【密教】最澄と空海の違い! 比叡山延暦寺の天台宗と高野山金剛峯寺の真言宗
この記事の目次
密教とは
密教(みっきょう)とは、インドで生まれた仏教の教えの中で秘密の教義や仕来り儀礼を師匠から弟子へ口伝で伝える教えのことで、日本へは高野山の「真言宗(しんごんしゅう)」の祖である空海(くうかい)と比叡山(ひえいざん)の「天台宗(てんだいしゅう)」の祖である最澄(さいちょう)、そして最澄の弟子であり天台宗の宗主(そうしゅ)となった円仁(えんにん)や空海の甥で最澄の孫弟子になる円珍(えんちん)が日本へと伝えました。
真言宗の密教は「東密(とうみつ)」天台宗は「台密(たいみつ)」と呼びそれぞれの宗派で密かに伝えられています。
それぞれの大きな特徴としては「東密」は大日如来(だいにちにょらい)と釈迦如来(しゃかにょらい)は別の仏であり、大日如来が仏の中の最高の仏と考えるのに対して「台密」は釈迦如来の異名が大日如来であり、大日如来と釈迦如来は同一の仏であると考えています。
また、真言宗は、“密教の宗派”。天台宗は、“あらゆる教法と融合した教えの一つ”という違いがあります。
天台宗開祖の最澄
出典:Wikipedia
天台山で学ぶ
最澄は766年に比叡山の麓である滋賀県大津市坂本本町のあたりで生まれ、12歳の頃に滋賀県にあった国分寺に入門し14歳で得度を行い、19歳の時に奈良の東大寺で具足戒(ぐそくかい)を受けて国家に正式に認められた公務員の僧侶となりました。
しかし、奈良仏教の腐敗に絶望した最澄は、鑑真(がんじん)が広めた「人々を苦しみから救う仏の教え」とは程遠い現実を知って、わずか3カ月後に比叡山に籠こもり修行を始めたのです。
政治介入していた僧侶や貴族に危機感を持っていた桓武(かんむ)天皇は、そんな最澄の話しを聞いて天皇に直接仕える内供奉十禅師(ないぐぶじゅうぜんじ)に任命し、804年に仏教を学ぶ留学生として遣唐使として送り出しました。
天台宗の開宗
天台宗の本山である延暦寺は元々は、最澄が比叡山で「本当の人々を救うための大乗仏教」の研究と荒行に励む傍かたわらで霊木(れいぼく)から彫った薬師如来像(やくしにょらいぞう)を山頂の一乗止観院(いちじょうしかんいん)と名付けた小堂に安置した場所が今日の延暦寺の根本中堂(こんぽんちゅうどう)で、ここでの修行を聞いた桓武天皇に召し抱えられ遣唐使に指名されました。
最澄は1年間、唐(中国)で天台教学、大乗菩薩戒、密教、禅を学び帰国し、知識と経験を元に延暦寺で天台宗を開宗しました。
貴賤(きせん)も生まれも関係なく全ての人々を救う「菩薩僧(ぼさつぞう)」を目指した最澄の教えは822年6月に入寂(にゅうじゃく)した後にも弟子たちによって受け継がれ「大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の法華一乗(ほっけいちじょう)」の考えは、現在の13の宗派のほとんどの祖が学び、それぞれの「衆生(しゅじょう)の救済」へと旅立っていったのです。
その事から延暦寺は日本仏教の母山と言われ、現在も天台宗だけでなくここで学んだ多くの宗祖の像が祀られたお堂もあり現在も多くの人々を救う教えを続けています。
天台宗はまさに「全ての教え仏教を包括する」宗派といえるのです。
比叡山延暦寺
比叡山延暦寺はその名前の通り比叡山という山そのものにある三塔十六谷の総称で、山内の東を「東塔(とうどう)」西を「西塔(さいとう)」北を「横川(よかわ)」と3つの地域に区分し、それぞれに本堂があります。
延暦寺の総本堂は東堂地域にある根本中堂で、ここには最澄が彫った薬師如来像を本尊として厨子ずしに納められ、一般公開されない秘仏(ひぶつ)となっています。
さらにこの厨子の前には3つの釣り灯篭(とうろう)があり、そこに灯された明かりは延暦寺が開山された頃から灯る「不滅の法灯(ふめつのほうとう)」と呼ばれる聖火で朝晩に油をつぎ足し1200年以上絶えることなく灯され続けています。
