【枕草子】世界最古の随筆文学!作者の清少納言とは?枕草子の内容にあらすじ紹介
この記事の目次
枕草子とは
なぜ清少納言が枕草子を書くことになったのか
「枕草子」は、平安時代の女性「清少納言」によって執筆された随筆です。「随筆」は筆者の経験や考えをまとめた散文のことで、現代では「エッセイ」とも言います。書き始めの年代は正確には分かっていませんが、完成したのは1001年(長保3年)と言われています。
書かれた経緯として、清少納言の仕えていた主「中宮定子」(中宮は天皇の后の別名。定子は藤原定子と言い、父は藤原道隆)に大量の紙が贈られました。
当時、紙はとても貴重な品でした。定子が届いた紙を見て「この紙は何に使ったらいいかしら」と清少納言に問います。
これに対して清少納言は「枕に使ってはいかがでしょうか」と答えました。
諸説ありますが「枕」とは、中国の「白楽天」の書いた「白氏文集」という詩に「役所にいても仕事がないので、老長官の私は書物を枕にして昼寝をしている」という記述を元にしていると言います。
このユーモアに満ち、教養高い返答に定子は大満足。清少納言は、貴重な紙を受け取り、主・定子の周りで見たこと、聞いたことを書き留めていきます。これがのちの「枕草子」です。
清少納言とは
清少納言の家族構成
実は、清少納言とは本名ではありません。この清少納言は、彼女が宮仕えをする際に用いていた「女房名」です。
「清」は実家の性が「清原」と言い、ここから取られていると分かりますが、「少納言」は朝廷の官職名です。しかし、彼女の親類にはこの官職だった者はおらず、由来は不明とされています。
父は歌の名手「清原元輔」という人物。「梨壺の五人」と呼ばれ、和歌集の編纂を行なうなど、文才に長けていました。曽祖父、または祖父にあたるとされているのが「古今和歌集」に歌が掲載されている歌人の「清原深養父」です。歌人の家に生まれ育ちましたが、清少納言はあまり歌が得意ではなかったと言います。どちらかと言えば、漢詩を学ぶことの方が得意で、歌はできれば披露したくないとも言っていました。
宮仕えをすることになった経緯
教養高く才能に溢れた清少納言の評判は、当時、朝廷で大変な権勢を誇っていた藤原道隆の耳に入ります。このとき、娘の定子が一条天皇に入内(じゅだい)しており、藤原道隆は定子に優秀な女房(にょうぼう)を付けたいと考えていました。女房とは、宮中で仕える女官のことです。そこで、白羽の矢が立ったのが清少納言でした。
宮中での暮らし
993年(正暦4年)に、清少納言は宮仕えを開始しました。清少納言は28歳、主人の定子は18歳。清少納言は、誰よりも物知りでしたが、緊張のあまり人前でうまく振る舞えないほど、人見知りで緊張しがちな面を持っていました。
雪の降る季節に定子は女房達を締め切った部屋に集め、清少納言に「香炉峰の雪はどうかしら」と言います。これに対し清少納言は人に命じて部屋の格子を上げさせ、御簾を高く上げて外に広がる雪景色を見えるようにしました。「香炉峰の雪」とは、中国の詩人「白居易」の「香炉峰の雪は簾をかかげて見る」という詩の一節で、定子は「雪が見たいから簾を上げてほしい」と言っていたのです。
清少納言の機転を利かせた返しに女房達は感心し、清少納言はすっかり打ち解けることができるようになりました。清少納言と定子は、10歳も年が離れていましたが、思慮深い定子に清少納言は徐々に心を開いていくようになります。こうして清少納言は、元来の明るさや才気煥発さを遺憾なく発揮させることができるようになりました。そして、この二人の信頼関係については、枕草子の随所に表れています。
晩年の暮らし
定子の父・藤原道隆が995年(長徳元年)に亡くなると、定子の立場も危うくなりました。
一条天皇に娘・彰子を入内させていた、藤原道隆の弟・藤原道長に権力が移り始めます。これを阻止しようと、藤原道隆の長男・藤原伊周が追い落としにかかります。結果として、藤原伊周は政争に負け左遷。懐妊して宮廷を退出し、自邸にいた定子は出家してしまいます。
