【青磁】神秘的な色の秘密に迫る!? 青磁の歴史と魅力。異なる価値観
青磁の歴史
中国では古くから青磁が作られていたと考えられていますが、その技術が最高潮に達したのは、宋代(960年から1279年)です。
12世紀の初めごろ、皇帝が使用する青磁を焼いていた「汝窯(じょよう)」では、雨上がりの雲の切れ間から見える空の色を意味する「雨過天青(うかてんせい)」が理想とされ、その名にふさわしい最高峰の作品が作られていました。汝窯はわずか20年ほどで閉鎖され、現在残されている作品も世界で70点ほどしかありません。
1127年に異民族の侵攻を受け南方に逃れた宋王朝は臨安に都を置き、浙江省南部の龍泉窯(りゅうせんよう)で再び優れた青磁を生産し続けます。龍泉窯で作られた青磁は、日本にも輸入され、茶の湯の影響を受けた茶道具として利用されました。また、時代ごとの雰囲気の違いにより、龍泉窯の青磁は大きく以下の3つに分けられています。
砧青磁(きぬたせいじ)
南宋から元の初期(12世紀から13世紀)
砧青磁という名称は、形が絹を打って柔らかくする「砧」に似ているからという説や表面の細かい「ひび」と砧を打つ「ひびき」をかけたものとも言われています。ふっくらと厚くかけられた釉薬は淡い青色をしており、龍泉窯で生産された青磁のなかで最高品質に位置付けられています。
天龍寺青磁(てんりゅうじせいじ)
元から明の初期(13世紀から14世紀)
天龍寺造営のために中国へ派遣された「天龍寺船」によってもたらされたことから、この名称になったと考えられています。黄色がかった沈んだ青緑色をしており、砧青磁より大きめの大皿や花瓶で文様を施した作品が多いのも特徴です。
七官青磁(しちかんせいじ)
明から清王朝初期(14世紀から17世紀)
明王朝の七官という位の人物が日本に持ち込んだことから、この名称が付けられたと言われています。釉薬は透明度がありながら、灰色がかった青緑色をしています。
色の秘密
青磁の美しい色は、表面を覆う釉薬(ゆうやく)に秘密があります。そもそも釉薬とは、高い温度で焼くとガラス質に変わり、器に色やツヤ、そして強度を与えるためのものです。
青磁の釉薬は、植物の灰をベースに長石という石の粉を混ぜ、わずかに鉄分を含んでいるという特徴があります。この鉄分と素地の粘土に含まれる化学物質が、窯で焼き上げることで反応し、青色に変化するのです。
また、その他の条件として、焼成の際に窯内部への酸素の進入を制限する「還元炎焼成」が必要になってきます。酸素の供給が多ければ器は黄色になってしまいますが、「還元炎焼成」することにより淡い青色に発色するのです。
青磁の受容
珠光青磁茶碗
出典:国立博物館所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/TG-431?locale=ja
中国で誕生した青磁は日本でも重宝され、特に茶人たちによって花入れなどの茶道具として利用されてきました。ただ、日本では青磁への価値観が若干異なっており、曇りのない完璧な青色を好んだ中国の価値観と比較してみると違いがよく分かります。
例えば、侘び茶の祖と言われる村田珠光(むらたじゅこう)が愛用した「珠光青磁」は、くすんだ黄色で、中国では日用雑器のような扱いを受けていた茶碗でした。日本と中国の青磁に対する意識の違いは、「侘び茶」の影響が大きいとされています。
「侘び寂び」という不完全さを賞玩する美意識の誕生により、日本的な価値観が確立されていったと考えられています。
おわりに
中国で作られた工芸品は「唐物(からもの)」と呼ばれ、古くから日本人に大切に扱われてきました。
高度な技術を有していた中国で生産された唐物は、日本でも同様に貴重品として受け入れられたのです。その後、侘び茶の隆盛により誕生した価値観で、中国では雑器として扱われていた質の低い青磁を、優れた器として再定義した日本人の感受性にも素晴らしい要素があるのではないでしょうか。