この灯火(とうか)は織田信長の焼き討ちの際に一度は消失したのですが山形の立石寺に分灯されていた為に再び延暦寺に戻り、灯火と最澄の「一隅を照らす」という言葉の元、多くの僧侶が戻りさらに豊臣秀吉、徳川家康の庇護のもと本来の姿を取り戻していきました。
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真言宗開祖の空海
出典:Wikipedia
長安で学ぶ
最澄を秀才型とするのなら空海はまさに天才肌の社交的な人物だったといいます。
774年に香川県の豪族の家に生まれた空海は、788年に奈良の平城京へ上京し大学寮という官僚の育成機関へ入ります。
エリートコースに乗っていましたが、19歳の時にその勉強に飽きたらず仏教の魅力にはまり修行を始め僧侶となり、22歳の時により仏教の高みを目指し大日経に出会いますがどうしても理解できない事が出てきます。
それを知るために804年に遣唐使の一人として唐に渡りますが、この頃はまだ無名の一僧侶でしかありませんでした。
最澄が1年を使い様々な仏教の勉強をしたのに対し空海は2年ほどの歳月を使い唐で密教を集中して学び、それを日本へ持ち帰り、発展させ真言密教を完成させました。
真言宗の開宗
仏の真実のことばである「真言(しんごん)」は人間の言葉だけでは表現しきれない様々な出来事の秘密を明らかにしており、その秘密を知る事ができる教えが「密教」です。
空海は密教を学ぶため唐に渡り、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果(けいか)を訪ねました。空海が来ることや、まもなく自分の寿命が尽きることを知っていた恵果は「あなたが来るのを待っていた。」と笑顔で迎え入れ、後継者として密教のすべてを伝授します。
こうして密教を学び帰国した空海は、真言宗を開宗しました。
空海は「身密(しんみつ)」「口密(くみつ)」「意密(いみつ)」の三密の修行をすることで、生きたまま仏になれる即身成仏そくしんじょぶつができると説いていて、真言密教の根幹となっています。
高野山金剛峯寺
言宗の総本山である高野山金剛峯寺(こんごうぶじ)は、和歌山県にある高野山の一体に100か所以上の寺院が点在する場所で、2004年に和歌山県三重県奈良県をまたぐ「紀伊山地の霊場と参詣道」を構成する一部としてユネスコの世界遺産に登録されています。
高野山は密教の教えを絵図にした曼荼羅(まんだら)に描かれる八葉蓮華(はちようのれんげ)のような形をしており、空海は地形に合わせて塔・堂を配置することで、立体的に曼荼羅の世界を表現しようとしました。
なぜ、高野山に密教の道場を建設したのか諸説ありますが『空海が唐から帰る際に法具である三鈷杵(さんこしょ)を明州の浜辺で取り出し、学んだ密教を広めるのに良い土地を示したまえと祈願してから投げたところ、それは雲に乗って飛んでいき高野山の松の木に引っかかっていた』などさまざまな伝説が残っています。
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最澄と空海の違い
この当時の政治は渡来人の家系が優遇される時代で、その家系だった最澄は何かと優遇される状況にありました。反対に空海は優秀な人物と言われていましたが、遣唐使として仏教を学び真言宗を開宗することで知名度を上げ、最澄と並んで平安仏教を代表する僧となります。
何かと比べられる事の多い2人はだからと言ってけっして不仲だったわけではなく、時折意見の食い違いを起こす事があっても、それぞれがそれぞれの主張や思想を認め共に別の視点から平安仏教を作り上げていきました。
その開宗後の活動も正反対にあり最澄は天台宗の道場で弟子を育てながら仏教の研究を続け今に繋がる様々な学問を残し、空海は修行の傍らで土木工事や勉強ができる場所を作ることで人々の生活が豊かになるような環境を作っていきました。
まさに正反対だった最澄と空海はそれぞれ入寂後に「伝教大師」と「弘法大師」の尊称を天皇より授かり、今も大切にその教えは守られています。
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