【松江城】美しい曲線の天守屋根! 国宝天守のひとつ。別名「千鳥城」現存木造日本一の鯱に人柱伝説、盆踊り禁止!?
この記事の目次
松江城の特徴
なぜ「千鳥城」と呼ばれるのか
松江城には「千鳥城(ちどりじょう)」という別名がつけられています。
松江城の屋根には千鳥が羽を広げたような曲線、いわゆる「入母屋破風(いりもやはふ)」が東西南北にあしらわれていることから「千鳥城」と呼ばれている、という説が有力です。
最近では、築城された当時は「千鳥破風」と呼ばれる装飾が屋根に施されていたという可能性が明らかになり、これが「千鳥城」の由来となったのではないか、とも言われるようになっています。いずれにしても、千鳥が羽を広げたような松江城の屋根の美しいフォルムは大きな魅力ですね。
絶妙なバランスで配置「互入式通し柱」
松江城の天守は大きな長い柱を使わず、2階分の長さの通し柱をバランスよく配置するという先進的な技術で建てられています。
バランスよく通し柱を配置することで荷重を分散させており、天守308本の柱のうち96本が互入式の通し柱となっています。
なぜこのような技法を用いたのかというと、松江城築城が始まった1607(慶長12)年ころは全国的に築城ラッシュのさなかでした。そのため、例えば姫路城で使用されているような大きな心柱(しんばしら)が入手できませんでした。職人たちがどうしようかと考えた結果、通し柱を互入式に配置する技法を採用したというわけですね。
木造日本一の大きさ「鯱」
「鯱(しゃちほこ)」とは、天守や櫓などの屋根の上にのせて使われる装飾のひとつで、鬼瓦と同様に守り神としての役割を持っています。
鯱と聞くと、名古屋城の金鯱(きんしゃち)を想像される方が多いと思いますが、松江城天守の最上階の屋根に飾られている鯱は、木造の物としては日本一の大きさを誇ります。木彫りの本体に銅板が貼られている松江城の鯱はなんと2.08メートルもの高さがあります。
1950(昭和25)年~1955(昭和30)年にかけての修理の際に下ろされた古い鯱は、天守地階で展示されています。ぜひ実物をご覧になって、大きさを体感してみてください。
ユーモラスな表情「鬼瓦」
屋根の中に雨が侵入しないようにする雨仕舞い(あめじまい)の役割とともに、魔除けの効果を持つといわれる鬼瓦。5層ある松江城天守の各屋根の隅には、合計22枚の鬼瓦が設置されています。
鬼瓦は魔除けの役割をもたせているといわれるにもかかわらず、松江城の鬼瓦は鬼のような角がありません。ユニークな表情をしたものが多いのが特徴です。
松江城天守を訪れる機会があれば、1枚1枚ゆっくり鑑賞し、個性あふれる鬼瓦を探してみるのもおもしろいですね。
松江城天守の造り
松江城の天守は外観が4重、内部は地下1階、地上5階建ての構造となっています。
現存する天守のなかでは姫路城、松本城に次ぐ3番目の高さをもつ松江城の天守。石垣を含めると約30mの高さがあり、望楼式となっている最上階からは松江の街や宍道湖が一望できます。
東西南北に配置された入母屋破風の美しい曲線、湿気防止のため柿渋や煤(すす)、漆などを混ぜた染料で黒く染められた「下見板張り」の漆黒と漆喰の白のコントラストに目を奪われるでしょう。
恐ろしき人柱伝説
(諸説あり)
工事が無事に進行することを祈願し生贄(いけにえ)として、生きた人を水底・地中に埋めることを「人柱(ひとばしら)」といいます。
松江城天守台の石垣は積んでは崩れ、積んでは崩れる難工事でした。そこで、工事が遅滞なく進むことを祈願して人柱を立てることになったようです。
折しも盆踊りの季節でした。踊りが一番上手で美しい若い娘をさらって生きたまま人柱にしたとの話が伝わっています。
しかし松江城完成後、築城した堀尾家に不幸が絶えなかったことから人柱になった娘のたたりではないかとうわさになりました。松江城を築いた堀尾吉晴(ほりおよしはる)は完成後すぐに亡くなり、跡を継いだ忠晴(ただはる)は跡継ぎができないまま亡くなったため堀尾家は断絶。
