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【犬山城】個人所有されていた国宝5城のひとつ。別名「白帝城」国内最古の天守!? 後堅固の城として有名

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犬山城の特徴

別名「白帝城」

犬山城が別名「白帝城(はくていじょう)」と呼ばれるようになったのは、江戸時代のことです。儒学者、荻生徂徠(おぎゅうそらい)が木曽川のほとりに立つ犬山城を、長江のほとりにあった白帝城に重ね合わせて命名したと伝わっています。白帝城は、中国の唐の時代の詩人、李白が詠んだ詩「早發白帝城」(早に白帝城を発す)に登場します。

“静かに流れる木曽川のほとりの小高い丘の上にたたずむ犬山城。その背景に、朝焼けした色鮮やかでたなびく雲”

もしかしたらこんな光景を目の当たりにした荻生徂徠が李白の詩に登場する、(朝焼け雲に染まる)白帝城を思い浮かべ、犬山城に重ね合わせたのではないでしょうか。そんなふうに考えると想像がふくらみますね。


後堅固の城

犬山城は後堅固(うしろけんご)の城として有名です。後堅固とは読んで字のごとく、城の後ろ側が堅い守りとなっており、攻略しづらいということです。

犬山城でいうと城の裏側を木曽川が流れており、そこから攻め込むには川を渡る必要があります。川を渡りきれたとしても、次は崖を登らなくてはならないのです。天守がある山の標高は85m、崖下の標高は43m、その標高差42mを駆け登らなくては天守には到達することができません。まさに天然の要害です。

城郭は、山の頂上に天守が立ち、一段下りた天守前の広場が本丸、その南東側に、杉の丸、その南西側に樅(もみ)の丸、その東側に桐の丸、そして桐の丸の南側に松の丸、というように階段状に連なって配置されています。さらに城下町と一体の総構えの作りで、城下町は堀で囲まれていたため城全体の防御にも優れていました。


3度とも落城

犬山城は、後堅固でありながら正面側の防御もしっかりされていて難攻不落の城だったのです。

といいたいところですが、実は3度合戦の舞台となっており、3度とも落城の憂き目にあっているのです。

1度目は、1565(永禄8)年、織田信長が尾張国統一の総仕上げとして、いとこである織田信清を攻めた犬山城の戦い。
2度目は、1584(天正12)年、羽柴秀吉と徳川家康が戦った小牧・長久手の戦い。このときは秀吉方の池田恒興が犬山城を守る中川定成(さだなり)を攻め、1日で落城させてしまいました。
3度目は、1600(慶長5)年、徳川家康と石田三成が東軍と西軍に分かれて争った関ヶ原の戦い。犬山城が天下を分ける大きな戦いの前哨戦として合戦の舞台となり、西軍の武将が入城しましたが、最終的に東軍の調略により開城することになりました。


犬山城天守

犬山城の天守は複合式望楼型天守で、外観は3層、地下は2階から地上は4階建て、高さ19mの構造となっています。石垣は野面積みという工法で5mの高さで積まれています。

地下1階、2階部分には天守への入り口があり、石垣や太い梁が見て取れます。1階の中央部には第一の間、第二の間、上段の間、納戸の間の4室に分かれており、周りを武者走りが取り巻いています。

2階部分には中央に武者棚が備えられた武具の間があり、その周りを武者走りが巡っています。

3階の東西には入母屋破風が、南北には唐破風が施されています。

4階は高欄と廻縁が1周まわっており、周囲を見渡せる望楼型となっています。なお、3階の南北に施されている唐破風と4階の回廊は、江戸時代の城主である成瀬氏による増築と考えられています。


国内最古の天守とも

犬山城の天守は、国内に現存する12天守のなかで、松本城とともに国内最古の時代に建てられたものであると考えられています。2021(令和3)年3月には犬山市教育委員会が、犬山城の天守が1585(天正13)年~1590(天正18)年ころに建築されたものであると発表を行いました。
これからも新たな史料の発見や科学的な研究が進み、さらに細かい建造時期が明らかになることでしょう。いずれにしても犬山城の天守は、歴史的に重要な遺産がいたるところに散りばめられた大変貴重なものであることは疑いようのない事実です。


