【五街道】日本橋が起点!大名の往来から庶民の旅行まで、五街道が果たした役割
五街道の歴史
関ヶ原の戦いの後、徳川家は江戸と各地を結ぶ交通網の整備に取り掛かります。
道幅を広げ砂利などを敷いて路面の基礎を築くとともに、一里(約4km)ごとに一里塚が設けられ、荷物や文書をリレー方式で輸送する「伝馬制(てんませい)」が敷かれます。伝馬制は駅伝制とも呼ばれ、宿場ごとに人馬を用意し次の宿場まで荷物を運びリレー方式で目的地まで運ぶ仕組みです。
3代将軍の徳川家光の時代になると参勤交代が制度化されると、旅の拠点となった宿場は大名や天皇の使いが宿泊する「本陣(ほんじん)」や一般旅行者が泊まる「旅籠(はたご)」が整えられていきます。また、日本橋を起点として全国に放射線状に延びた五街道は、大名が往来する重要な幹線道路となります。江戸時代後期になると、庶民階級においても神社仏閣を巡る旅行が身近なものとなり、五街道の交通量はよりいっそう多くなります。
一方で「入り鉄砲に出女」という言葉に象徴されるように、箱根をはじめとする関所では江戸に入る鉄砲と江戸から出る女性を厳重に取り締まりました。反乱を防ぐため鉄砲の持ち込みは厳しく制限され、江戸から出る女性は人質となっている大名の妻子である可能性があったため検問の対象となりました。
五街道の経路について
東海道
(日本橋(江戸)から三条(京都)まで)
現在でも新幹線の名称としても知られている東海道は、海沿いの重要都市を通り京都につながる街道です。五街道のなかでも最も利用者が多く、約490kmの区間に53の宿場が整備されていたことから、東海道五十三次とも呼ばれます。
京都以西においても大阪まで続く京街道 (もしくは大坂街道と呼ばれる)が整備され、現在の国道1号の前身となっています。一方で軍事的な理由から橋や渡し船が用意されていない河川もあり、水位が上昇すると東海道での移動は制限されるということもありました。
[わつなぎオススメ記事]
【浮世絵】歌川広重「東海道五十三次」江戸から京都まで解説![日本橋〜掛川編]
中山道
(日本橋(江戸)から三条(京都)まで)
東海道と同じく江戸と京都を結ぶ街道で、美濃(岐阜)信濃(長野)上野(群馬)などの山道を通ることから、別名「木曽街道(木曽路)」とも呼ばれています。(狭義には中山道のうち信濃国木曽を通る区間のみを木曽街道と呼ぶ)約530kmの区間に69の宿場が置かれ、海沿いを通る東海道と比べ走行距離は長いものの、大河の氾濫や人の往来に伴う交通渋滞は起こりにくい道路でした。
長期にわたる足止めがないことから大名や皇族の輿入れに利用されることが多く、14代将軍徳川家茂の正室である和宮(かずのみや)も中山道を通って京都から江戸に向かいました。
甲州街道
(日本橋(江戸)から下諏訪(長野)まで)
甲州街道は日本橋から甲府を通り下諏訪までを結ぶ街道で、現在の国道20号とほぼ同じルートを辿っています。
200kmあまりの区間に44の宿場があり、下諏訪宿で中山道と合流し、その後は中山道を通って京都に向かうことができます。甲州街道は軍事的な拠点である甲府への経路を確保するために整備され、五街道のなかで最も遅くに完成し参勤交代で利用する藩も少ない街道でした。
日光街道
(日本橋(江戸)から日光(栃木)まで)
日本橋を起点として日光まで続く街道で、徳川家康が祀られている日光東照宮への参詣に利用されました。
総延長は約130kmと五街道の中で最も短いのですが、東海道に次いで2番目に整備され、参勤交代でも多くの大名が利用しました。神社仏閣への参詣は江戸時代にも庶民に許可されていた旅行の理由だったため、日光街道は東照宮に訪れる主要な街道として賑わいました。
奥州街道
(日本橋(江戸)から白河(福島)まで)
寛永年間(1624年から1644年)を中心に整備された奥州街道は、その名称のとおり奥州(東北)に向かうための街道です。
幕府管轄の区間としては福島の白河まででしたが、実際には沿道各藩によって整備された青森県の三厩(みんまや)までを指すことが多く、場合によっては松前街道や福山街道とも呼ばれた函館までのルートを含むこともあります。江戸時代初期には主に東北諸藩の参勤交代で利用され、江戸時代中期以降になると蝦夷地開発、幕末にはロシアとの外交で交通量が増加した街道です。
おわりに
五街道から分岐する道や五街道の延長となる主要な街道を脇往還(わきおうかん)や脇街道と呼んでいます。
東海道から分岐して伊勢神宮に至る「伊勢路」や京都から瀬戸内海沿いの山陽方面を通り下関へと続く「西国街道(山陽道などとも呼ばれます)」が著名な脇街道です。
江戸時代に整備されたこれらの街道は現代の交通網の基礎となっており、今でも実際に歩いて体感できるルートもあるので、今回の記事をきっかけに興味を持ってくれたら嬉しいです。