【松本城】天守は国宝に指定!構造の特徴に築城の時期。6家23代の歴代城主をご紹介
いつだれが築城
松本城ができる以前、同じ場所に「深志城」と呼ばれる城がありました。1504(永正元)年、信濃国の守護大名家・小笠原氏の家臣・島立右近貞永が林城(長野県松本市)を築きます。その支城として深志城を築城。この深志城が現在の松本城の前身であると言われています。武田信玄の信濃侵攻により国と城を追われていた小笠原家の末裔、小笠原貞慶が戻り、深志城を「松本城」へと改名しました。
現在のような形になったのは、1596(文禄5)年以降のこと。松本藩を治めていた、徳川家康配下の石川数正、その子である康長らにより連結式望楼型天守となり、小笠原貞慶の子・秀政の手により複合式層塔型天守になったと言われています。
松本城の特徴
「松本城」は、貴重な国宝5城のひとつ。そのほかには、兵庫県の「姫路城」、滋賀県の「彦根城」、愛知県の「犬山城」、島根県の「松江城」があります。
なかでも「松本城」は、天守壁面が黒々と輝いていることから、別名「烏城」とも呼ばれています。この色を出しているのは、科学塗料などではなく、天然の黒漆によるもの。紫外線に弱い漆は、年中むき出しの壁面ではたった1年で傷んでしまいます。毎年、地元の漆職人たちにより塗り替えられることで、褪せることのない烏色の美しいツヤを保っているのです。
天守は、5重6階の1596年(文禄5年)以降に、松本藩初代藩主・石川数正や子である康長によって3重4階の連結式望楼型天守へ。さらにその後、入城した藩主・小笠原秀政により5重6階の連結複合式層塔型天守へと作り上げられたと言われています。
松本城は標高590メートル、盆地内平地に位置する平地に築かれた平城です。天守は国宝として指定されていますが、ほかに乾小天守、渡櫓、月見櫓、辰巳附櫓なども国宝に指定されています。
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歴代城主6家23代
松本城は、安土桃山時代の途中から江戸時代までの約280年間で、6家23人もの武将が城主を担っていました。どの家も、徳川家康とは親しい間柄の家々が藩主を務めています。石川氏は重臣中の重臣、小笠原秀政は家康の孫と婚姻、松平直政は家康2男秀康の子であるなど、徳川家とのつながりの濃い人選。松本城がいかに重要な拠点であったかが、わかりますね。
歴代の松本城城主たちをご紹介します。
石川氏
[石川数正]
城主期間:1590(天正18)年~1592(文禄元)年
徳川家康の最古参配下のひとり。徳川家康が、駿河国(現在の静岡県)の大名・今川義元の人質だった時代から仕えており、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、多くの合戦に出陣し武功を挙げました。1585(天正13)年、突然、徳川家康の元を出奔し、豊臣秀吉の配下になります。
[石川康長]
城主期間:1592(文禄元)年~1613(慶長18)年
父・数正の死後、関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康方)に付いたことで所領を安堵(土地・財産を保証されること)。2代目藩主となるものの、領地隠匿やその他の理由により石川家は改易(身分や財産を没収されること)、康長は流刑に処されました。
小笠原氏
[小笠原秀政]
城主期間:1613(慶長18)年~1615(慶長20)年
信濃国守護大名家・小笠原氏の末裔。祖父・小笠原長時が、1548(天文17)年、塩尻峠の戦いで武田信玄率いる武田軍に敗退。徳川家康に士官しようと石川数正に仕えると、突如として数正が離反し豊臣秀吉の配下になってしまいました。数年後、秀吉の仲介のもと家康から許しを得て、徳川家康の孫・登久姫と婚姻。そして小笠原家の家督を継ぎ、関ケ原の戦いに東軍(徳川家康方)として出陣。褒美として信濃国飯田藩に5万石に移封されます。そうして1613(慶長18)年、父祖の地である信濃国松本への移封が叶いました。
[小笠原忠政]
城主期間:1615(慶長20)年~1617(元和3)年
小笠原秀政の2男。父・秀政と、兄・忠脩が1615(慶長20)年、大阪夏の陣に出陣し、ともに討死してしまいます。こうして家督を相続。兄嫁である亀姫を正室とし、亀姫と忠脩の子である長次を育てました。
戸田氏
[戸田康長]
城主期間:1617(元和3)年 ~1632(寛永9)年
[戸田康直]
城主期間:1633(寛永10)年~1633(寛永10)年
[戸田光慈]
城主期間:1726(享保11)年~1732(享保17)年
[戸田光雄]
城主期間:1732(享保17)年~1756(宝暦6)年
[戸田光徳]
城主期間:1756(宝暦6)年~1759(宝暦9)年
[戸田光和]
城主期間:1759(宝暦9)年~1774(安永3)年
[戸田光悌]
城主期間:1774(安永3)年~1786(天明6)年
[戸田光行]
城主期間:1786(天明6)年~1800(寛政12)年
[戸田光年]
城主期間:1800(寛政12)年~1837(天保8)年
[戸田光庸]
城主期間:1837(天保8)年~1845(弘化2)年
