【彦根城】リサイクルの城、解体の危機! 現存国宝天守5城のひとつ。別名「金亀城」マスコットは有名な「ひこにゃん」
この記事の目次
彦根城の特徴
なぜ「金亀城」と呼ばれるのか
彦根城は別名「金亀城(こんきじょう)」と呼ばれています。標高約50mの彦根山を利用して建てられている彦根城。山の上にあったとされる寺院には、金色の亀に乗った観音像が安置されていたとか。そのため彦根山は別名「金亀山(こんきやま)」という異名があり、金亀山の上に建てられているから金亀城というわけです。
鉄壁の防御
なぜ彦根城をつくる必要があったのか
彦根城は1604(慶長9)年に着工されます。1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康ですが、大坂にはまだ豊臣家が君臨していました。西国方面の豊臣系大名への備えとして、京都に近い彦根の地に築城を急ぐ必要があったのです。
彦根城の防御力
彦根城は豊臣方と戦うことを想定し、強固な防御構造を持っています。
琵琶湖から水を引き入れた3重の堀は大きな特徴の一つといえるでしょう。内堀、中堀さらには外堀(現在は大部分が埋め立てられています)があり、北進してくる敵に対しては東西に流れる天然の芹川が敵の進軍を食い止める役割を担っていました。天守のある本丸を第1郭、内堀と中堀のあいだを第2郭、中堀と外堀のあいだを第3郭と区分けし、鉄壁の防御態勢が構築されています。
中堀を超えるには佐和口、京橋口、船町口の3か所があり、すべて桝形構造となっています。桝形とは字のごとく「桝の形」。枡は現代ではあまり使うことはありませんが、お米を測るために使われる四角い木でできた容器、つまり四角い形の出入口ということです。桝形に敵を誘い込んで身動きが取れないよう封じ込め、集中攻撃ができる空間でした。城にこもって防衛しながらも、櫓から火縄銃や弓矢で集中砲火を浴びせることができたのです。内堀を渡るには表門、山崎口、黒門、大手門(正面)、裏門の5か所があり、特に大手門口は巨大な桝形虎口の構造でつくられています。
実際に戦闘の舞台となることはありませんでしたが、3重の堀が備えられているだけで攻める気力を失いますね。
リサイクルの城
家康は豊臣系大名に対する抑えの役割を担う拠点として、彦根の地に城を築くことを命じます。天下普請(てんかぶしん)として諸大名に協力させ、城の完成を急がせました。工期短縮のため、近隣の城から天守や城門、櫓などを解体移築し、石垣や建物も再利用しました。
天守は大津城、天秤櫓は長浜城、西の丸三重櫓は小谷城、佐和口多聞櫓、太鼓門櫓は佐和山城から移築されたと伝わります。特に佐和山城からは石垣や建物など根こそぎ運び込まれたといわれ、現在の佐和山城跡に当時をしのぶ遺構はほとんど残っていません。
1606(慶長11)年には、天守の工事が完成したとみられ、井伊直継が入城しました。大坂の陣で工事が中断された後には、井伊家単独で工事を進め、1622(元和8)年までには3重の堀に区画された城下町全体が整備されました。
彦根城天守
5階4重の大津城の天守を移築して建てられた彦根城の天守は、3階3重の屋根で構成されています。
外観は切妻破風(きりづまはふ)、入母屋破風(いりもやはふ)、唐破風(からはふ)を東西南北に配置。2階3階には仏教建築にも用いられた花頭窓(かとうまど)、3階には高欄付きの廻縁(まわりえん)を巡らせています。見る角度によってさまざまな表情を見せてくれるのは彦根城の魅力の一つといえるでしょう。
さらに城内部に目を向けると城本来の機能である防御面で多くの工夫が見られます。
壁には、鉄砲で攻撃されることを想定し栗石を詰め込み、鉄砲玉が壁を貫通するのを防ぎます。さらに城内から攻撃するための鉄砲狭間や矢狭間が設けられていますが、平時は外からわからないように漆喰が塗り込まれていました。