犬山城の歴代城主

戦国乱世真っただ中に建てられた犬山城は、戦国期には城主が目まぐるしく変わりました。しかし、徳川幕府の時代、幕末の激動の時代にもまれ、太平洋戦争の空襲などをくぐりぬけ、現存する国宝天守は2004年まで個人が所有していた唯一の城でした。

織田信康

[おだ のぶやす]

城主期間:1537(天文6)年~1547(天文16)年

現在の犬山城の築城主とされます。尾張国の織田信定の子として生まれ、兄には信秀がいて、甥には信長。斎藤道三との戦いの際には信長に従軍し、稲葉山城攻めで戦死しました。


織田信清

[おだ のぶきよ]

城主期間:1547(天文16)年~1565(永禄8)年

父・信康の跡を継ぎ、犬山城を居城としました。いとこの信長と争うようになり、1565(永禄8)年、犬山城を攻め落とされ、甲斐国の武田氏のもとへ逃亡しています。


池田恒興

[いけだ つねおき]

城主期間:1570(元亀元)年~1581(天正9)年

小姓として幼いころより織田氏に仕え、頭角を現します。1570(元亀元)年の姉川の戦いの活躍により、犬山城を居城とします。1584(天正12)年の小牧・長久手の戦いでは秀吉方として参戦すると、かつての居城、犬山城を攻略しました。家康不在中に三河国を攻めようとしましたが、失敗に終わり、長久手で戦死しました。


織田勝長

[おだ かつなが]

城主期間:1581(天正9)年~1582(天正10)年


中川定成

[なかがわ さだなり]

城主期間:1582(天正10)年~1584(天正12)年

織田信雄(のぶかつ)家臣。小牧・長久手の戦いの際に、池田恒興に犬山城を攻略されてしまいました。和睦後、犬山城が信雄に返還されたのち、1585(天正13)年に1年ほど犬山城主に返り咲いています。


加藤光泰

[かとう みつやす]

城主期間:1584(天正12)年 4月~12月

秀吉の家臣。小牧・長久手の戦いで池田恒興の戦死をうけ入城。戦いの期間中のみ城主を務めました。


武田清利

[たけだ きよとし]

城主期間:1584(天正12)年~1587(天正15)年

織田信雄の家臣。秀吉と信雄が和睦したことで、小牧・長久手の戦いが終結。犬山城を占領していた秀吉軍が撤退、信雄に返還されたのち、犬山城主となりました。


土方雄久

[ひじかた かつひさ]

城主期間:1587(天正15)年~1590(天正18)年

はじめは信長に仕え、その後信雄に仕えました。信雄の家老・岡田重孝を、秀吉と通じていたとして殺害しました。これが引き金となり小牧・長久手の戦いへと発展します。信雄が尾張国を没収されるまで城主を務めました。


三好吉房

[みよし よしふさ]

城主期間1590(天正18)年~1591(天正19)年

豊臣秀次の父。秀吉の姉・ともを妻にもち、秀次が尾張国を与えられると犬山城主となりました。


三輪吉高

[みわ よしたか]

城主期間:1592(文禄元)年~1595(文禄4)年

三好吉房の実兄。


石川貞清

[いしかわ さだきよ]

城主期間:1595(文禄4)年~1600(慶長5)年

秀吉の子飼い。使番(つかいばん)として仕え、1590(天正18)年の小田原征伐の功績などを認められ犬山城主を任されました。関ヶ原の戦いでは豊臣家への忠義を貫き西軍に味方し、犬山城を守ります。井伊直政らの調略により、犬山城内にいた他の武将に説得され開城しました。


小笠原吉次

[おがさわら よしつぐ]

城主期間:1600(慶長5)年~1607(慶長12)年

松平家忠に仕え、跡を継いだ松平忠吉が清洲城に入城すると、その附家老として犬山城の城主となります。吉次の時代に犬山城の近世城郭としての基礎ができ、城下町が整備されました。


平岩親吉

[ひらいわ ちかよし]

