【浮世絵】一度は見たことある!浮世絵と有名絵師たちのすべて
浮世絵とは
浮世絵は江戸時代に生み出された、庶民の日常生活などを題材にした絵画です。美人画、役者絵、武者絵、風景画・名所絵、春画など、さまざまなテーマで描かれました。絵入本の挿絵を、浮世絵師の菱川師宣が一枚の独立した商品として売り出したのが始まりといわれています。はじめの頃は墨一色でしたが、木版の技術が進むと浮世絵師の鈴木春信によって多色刷りの浮世絵があみだされました。すると錦のように美しいことから錦絵と呼ばれるようになり、浮世絵は江戸の店先を華やかに彩ったそうです。
肉筆浮世絵と浮世絵版画
浮世絵は 肉筆浮世絵 と 浮世絵版画 があります。
肉筆浮世絵は直接紙に筆で描いた一点もので、非常に高価なものでした。歴史は古く、浮世絵のはじまりは肉筆浮世絵が主だったそうです。
浮世絵版画は木の板に絵を左右逆に彫り、色を塗って紙に絵を転写したものです。同じ絵を大量に生産することができ、庶民の手が届く金額で買うことができました。一般的なサイズの大判錦絵(縦39㎝×横26.5㎝)は現代の貨幣価値に換算すると20文(約400円)。
ちなみに、かけ蕎麦一杯は16文(約320円)で食べられていました。
出典:Wikipedia
肉筆浮世絵で有名な「見返り美人図」菱川師宣筆
浮世絵版画のつくり方
浮世絵版画は、絵を描く「絵師」、版木に彫る「彫師」、紙に摺る「摺師」というそれぞれの工程を専門家が分業でつくり、その制作全体を「版元」が統括しました。
1.版元が企画・制作依頼をする
版元は、地本問屋(娯楽用絵入り本を出版する本屋)または絵草紙問屋(挿絵を入れた読物や錦絵を売る本屋)と呼ばれ、浮世絵の制作依頼や出版・宣伝・販売を行うところです。どんな浮世絵をつくるか企画し、作品のテーマや予算に合った絵師に制作依頼をしました。浮世絵をつくるには、版元のセンスも重要でした。
2.絵師が下絵を描く
絵師は墨一色だけで版下絵という下絵を描き、そのあと下絵を版木に墨で写します。
3.検閲
出版許可の検印・版元印が押されます。
4.彫師が版木を彫る
彫師は、下絵を版木に裏返しに貼付けて、墨版(主版)という墨一色の版を彫ります。
5.摺師が墨版を摺る
摺師が墨版から墨一色の絵を紙に摺ります。これを校合摺といいます。
6.絵師が色を指定する
校合摺は絵に必要な色の数だけ摺られるので、一枚ずつ絵師が校合摺に色さし(色の指示)をします。
7.彫師が色ごとに版木を彫る
彫師は絵師の色さしに沿って、色の数だけ色版という版木を彫ります。
8.試験摺をして初摺の完成
版元と絵師が立ち会い、摺師が色を塗った各色の版木の上に紙を置いて、一枚の紙に摺っていきます。試験摺を見て、絵師は彫りや色合いを確認し、修正指示をします。こうして完成した浮世絵を初摺といいます。ちなみに、初摺が売れると本が売れて増刷するのと同じように、増し摺りします。これを後摺といいます。
摺師が一日に摺る分量は“一杯”と呼び、一般的に初摺は一杯(200枚程度)だそうです。十杯(2,000枚)も売れると評判の良い方で、さらに人気のあった歌川広重の「東海道五十三次」は、作によっては五十杯(10,000枚)以上も摺られたそうです。
最も多く売られた浮世絵は、絵柄の山の稜線が消えるほど版木が摩耗していることから、葛飾北斎の「凱風快晴(赤富士)」ではないかといわれています。
有名な絵師と浮世絵
葛飾北斎
「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」 葛飾北斎
出典:Wikipedia
葛飾北斎は江戸の本所(墨田区)で生まれ、19歳の時に人気浮世絵師、勝川春章に弟子入りしました。
当初、役者絵や美人画、相撲絵などを描いていました。しかし満足できず、狩野派、大和絵、西洋画など諸派の技法を学び、独自の画風を築いていきました。
「冨嶽三十六景」は、72歳の時に発表した富士山をさまざまな視点から描いたシリーズです。
実はこのシリーズ、好評だったため36点で終わらず、46点で完結します。先の36点は描線が藍摺で「表冨士」と呼ばれ、後の10点は描線が墨摺となっており「裏冨士」と呼ばれています。世界的にも有名なのがこの「神奈川沖浪裏」。ご存知の方も多いのではないでしょうか。躍動的な波の動きが印象的なこの作品は、様々な技法が用いられ、構図は緻密に計算して描かれました。透き通るような美しい青は、西洋から輸入されたベロ藍(プルシアンブルー)という藍色で、幻想的な雰囲気を演出しています。
歌川広重
「東海道五十三次 庄野 白雨」 歌川広重
出典:Wikipedia