侵入した敵を上から突き落とせるよう階段は62度という急傾斜。彦根城天守は1952(昭和27)年に国宝に指定されました。
解体の危機
明治維新が始まると、武士の世は終わりをつげ、戦国大名が群雄割拠していた時代、徳川治世の太平の世に建てられた城は、無用の長物となりその役目を終えます。
1873(明治6)年に出された廃城令により全国の城郭で解体が始まりました。
1878年、例外なく解体が進んでいた彦根城ですが、明治天皇の北陸巡幸に同行していた大隈重信(1838年生まれ-1922年没/第8代、第17代内閣総理大臣)が彦根城に立ち寄ります。大隈重信は彦根城が解体されていく現実を目の当たりにし、取り壊すのはもったいないと感じました。明治天皇に保存することを上奏したところ、解体が中止されたと伝わっています。
廃城令により行われた全国各地での城郭の取り壊し、第2次世界大戦での空襲を乗り越え、現在見ることのできる彦根城。現存する天守をいまわたしたちが見ることができるのは奇跡的なことですね。
ひこにゃん
彦根藩2代藩主である井伊直孝をお寺の門前で手招きし雷から救ったとされる白猫をモデルとしており、井伊軍団のシンボルである赤備えの兜(かぶと)をかぶっています。
「ひこにゃん」というネーミングは全国から寄せられた1,167点の一般公募から選定されました。2007(平成19)年の築城400年を迎えた彦根城の記念イベントのイメージキャラクターとして誕生し、イベント終了後も彦根城のマスコットとして活躍しています。
直孝を雷から救ったとされるお寺は現在の世田谷区の豪徳寺といわれ、井伊家の江戸での菩提寺と定められています。直孝がにわか雨にあって大木の下で雨宿りをしていたとき、手招きする白猫を見かけ、そちらに近寄った直後に雨宿りしていた大木に雷が落ちたという逸話が伝わっています。
「ひこにゃん」が登場する場所や時間は決まっています。せっかく彦根城を訪れるなら、「ひこにゃん」に会っていきたいですよね。事前に「ひこにゃん」が登場する時間と場所を調べてからお出かけすることをおすすめします。
[わつなぎオススメ記事]
【招き猫】招く手は右手と左手で意味が違う!? 手の高さにも。招き猫の由来も紹介
彦根藩歴代藩主
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、石田三成の旧領である佐和山18万石を重臣である井伊直政に与えます。直政は初代佐和山藩主となり、彦根城ができてから始まる彦根藩の礎を築きました。彦根城は彦根藩主である井伊家の居城です。
1度の国替えもなく彦根を治めた井伊家16人の歴代藩主をご紹介します。
[初代] 井伊直政
1600(慶長5)年~1602(慶長7)年 佐和山藩初代藩主
※井伊直継 1606(慶長11)年~1615(慶長20)年 直政の長男。のちに直勝とあらため、上野・安中藩初代藩主
[2代] 井伊直孝
1615(慶長20)年~1659(万治2)年 直政の次男
[3代] 井伊直澄(なおすみ)
1659(万治2)年~1676(延法4)年 直孝の5男
[4代] 井伊直興
1676(延法4)年~1701(元禄14)年 直縄(なおつな、直孝の4男)の長男
[5代] 井伊直通(なおみち)
1701(元禄14)年~1710(宝永7)年 直興の8男
[6代] 井伊直恒(なおつね)
1710(宝永7)年8月~10月 直興の10男
[7代] 井伊直該(なおもり)
1710年(宝永7)年~1714(正徳4)年
※直通、直恒が相次いで早世したため、名を直該と改めていた直興が再就任
[8代] 井伊直惟(なおのぶ)
1714(正徳4)年~1735(享保20)年 直興の13男
[9代] 井伊直定(なおさだ)