城主期間:1607(慶長12)年~1611(慶長16)年

1607(慶長12)年、家康9男である幼い義直が尾張藩主になると、附家老として犬山城を与えられ、尾張藩を取り仕切りました。跡継ぎなくして病死したため犬山城は、親吉の遺言により尾張藩に吸収されることとなります。ただし、犬山藩史によると、親吉の甥である平岩吉範が跡を継ぎ、1617(元和3)年まで犬山を支配したとされています。


成瀬家統治

初代:成瀬正成
[なるせ まさなり]
城主期間:1617(元和3)年~1625(寛永2)年

2代:成瀬正虎
[なるせ まさとら]
城主期間:1625(寛永2)年~1659(万治2)年

3代:成瀬正親
[なるせ まさちか]
城主期間:1659(万治2)年~1703(元禄16)年

4代:成瀬正幸
[なるせ まさゆき]
城主期間:1703(元禄16)年~1732(享保17)年

5代:成瀬正泰
[なるせ まさもと]
城主期間:1732(享保17)年~1768(明和5)年

6代:成瀬正典
[なるせ まさのり]
城主期間:1768(明和5)年~1809(文化6)年

7代:成瀬正壽
[なるせ まさなが]
城主期間:1809(文化6)年~1838(天保9)年

8代:成瀬正住
[なるせ まさずみ]
城主期間:1838(天保9)年~1857(安政4)年

9代:成瀬正肥
[なるせ まさみつ]
城主期間:1857(安政4)年~1869(明治2)年
個人所有期間:1895(明治28)年~1903(明治36)年

成瀬正雄
[なるせ まさかつ]
個人所有期間:1903(明治36)年~1949(昭和24)年

成瀬正勝
[なるせ まさかつ]
個人所有期間:1949(昭和24)年~1973(昭和48)年

成瀬正俊
[なるせ まさとし]
個人所有期間:1973(昭和48)年~2004(平成16)年

1617(元和3)年、尾張藩主・徳川義直の附家老として成瀬正成が犬山城に3万石で入城し、幕末まで続く犬山成瀬氏が誕生しました。2代当主・正虎が隠居の際には、尾張藩主・徳川光友に隠居料として5,000石与えられましたが、固辞します。この5,000石は3代当主・成瀬正親の時代に拝領し、3万5,000石を領することとなり尾張藩最大の石高を持つ重臣となります。

ただし犬山成瀬氏は、通常であれば1つの藩として認められる十分な石高を与えられていながら、あくまで尾張藩を補佐する立場であり、独立した藩として見られることはありませんでした。

7代当主・正壽のころには、尾張藩からの独立を企てる動きがありましたが、失敗に終わります。正式に犬山藩として認められたのは1868(慶応4)年、9代当主・正肥のときまで待たねばなりませんでした。正肥は、1869(明治2)年に版籍奉還により犬山藩知事に任じられます。1871(明治4)年の廃藩置県で、犬山城は愛知県の所有となり、天守以外の建物は廃城令により取り壊されてしまいました。

1891(明治24)年10月28日、濃尾地方で発生した地震により、犬山城の天守が半壊するなど大きな被害を受けます。1895(明治28)年、愛知県は犬山城天守を修理することを条件に、成瀬正肥に無償で譲渡しました。2004年までの101年間、個人が城を所有する唯一の城となりました。

1945(昭和20)年の太平洋戦争による本土空襲では奇跡的に戦火を免れ、1959(昭和34)年の伊勢湾台風では、瓦が飛ばされるなどの被害があったものの最小限の被害にとどまり、現在わたしたちが見る姿を保っています。

2004(平成16)年に、成瀬家の手を離れ、公益財団法人犬山城白帝文庫の所有となり現在に至っています。白帝文庫の理事長は成瀬正俊の娘・淳子さんです。


まとめ

犬山城を訪れた際には、荻生徂徠が白帝城と名付けた、その美しい姿に感銘をうけることでしょう。

どうやって後堅固の城を攻め落とすか、戦国武将になりきって城巡りをするのも歴史へのロマンをかきたてられますね。

最近まで個人所有されていた天守には成瀬氏の先祖代々の城を守るという思いが詰まっています。そんな先人たちのさまざまな気持ちに思いを馳せながら、ぜひ犬山城を訪れてみてください。


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