【茶道】戦国大名と失われた伝来道具!高名な茶道具の数奇なエピソードを紹介
戦国大名と茶道具との関係性について
鎌倉時代に禅宗の僧侶たちによって中国から輸入され始めた茶道具は、戦国時代に入ると政治の手段に利用されるようになります。特に中国で作られた茶道具は唐物(からもの)と呼ばれ、所有することが一種のステータスとなっていました。
例えば織田信長は茶道具を一国一城の価値があるとして部下の論功行賞に用いたり、唐物を中心とした名物を収集し自らの権威付けを行っています。また、功績のあった家臣のみに茶会の開催を許可する「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」と呼ばれる政策を実施しました。
信長の功績を継いで天下統一の事業を成し遂げた豊臣秀吉も京都の北野天満宮で大茶会を催し、その権勢を天下に知らしめています。北野天満宮の拝殿中央に黄金の茶室を持ち込み、数多くの名物道具を飾ることで自分のコレクションを天下に誇示しました。
このように戦国時代の武将たちにとって高価な茶道具を所有することは、その人物のステータスに関わるほど重要なことでした。
以下、戦国時代に重宝された有名な茶道具とそれにまつわる武将たちとのエピソードを紹介します。
天下の三肩衝
肩衝(かたつき)とは、抹茶を入れる道具の茶入のうち、肩の部分(茶入の上部で人間の肩のように見えることから名付けられた)が横に張り出したものを指します。肩衝のなかで特に優れた3つの茶入が「初花(はつはな)」「新田(にった)」「楢柴(ならしば)」であり、これらを合わせて「天下の三肩衝」と呼んでいます。三肩衝をすべて揃えることは、天下を統一することよりも難しいと言われ、多くの武将たちにとって憧れの茶道具でした。
ちなみに三肩衝はいずれも中国で製作された唐物で、それぞれの特徴は以下の通りです。
初花肩衝
日本に伝来する前は楊貴妃の油壺だったと言われ、全体に薄造りで重量はわずか140グラムしかない。
新田肩衝
初花に比べて丸みを帯びており撫肩なのが特徴。当初は海松色(海藻のような深い黄緑色)の釉薬がかかっていたが、被災の影響で現在は黒褐色に変色している。
楢柴肩衝
もともとは足利義政の所有物であったが、戦国時代には博多の豪商の島井宗室が所持。明暦の大火(1657年)の際に破損し修繕された後に行方不明となる。
最初に天下の三肩衝をすべて手中に収めようとした織田信長は、初花と新田を手に入れた後、楢柴を所持していた博多の豪商の島井宗室に商売の保護を条件に献上するよう通告します。島井宗室はその通告を受け止めて上洛しますが、翌日に本能寺の変が起こり、信長が楢柴を手にすることはできませんでした。
その後、三肩衝すべてを揃えたのは、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉です。1587(天正15)に町人や百姓までが参加した北野大茶会で、天下の三肩衝をすべて披露したことが伝わっています。秀吉が亡くなってからは、江戸幕府を開いた徳川家康が天下の三肩衝を所有することになります。大坂の陣で豊臣家を滅ぼした家康は、落城とともに粉々に砕けた新田肩衝の破片を漆芸職人に命じて漆でつなぎ合わせ修復しています。
平蜘蛛釜
正式名称を古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)と言い、蜘蛛が這いつくばったような平らな形をした茶釜です。現在の栃木県で作られた天明釜のうち桃山時代以前に作られたものを特に古天明と呼び、平蜘蛛釜は「戦国の梟雄」の異名を持つ松永久秀が所持した茶道具です。
松永久秀は終生譲ることなく、この平蜘蛛釜を保持し続けたことで知られ、織田信長から再三の所望があったにもかかわらず、頑なに断っています。最終的に信長から離反した松永久秀は、籠城の末に自害し平蜘蛛釜も行方不明となってしまいます。江戸時代に成立した軍記物では、久秀が鉄砲の火薬で爆死する際に一緒に破壊されたことになっており、現代では爆破された平蜘蛛釜のエピソードとして定着しています。
流れ圜悟
[ながれえんご]
流れ圜悟とは宋代の禅僧の圜悟克勤(えんごこくごん)が弟子に与えた印可状(いんかじょう)の断簡で、現存する最古の墨蹟になります。印可状とは悟りを得たことを証明するために弟子に与える書状で、茶の湯の祖と言われる村田珠光が圜悟の墨蹟を床の間に掛けて以来、茶会で墨蹟は頻繁に使用されるようになりました。
流れ圜悟と呼ばれる理由は、鹿児島県の海岸にこの墨蹟が桐筒に入った状態で漂着したためです。流れ圜悟のうち現存しているのは前半19行だけで、後半部分はすでに亡失しています。これは伊達政宗の要望により古田織部が2つに切断し、伊達家に渡った後半部分はその後行方不明になり、前半部分のみが今に伝わるからです。
おわりに
現代でも高価な茶道具には、来歴や作者の情報が分かるように、箱に書付があったり書状が添えてあったりします。
来歴がはっきりしていていると、道具の持っている価値がより鮮明になり、茶席でも大きな話題になります。現在でも残っている伝来の道具には、それだけ多くの人に大切に扱われてきたという証明であり、茶道具の歴史を語るうえで重要な要素となります。