想なども大きく変化していきました。また、西洋文明をそのまま取り入れるだけでなく、古くからある様式にうまく取り入れて、日本独自の様式を作り上げてもいます。
時代によって変わる文化、様式を見てみるのも楽しいですね。
ちなみに、文明開化の象徴として知られている「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」は、当時の流行歌の一部分で、「半髪頭を叩いてみれば、因循姑息(いんじゅんこそく)な音がする。」「総髪頭を叩いてみれば、王政復古の音がする。」と連なる言葉もあります。