[戸田光則]
城主期間:1845(弘化2)年~1871(明治4)年
戸田康長は、1562(永禄5)年、三河国(現在の愛知県西部)で誕生。徳川家の重臣で、家康の異母妹と婚姻し松平性を授かるなど、家康からの信頼厚い人物です。以降、松平康長と名乗るようになります。
1617(元和3)年、数々の武功をたたえ信濃国松本城藩主に加増移封。城下町の建設や徒士・足軽屋敷を建設、行政区画を整えるなど、藩内のインフラ整備に従事しました。
康長の死後、子である康直が家督を相続。1633(寛永10)年、信濃国松本藩から播磨国(現在の兵庫県)明石藩に移封されました。
いつしか播磨国から、山城国淀藩、志摩国(現在の三重県)鳥羽藩へ移封されていた戸田氏ですが、約90数年もの時を経て戸田氏は再び松本藩藩主へと舞い戻ることになります。
戸田光慈は1712(正徳2)年、淀藩初代藩主松平光煕の三男として誕生。兄2人、父の死に伴い、戸田松平家6代目当主として、1717(享保2)年に家督を相続しました。そして1725(享保10)年、戸田家は再度、信濃国松本藩へ移封となります。「英名の人」と呼び声も高く、良い治世を松本藩へともたらしました。
時は流れ、幕末の頃。1845(弘化2)年、江戸時代最後の藩主・戸田光則が家督を相続し、松本藩藩主となります。北越戦争、会津戦争を新政府軍として参戦。1869(明治2)年、版籍奉還を許可され知藩事となるも、廃藩置県で免官。1892(明治25)年に生涯を終えることとなります。
松平氏
[松平直政]
城主期間:1633(寛永10)年~1638(寛永15)年
松平直政は、1601年(慶長6年)に結城秀康の3男として誕生。秀康は徳川家康の2男であり、直政は家康の孫にあたります。父は武芸の腕は一級品と称されるほどで、子の直政も劣らず武勇に優れていました。大坂の陣では、真田信繁(幸村)の守る真田丸を破るなど多くの戦功を挙げています。数々の国を歴任し1633年(寛永10年)に、信濃国松本藩に移封。月見櫓、辰巳附櫓の建築、城門の修復などを行いました。
堀田氏
[堀田正盛]
城主期間:1638(寛永15)年~1642(寛永19)年
1609年(慶長13年)に誕生。継祖母が3代将軍・徳川家光の乳母・春日局であったため近習に取り立てられ、瞬く間に出世。江戸幕府の老中を務めるなど、重要な役職を担う重要な人物でした。
水野氏
[水野忠清]
城主期間:1642(寛永19)年~1647(正保4)年
[水野忠職]
城主期間:1647(正保4)年~1668(寛文8)年
[水野忠直]
城主期間:1668(寛文8)年~1713(正徳3)年
[水野忠周]
城主期間:1713(正徳3)年~1718(享保3)年
[水野忠幹]
城主期間:1718(享保3)年~1723(享保8)年
[水野忠恒]
城主期間:1723(享保8)年~1725(享保10)年
水野宗家6代、水野忠重の四男として1582年(慶長5年)に誕生。水野忠清は徳川秀忠の家臣として仕え、関ヶ原の戦いに参戦しました。さらに大阪冬・夏の陣でも武功を挙げたものの、論功行賞(武功にふさわしい賞を話し合う会議)でほかの大名と揉めたため、徳川家康より閉門(家の門を閉ざし人の出入りを禁じた上で、自身も室内に籠もる刑罰)を言い渡されることに。家康が亡くなる直前に閉門を解かれ、1642年(寛永19年)に信濃国松本藩に移封となりました。
明治維新以降
松本城最後の城主・戸田光則は、1869(明治2)年に信濃国のどの藩よりも最初に、版籍奉還を申し出ています。1871(明治4)年に廃藩置県が行なわれ、松本藩は松本県となりました。
二の丸御殿は県庁となり、松本城本丸・天守は1871(明治4)年に松本県から兵部省によって管理されることになり、正式に政府のものになります。それにより、天守は残されるものの、城郭、櫓、諸門、塀は壊されることに。
1930(昭和5)年には、松本城は国宝に指定され、これを機に城の管理は松本市へ移管されました。
1945(昭和20)年、太平洋戦争が終結したあとは、松本城は公園化が進められます。二の丸を中央公園とした緑化事業や、日本民俗資料館(現在の松本市立博物館)の建築などを通じて、松本城は新たに生まれ変わります。児童遊園や小動物園なども設けられ、人々が自由に出入りできる場所へと変化していきました。
まとめ
国宝・松本城、通称を外壁の黒色から例えて「烏城」とも呼ばれる城です。
松本城以前の名前を「深志城」と言い、この土地を守ってきた信濃国守護大名・小笠原家の築城によるもの。武田信玄の信濃侵攻に耐え、徳川家康の家臣たちによる城の改築・城下町の整備など多くの大名たちの手のかかった城になっています。江戸幕府の間だけで23人もの藩主がおり、どの人物も魅力的で優秀な武将ばかり。遊びに行く際は、そんな彼らに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
青く澄み渡った空のもと、黒くきらめく外壁の天守が堀の水面に映る姿は、本当に美しい光景です。ぜひ、国宝・松本城に訪れてみてください。
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