そのあとをうけて入城した京極忠高(きょうごくただたか)も3年後に亡くなってしまいます。さらには、松江城下で盆踊りが催されるたびに、天守が地震のように揺れ動くという怪現象が発生したことから、人柱にされた娘の呪いではないかとうわさが広まり、盆踊りを禁止するお触れまで出されました。
現在でも松江城の城下町のエリアでは盆踊りをしない風習が継がれているといいます。
松江城の歴代城主
堀尾氏の時代
1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いで戦功をあげた堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、隠岐・出雲24万石を拝領し、月山富田城(がっさんとだじょう)に入城します。しかし月山富田城は山城ということで城下町形成には適しておらず、交通の便が悪かったため移転の計画が立てられました。
宍道湖の東に位置し城下町を見渡すことのできる末次城(すえつぐじょう)跡に移転することを決め、1607(慶長12)年から築城を開始。1611(慶長16)年に松江城が完成しました。
ちなみに忠氏は1604(慶長9)年に急死しているため松江城の城主にはなっていません。吉晴も完成後まもなく亡くなっています。
堀尾吉晴
城主期間:1611(慶長16)年1月~6月
堀尾忠晴
城主期間:1611(慶長16)年~1634(寛永11)年
京極氏の時代
若狭国・小浜藩より1634(寛永11)年、京極忠高が隠岐・出雲出雲・壱岐26万石で入封。この時代に三の丸が造営され、松江城の全容が固まりました。しかし忠高は移封後わずか3年で亡くなりました。
京極忠高
城主期間:1634(寛永11)年~1637(寛永14)年
松平氏の時代
1638(寛永15)年、信濃国・松本藩より松平直政が18万6千石で入封。松平氏の支配は幕末まで10代続きました。直政は徳川家康の孫にあたる人物で、家康の次男三男・結城秀康(ゆうきひでやす)の三男になります。
松平家7代目の城主・松平治郷(はるさと、法号の松平不昧[ふまい]という名でも知られる)は松江藩の財政を立て直した人物として知られています。また茶の湯の世界でも一流の腕前で「不昧流」として、現代にも受け継がれています。
松平直政
城主期間:1638(寛永15)年~1666(寛文6)年
松平綱隆(つなたか)
城主期間:1666(寛文6)年~1675(延宝3)年
松平綱近(つなちか)
城主期間:1675(延宝3)年~1704(宝永元)年
松平吉透(よしとお)
城主期間:1704(宝永元)年~1705(宝永2)年
松平宣維(のぶずみ)
城主期間:1705(宝永2)年~1731(享保16)年
松平宗衍(むねのぶ)
城主期間:1731(享保16)年~1767(明和4)年
松平治郷(はるさと)
城主期間:1767(明和4)年~1806(文化3)年
松平斉恒(なりつね)
城主期間:1806(文化3)年~1822(文政5)年
松平斉貴(なりたけ)
城主期間:1822(文政5)年~1853(嘉永6)年
松平定安(さだやす)
城主期間:1853(嘉永6)年~1871(明治4)年
明治維新後
1935(昭和10)年、当時の国宝保存法によって国宝に指定された松江城ですが、1950(昭和25)年の文化財保護法で基準が変わってしまった影響で国宝から除外されてしまうのでした。
築城時期を証明する祈祷札の発見が決め手となり、国宝に返り咲くことが叶ったのは2015年(平成27)年7月8日。実に65年の年月を要してのことでした。
まとめ
築城当時の姿そのままをわたしたちに見せてくれる松江城。
鯱や鬼瓦、美しい曲線をもつ天守の屋根、職人の技術を結集して建てられた工法など見どころいっぱいのお城です。
国宝に再度登録されるまでには長い年月がかかりましたが、国宝に返り咲くための松江市民の長年の努力があったこともふまえ松江城を訪れてみてください。
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