【姫路城】優美で城郭建築を代表する建造物! 別名「白鷺城」。世界遺産に登録、特徴や歴史をご紹介
姫路城の特徴
名称の由来
姫路城の天守の置かれている山を「姫山」と言い、古くは「日女路(ひめじ)の丘」と呼ばれた場所でした。城内は2つの小高い山を抱えており、東側の姫山に天守閣が建ち、西側の鷺山には西の丸等が造られています。
「播磨国風土記」によれば、神代の頃、乱暴者だった子 火明命(ほあかりのみこと)を、父 大汝命(おおなむちのみこと)がその乱暴ぶりに手を焼き、海に捨ててしまおうとした際、火明命が大暴れし船は難破。そのとき積んだ荷物が流れ着いた場所が14個あり、その中のひとつが「蚕子(ひめこ)」、後の「日女道丘」で、現在天守のある「姫山」であるとされています。
「姫路」の地名自体は、江戸時代初期、池田輝政が現在の形の城を築き、城下町を整備した当時の文献にも見られます。
別名、白鷺城
白漆喰で塗られた城壁全体は、羽を広げ空に飛び立つ鳥のようだと称され、その優美さから「白鷺城」と呼ばれています。または、姫路城の一部が鷺山に造られていることに由来するとも言われています。
正式には「白漆喰総塗籠造(しろしっくいそうぬりごめづくり)」と言い、防水や瓦を留めるために漆喰を使う方法を採用しています。
この白漆喰で塗られるようになったのは、1601年(慶長6年)に池田輝政により行われた姫路城の大改築をしたときからです。白にした理由も、一説によれば、豊臣秀吉が建てた大阪城が黒だったので、豊臣恩顧の大名は黒の城を、その一方で、徳川恩顧の大名は白い江戸城に習い、白い城を築城したとも言われています。
姫路城の構造
姫路城といえば、大きな存在感を放つのが天守ではなでしょうか。
姫路城の天守は現存している天守の中で最大規模のものになります。天守の高さは31.5m、天守台石垣の高さは14.5m、天守の総重量はおよそ5700トンです。「漆喰白漆喰総塗籠造り」の白漆喰の城壁の5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が特徴。
城郭全体は、おおよそ平地を利用した平山城です。
「縄張(築城における設計・構成・仕組みのこと)」は、天守のある姫山、鷺山を中心にし、内曲輪・中曲輪・外曲輪と三重構造。天守を守るように螺旋を描く構造を渦郭式縄張と呼びます。
関ヶ原の戦いと、大坂の陣の間に築城されたこともあり、極めて実戦本位の縄張となっています。しかし、池田輝政が現在の城郭都市を形成してから、現代までこの地は一度も戦を起こしていません。太平洋戦争時も空襲を免れています。
外敵に晒されていないことから「不戦の城」とも呼ばれています。
ゆかりの人物
姫路城は、城郭建築の最高峰として人気の高い城です。豊臣秀吉や黒田官兵衛といった有名な戦国武将に関わりの深い城としても知られています。
姫路城が現在の城郭になる以前、1333年(元弘3年)、元弘の乱(後醍醐天皇と鎌倉幕府の戦い)の折、挙兵した播磨国の守護・赤松則村がこの姫路に砦を築いたことが始まりです。
赤松家は城の場所を移し一族の小寺頼季を城代に任命、代々、小寺家が姫路城城代を務める事になります。さらに時が流れ、10代目城主である小寺則職が別の城に移動することになり、城主には小寺氏の家臣であった黒田官兵衛の祖父、黒田重隆が任命されることになりました。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでの活躍を評価された池田輝政が城主に就任。姫路には、中国・九州地方への要衝の地としてと、豊臣家恩顧の大名を牽制するなどの重要な役割を担っていました。1609年(慶長14年)、輝政は約8年の改修により白漆喰の美しい、堅牢な城郭都市を完成させます。1613年(慶長18年)に輝政が亡くなると、跡継ぎである光政が幼いことを理由に池田家は鳥取へ転封。
その後は、本多氏や奥平松平氏、越前松平氏、榊原氏などの徳川家の譜代大名が姫路城城主を歴任します。
国宝で世界遺産
姫路城は、1993年(平成5年)12月に「法隆寺地域の仏教建造物」とともに世界遺産(文化遺産)に登録されました。
登録が認定された理由としては、
・設計技術と装飾美が木造城郭建築の最高峰であり、人類の創造的才能を表す傑作であること
・天守群を中心に櫓や門、土塀、石垣、濠など防御にも工夫が見られる、日本独自の城郭構成を表す代表的な建造物であること
世界中には多くの文化財・景観・自然などの遺産が認定されています。そのどれものが当たり前ですが、芸術的価値、時代を象徴するものばかり。
しかし世界各地に城はありますが、石造りや煉瓦造りの城はほとんどみられません。長い歴史の中にあって火災にあうことなく保存され、平成の大修理(昭和31年~39年)により、ほぼ築城時のまま復元されました。
姫路城はこうした多くの努力の積み重ねにより、日本の城郭建築を代表する史跡建造物として評価を得ました。
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まとめ
姫路城が今なお美しい天守を残しているのは、多くの人たちの努力によるものです。
1873年(明治6年)にあった「廃城令」で、日本にあった城は一旦、陸軍の財産になりました。城塞として使用される城、そうでない城は取り壊されることになります。取り壊し寸前のところを、陸軍トップの山県有朋らの建白書のおかげで永久保存決定・修理をすることになった城の中に姫路城があったのです。
こうして、太平洋戦争の戦火を免れ、国宝や世界遺産として重要な建築として認められるまでになりました。
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