やがて定子が宮中に招き入れられ1000年(長保2年)に難産で亡くなると、清少納言は宮仕えを辞めます。その後の人生の詳細は、不明な点も多いのですが、再婚した藤原棟世と共に暮らしたとも言われています。
紫式部との関係
源氏物語の作者である紫式部は、清少納言の主・定子と同じく一条天皇の后のひとり、彰子に仕えた女房でした。
清少納言とほぼ同時代を生きたとされる紫式部は、清少納言についてこのように書いています。「清少納言は、得意顔で偉そうにしているだけの人です。利口ぶって女のくせに漢字を書き散らしていますが、よくよく見ると生半可なところがたくさんあります」と痛烈に批判。
紫式部の主・彰子は、定子が一条天皇のお気に入りであったことから、長く不遇の時代がありました。このことから、定子に仕え才能ある清少納言を敵視していた可能性もあります。
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枕草子の内容・あらすじ
出展:国立国会図書館デジタルコレクション
冒頭
春は曙。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫立ちたる雲の細くたなびきたる。
[現代語訳]
春は、なんといってもほのぼのと夜が明けるとき。だんだんとあたりが白んで、山のすぐ上の空がほんのりと明るくなって、淡い紫に染まった雲が細くたなびいているようす。
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
[現代語訳]
夏は、夜がすてきだ。月が出ていればもちろん、闇夜でも、ホタルがいっぱい飛び交っているようす。また、ほんの一つ二つ、ほのかに光っていくのもいい。雨の降るのも、また、いい。
秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
[現代語訳]
秋は、夕暮れ。夕日が赤々と射して、今にも山の稜線に沈もうというところ、カラスがねぐらへ帰ろうと、三つ四つ二つ三つなど思い思いに急ぐのさえ、しみじみと心にしみる。まして、カリなどで列を連ねて渡っていくのが、遥か遠くに小さく見えるのは、なかなかにおもしろい。すっかり日が落ちてしまって、風の音、虫の音などがさまざまにかなでるのは、もう言葉に尽くせない。
冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。
[現代語訳]
冬は早朝。雪が降り積もっているのはもちろんのこと、霜が真っ白に降りているのも、またそうでなくても、はりつめたように寒い朝、火などを大急ぎでおこして、炭火を部屋から部屋へ運んでまわるのも、いかにも冬の早朝らしい。昼になってだんだんと寒さが緩むと、火鉢の炭火も白く灰をかぶってしまって間の抜けた感じだ。
切り取った絵のような文
清少納言の表す文章は、一瞬一瞬の出来事を書き留めているような印象。
何気ない日々の、何気ないワンシーンをリズム良く刻んでいます。「春は曙~」から続く情景も、朝の太陽が登るほんの数分のことです。それでいて、この短い文章の中には、多くの光と空気と色彩が溢れています。このように、清少納言は漢詩などの才覚だけではなく、感受性が豊かであることも分かります。
第二十五段の「にくきもの」では、「お酒を飲んで騒いでいる人が、他の人に無理にすすめている様子は癪にさわる」など、現代でもありそうな出来事を思わずくすっと笑ってしまいそうな抑揚で書いています。
感受性も豊かですが、観察眼にも優れた人物だったのではないかと考えられます。
まとめ
清少納言は、歌人の父を持ち、漢詩などが得意な明るく機智に富んだ人物でした。
そんな才能を持っていたことで、ときの権力者である藤原道隆に見いだされ、一条天皇の后・定子に仕えることになります。ここで清少納言は、定子に信頼され、枕草子を書くきっかけを得ます。
宮中で見聞きした出来事を、自由に文字にしたためました。飾らない表現や、正直な意見、自然の美しさを表した文章は、今なお世界中の人々から愛されています。
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