【茶人】武家社会のあいだで広まった武家茶道とは!? 特徴的な点前に代表的な大名茶人
この記事の目次
武家茶道の歴史
茶の湯を芸術の域にまで高めた千利休には、町人だけではなく多くの武士の弟子たちがいました。
なかでもよく知られているのが蒲生氏郷(がもううじさと)や細川忠興(ほそかわただおき)など「利休七哲(りきゅうしちてつ)」と呼ばれた7人の武将たちです。利休の茶の湯は当時の武将たちにも深く浸透し、もともと堺の商人たちの教養であったものが、桃山時代には広く武士たちのあいだで受け入れられていきます。
この流れを引き継ぎ、江戸時代に武家社会のあいだで広まった茶道を武家茶道と呼んでいます。
特に江戸幕府の2代将軍の徳川秀忠に古田織部が、3代将軍の徳川家光に小堀遠州が、4代将軍の徳川家綱に片桐石州が茶道を指南したことにより、武家流の茶道が大きな影響力を持つようになります。
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武家茶道の特徴的な点前
武家茶道の点前には、日常の武士の作法がそのまま取り入れられています。
例えば、お辞儀をする際、武家流の点前では、町衆茶道のように手のひらを畳につけるということはしません。軽く拳を握ってゲンコツを作り、腰の横に手を置いて頭を下げたり、指先だけ畳に着けてお辞儀をしたりするのが一般的です。
また、道具を清めるときに使う袱紗(ふくさ)は、町衆茶道が左腰に付けるのに対し、武家茶道では右腰に付けるのが一般的です。これは左腰には武士のシンボルともいえる日本刀を差しておかないといけないため、空いている右側に袱紗を付けるからです。
さらに、茶室のしつらえや使用する道具にも若干の違いが存在します。利休が大成した茶の湯を「侘び茶」とも呼ぶことからも分かるように、町衆茶道では小さな茶室に質素な道具が好まれることが多いです。それに対し武家の茶では、将軍を迎える式典で用いられていたこともあり、大きな部屋を用意し、比較的豪華で細工に富んだ道具を好んで使うという特徴があります。
武家茶道をけん引した代表的な茶人
ここからは茶道を好んだ代表的な大名を紹介していきます。
彼らは大名茶人と呼ばれることもあり、その影響力により武家の茶道文化の形成に多大な功績を残した人物でもあります。
古田織部[ふるたおりべ]
1543年~1615年
利休が亡くなった後、2代将軍徳川秀忠に茶の指導を行ったことから、天下一の宗匠としての地位を確立します。武家の茶の湯の作法を完成させるとともに、創意に満ちた茶道具を作り出したことでも有名です。現在では織部自身のことを指す「へうげもの(ひょうげもの)」という言葉も、元来は織部が使用した意図的に変形させた茶碗を評価したものです。
小堀遠州[こぼりえんしゅう]
1579年~1647年
千利休、古田織部の後に中心的な茶人として活躍したのが小堀遠州です。その茶風は華やかで明るい雰囲気を感じさせることから「きれいさび」と呼ばれ、安定志向が強まる時代に受け入れられていきます。白色をメインとした端正で華麗な茶碗を多用し、茶室も明かり取りの窓をたくさん設えた京都の金地院にある「八窓席(はっそうせき)」などを造営しました。また、茶室に限らず、桂離宮や二条城、名古屋城などの建築にも類まれな才能を発揮した人物として知られています。
片桐石州[かたぎりせきしゅう]
1605年~1673年
小堀遠州の後を継いで、4代将軍徳川家綱の茶道指南役となった人物が、大和小泉藩1万3000石余を領有した片桐石州です。3代将軍徳川家光の異母弟にあたる保科正之の推挙によって茶道指南役となり、江戸幕府に公認されたことで石州流は当時の茶道の主流とまでなりました。「剣は柳生、絵は狩野、茶は石州」と言われるほど石州流は武家社会に浸透し、参勤交代の制度も相まって全国の武士たちに広まっていきます。
松平不昧[まつだいらふまい]
1751年~1818年
松江藩7代藩主の松平不昧は、石州流を基本に三斎流などの他の流派を取り込みながら自身の茶道を確立していきました。藩主として財政再建に立ち向かうなかで、出雲地方の工芸品の振興や茶道具の研究を行い、茶の湯文化の発展に大きく貢献した人物でもあります。特に由緒ある茶道具の格付けを行った『古今名物類聚(ここんめいぶつるいじゅう)』は、後世の茶道研究に大きな影響を与え、これをもとにした茶道具の分類方法が現在でも利用されています。
井伊直弼[いいなおすけ]
1815年~1860年
彦根30万石の大名だった井伊直弼は、桜田門外の変で暗殺された人物としてよく知られています。安政の大獄による弾圧などから、強権的な政治家のイメージが強いですが、茶の湯に対して終生一貫した情熱を持っていました。茶会の開催や茶道具の制作などを行うなか、1857(安政4)年に完成した『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』には、現在でもよく使われる「一期一会」という言葉がでてきます。参加した茶会は一生に一度のものなので、大切にしなければならないという意味が込められており、精神的な深い交わりを理想とした井伊直弼の考えが表れています。
おわりに
江戸時代に隆盛した武家茶道は、各地の大名などの武士階級によって広まっていきました。
今では町衆茶道が一般的ですが、武士たちによって育まれてきた茶の湯も日本文化の一面を表わしているので、新たな気づきを与えてくれるかもしれません。
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