歌川広重は、江戸の定火消(幕府直属の消防隊)同心の家に生まれました。
13歳の時に両親が亡くなり、家督を継ぎます。しかし、幼い頃から絵が得意だった広重は、好きな絵を捨てらませんでした。そして15歳の時に歌川派の絵師、歌川豊広に弟子入りします。定火消同心の仕事をするかたわら、はじめは美人画や役所絵を描きましたが、あまり振るいません。27歳で絵師に専念し、その10年後に出版した「東海道五十三次」が大ヒットしました。
「東海道五十三次」は江戸と京都を結ぶ東海道の宿場53カ所に、江戸の日本橋、京都の三条大橋を加えた全55点の風景画です。
広重は、絵では表現しにくい雨や風など、自然現象の表現に優れていました。広重の雨といえば「東海道五十三次 庄野 白雨」。線の太さや濃淡の斜線の組み合わせ、広重の描く雨に同じものはないそうです。そして木版画では雨を表現することは難しく、彫師と摺師の高度な技術によって、臨場感ある広重の風景画は生み出されました。
東洲斎写楽
「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」 東洲斎写楽
出典:Wikipedia
東洲斎写楽は、役者絵や相撲絵など140点あまりの作品を発表し、忽然と姿を消した謎の絵師です。
蔦屋という版元から、大首絵でデビューしました。大首絵は、歌舞伎役者などの上半身や顔を大きく描写したもので、今でいえば人気俳優のブロマイドのようなものです。写楽は理想的な美しい姿を描くのではなく、役者の顔の特徴や表情を極端に誇張し、欠点も隠さず描きました。しかし、当時の江戸の庶民にとって歌舞伎は大きな娯楽であり、歌舞伎役者は憧れの的。ファンには不評だったようです。
「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」はデビュー作として発表された28点のうちの1点。三代目大谷鬼次が、見得を切った瞬間を描いた「恋女房染分手綱」の一場面です。有名な作品ですが、実はこの役者が演じているのは悪役です。背景はコストの高い黒雲母摺という手法で摺られ、真珠のような光沢があります。
喜多川歌麿
「婦女人相十品・ポッペンを吹く娘」 喜多川歌麿
出典:Wikipedia
喜多川歌麿の生涯については定かではありませんが、江戸の住人であったと確認されているそうです。
歌麿は版元の蔦屋重三郎に才能を見込まれ、小説の挿絵などを描いていました。1787年に寛政の改革が始まり、幕府が風紀を乱す本や政治を批判する本を厳しく取り締まるようになります。浮世絵にまで規制が及びますが、規制をくぐり抜け生みだされたのが美人大首絵です。これが大人気となり、歌麿は美人画の第一人者として活躍しました。女性の品の良い美しさを繊細に描くことでは、右に出る者はいなかったそうです。
「婦女人相十品・ポッペンを吹く娘」は「婦女人相十品」シリーズに収められているひとつです。この作品に描かれている市松模様の着物とポッペンは、当時流行していたもので、美人画は最新の流行をとらえたファッション誌のような役割も果たしました。
歌川国芳
「相馬の古内裏」 歌川国芳
出典:Wikipedia
歌川国芳は江戸の日本橋に生まれ、幕末に花開いた浮世絵師です。
幼い頃から北尾重政や北尾政美の絵本を見て、人物の描き方を身につけたといわれています。12歳の頃に描いた絵が初代歌川豊国の目に留まり、15歳で豊国に弟子入りしました。それから、師匠の豊国が亡くなった後の1827年頃「通俗水滸伝豪百八人」という「水滸伝」シリーズを発表しました。当時文芸界は水滸伝ブームで、国芳の絵はたちまち評判となり「武者絵の国芳」と呼ばれるほどの地位を築きます。
「相馬の古内裏」は、ダイナミックな構図が得意な、国芳らしい作品のひとつです。1806年に出版された山東京伝の読本「善知安方忠義伝」の大宅太郎光国と滝夜叉姫が対決する場面を描いています。読本の中では数百の骸骨が現れて合戦を繰り広げるのですが、国芳は1体の巨大な骸骨を画面いっぱいに描きました。骸骨は解剖学的に見ても正確に描写されているといわれています。
まとめ
江戸時代の庶民に愛された浮世絵。
素晴らしい浮世絵は、絵師の腕はもちろん、彫師や摺師という職人たちの高度な技術に支えられていました。人気の浮世絵は大量に摺られたため、今でも同じ浮世絵が国内外の有名な美術館や博物館に所蔵されています。
保存状態により色味などが異なるので、浮世絵の展示を見に行く際は、ぜひ見比べてみてはいかがでしょうか。
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