1735(享保20)年~1755(宝暦5)年 直興の14男
[10代] 井伊直禔(なおよし)
1754(宝暦4)年6月~8月 直惟の次男
[11代] 井伊直定
1754年8月~1755(宝暦5)年 再就任
[12代] 井伊直幸(なおひで)
1755(宝暦5)年~1789(寛政元)年 直惟の3男
[13代] 井伊直中(なおなか)
1789(寛政元)年~1812(文化9)年 直幸の6男
[14代] 井伊直亮(なおあき)
1812(文化9)年~1850(嘉永3)年 直中の3男
[15代] 井伊直弼(なおすけ)
1850(嘉永3)年~1860(安政7)年 直中の14男
[16代] 井伊直憲(なおのり)
1860(安政7)年~1871(明治4)年 直弼の次男
※直継は通例では代数に含まれていません。
井伊直政
1561(永禄4)年生まれ-1602(慶長7年)没
直政は家康の重臣として徳川四天王と呼ばれ、1602年に関ヶ原の戦いで負った鉄砲傷が原因で亡くなりました。彦根藩主という肩書を得る前に亡くなっていますが、彦根藩の礎を築いたこの人物を取り上げない理由はありません。
15歳のときに家康の小姓として仕えはじめてから、めきめきと頭角を現わした直政は、家康の天下取りには欠かせない存在になりました。豊臣秀吉亡き後の覇権争いでは、徳川家を代表し諸大名との交渉にあたります。
特に黒田長政とは信頼関係を築き、長政を通じて反石田三成派の大名を家康の味方に引き入れることに成功し、関ヶ原の戦いの勝利に大きく貢献しました。
その功を認められ、佐和山18万石を与えられ、初代佐和山藩主となりました。
井伊直孝
1590(天正18)年生まれ-1659(万治2)年没
家康、秀忠、家光、家綱と4代の将軍に仕え、江戸幕府の支配体制に大きく貢献したのが2代藩主直孝です。直政の死後、当主となったのは直政の長男、直継でしたが家臣団をまとめきれず家康の信頼を失いました。
1615(慶長20)年、家康の命で直孝が家督を継ぐことになり、大坂の陣では井伊家を率いて出陣、戦功をあげます。
秀忠の遺言で、3代将軍・家光の後見役を務め、家光の絶大な信頼を得ると、徳川譜代大名のなかで最高となる35万石の領地を与えられ、井伊家の地位を確立しました。
井伊直弼
1815(文化12)年生まれ-1860(安政7)年没
直弼は、13代藩主直中の隠居後に生まれた14男だったため、家を継ぐことはないと思われていました。17歳からは「埋木舎(うもれぎのや)」と自ら名づけた屋敷に住み、禅・茶の湯・国学などの修養に没頭しました。
転機がやってきたのは直弼32歳のとき。14代直亮の養子となっていた兄・直元が亡くなると直弼が彦根藩主の世継ぎとなったのです。江戸で大名見習いの生活を4年ほど続け、1850(嘉永3)年、直亮の死を受けて15代彦根藩主となりました。
1853(嘉永6)年、ペリーが来航し、幕府は外交問題で大混乱に陥ります。1858(安政5)年、将軍徳川家定の意向により大老職に就き、幕政に尽力しました。1860(安政7)年、桜田門外で反対派の水戸脱藩浪士17名と薩摩脱藩浪士1名の襲撃を受け、命を落としました。
まとめ
井伊家が守ってきた彦根城。
明治天皇が北陸巡幸の帰りに彦根に立ち寄っていなければ…。大隈重信が明治天皇に同行していなければ…。第2次世界大戦で彦根の町が空襲を受けていたら…。いまわたしたちが見る彦根城はなかったかもしれません。
築城された当時の姿そのままをわたしたちに見せてくれることは神秘的なことだと思いませんか?
彦根城にお立ち寄りの際には奇跡的な体験をかみしめて訪れてみてください。また、「ひこにゃん」が登場する時間をリサーチしてから訪れるのもお忘れなく。
[わつなぎオススメ記事]
【文化財】国宝と重要文化財の違い! 有形、無形に天然記念物と様々ある分類を簡単解説