【新選組】信念をつらぬいた!主要幹部メンバーの役職や人物像を紹介
この記事の目次
芹沢 鴨
[せりざわ かも]
天保3年(1832年)頃に水戸藩で生まれた芹沢鴨は、本名は下村嗣次といい地元では天狗党というトラブルの多い集団に所属していました。
その際のいざこざで処刑寸前まで行きましたが釈放され、時を同じくして京都で黒船来航によって攻めてくるであろう諸外国の軍隊から「将軍を守る」という志をもった清河八郎の呼びかけに答え脱藩。その際に名前を「芹沢鴨」と改めて新見錦たち同郷の仲間と共に京都へと向かいます。
京都の壬生寺を屯所としたことから「壬生浪士組」と名乗った彼らが後の新選組となり、その初代筆頭局長として芹沢鴨は就任しました。
芹沢鴨は「大阪力士騒動」などの数々の逸話から粗暴で豪気な印象を残す人物ですが、その反面屯所としてお世話になった八木邸のお手伝いを率先して行ったり、近所の子供たちを集めては退屈しないように一緒に遊んだり絵をかいたりする世話好きで面倒見の良い一面も持っていました。
しかし組織が大きくなることで起こる様々な思想の違いや方向性の違いによる摩擦、また芹沢鴨やその配下の行いによって起きた悪評など様々な原因によって1863年(文久3年)9月16日に愛妾のお梅と共に暗殺され、これをきっかけに芹沢派の人々は壬生浪士組からいなくなったのです。
新見 錦
[にいみ にしき]
あまり記録の残っていない新見錦は天保7年(1836年)頃に水戸藩で生まれ、芹沢鴨の腹心の一人で壬生浪士組時代では芹沢局長付き副長の一人を務めた人物です。
西村兼文の「新撰組始末記」では新見錦の名前はなく、壬生浪士組の創設メンバーである「田中伊織」が新見錦であり、またこの名前は変名で本名は新家粂太郎ではないかとも言われています。
神道無念流の達人と言われ、芹沢同様に14代将軍徳川家茂が上洛する際に組織された護衛組織の浪士組に加盟して京都へ行きますが、隊士としての記録があまり残っていないません。
新選組の生き残りの一人である永倉新八の回顧録によれば法令を犯し乱暴な狼藉者でいくつもの問題を起こしては芹沢鴨や近藤勇らのいさめる言葉にも耳を貸さず、将軍警護や京都の治安維持の仕事よりも遊興に耽るような勝手な振る舞いと数々の問題の責任を取るために27歳の若さで切腹したと言われています。
しかし同じ水戸藩派閥だった芹沢鴨がそれを止めなかったことから、新見錦は実は長州の過激派とつながりがあり敵対組織に通じていたから処罰されたという説を唱える歴史家もいます。
ですがやはり詳しい記録が全くないため、彼の詳細は不明のままです。
平山 五郎
[ひらやま ごろう]
芹沢鴨の右腕にして隻眼の剣豪だった平山五郎は文政12年(1829年)に芹沢鴨と同じく水戸藩で生まれたといいます。
壬生浪士組が京都守護職会津藩御預りになった頃、組織は芹沢派と近藤派に分かれており平山五郎は芹沢派の中核として副長助勤となり浪士の取り締まりに務めました。
芹沢派の元々のナンバー2は新見錦でしたが、彼の勝手で粗暴な振る舞いに辟易していた芹沢鴨は徐々に平山五郎に信頼を寄せるようになり、常に芹沢鴨に付き添うにようなったのです。
芹沢鴨が大阪力士を切り殺した6月の「大阪力士事件」の際に胸を強打し負傷したり、8月には京都四条堀川の米屋に入った強盗を鎮圧した際に銃で撃たれて負傷したりと短い期間に怪我が絶えない中、9月に芹沢鴨が自分の思い通りにならない芸妓の小寅の態度に腹を立てて騒ぎを起こし、その際に小寅と付き添いの芸妓のお鹿の髪を切り落とすという、当時の女性にとって最大級の辱めを芹沢の命令によって行いました。
これらの多くの問題行動から朝廷から芹沢鴨の召し取り命令が下ったことで壬生浪士組を預かる会津藩が問題を収束させるために近藤勇らに密かに処分を指示したと言われ、芹沢鴨暗殺の時に平山五郎も抵抗する間もなく35歳の年齢で粛清されました。
平間 重助
[ひらま じゅうすけ]
文政7年(1824年)生まれで、芹沢鴨と同じ水戸藩の芹沢村出身の浪人だった平間重助は壬生浪士組の副長助勤となりましたが、算術が得意だったことから組の勘定方を務めた腰の低い穏やかな、もしくは小心な人物だったと言われています。
芹沢派の一人として芹沢鴨と共に行動していた平間重助ですが、元々芹沢家の用心の家系の人で、尊王攘夷派の芹沢鴨と同じ思想を持って上洛したというよりはお目付け役として付き添ったそうです。
芹沢鴨粛清の際に平間の馴染みであった輪違屋の糸里と共に玄関口近くの部屋で寝ており、襲撃に気づいて大声で助けを求めて駆け回っていたという目撃談や布団の上から切り付けられたので死んだふりをしてやり過ごし平間重助と糸里は生き残り襲撃現場の八木邸から逃げ出し行方は不明となったと言われています。
芹沢一派の中で唯一粛清を逃れ生き延びた平間重助は一説では水戸へ芹沢鴨のことを伝えに戻ったのちに新選組から追われる立場だったことから諏訪部重助と名前を変え、全国各地を流れて最後は岩手県で養蚕教師を行いながら明治23年まで生き延びたとも言われています。
近藤 勇
[こんどういさみ]
天保5年(1834年)に調布の豪農で宮川家の3男として生まれ、28歳の時に天然理心流宗家を継ぎ試衛館の道場主になります。
29歳のころに清河八郎が募集した浪士組に試衛館の門弟たちと一緒に上洛し、文久の政変での働きが認められ新選組の名前を下賜された後、芹沢一派を粛清することで名実ともに新選組局長となりました。
京都治安維持を目的に活動した近藤勇ですが、鳥羽伏見の戦いの前に御陵衛士に銃撃され負傷し大阪城で療養をします。
江戸に戻った後に兄と慕った井上源三郎の死や弟のように可愛がっていた沖田総司の離脱、盟友である原田左之助と永倉新八との別離などと、多くの変化にさらされながらも武士として将軍に仕えるために頑なに戦い続けました。
甲陽鎮部隊と改名し戦いを続けますが大政奉還によって幕府という仕えるべき主君をなくした新選組は敗戦を続け、会津を目指して北上し千葉の流山まで逃げます。
しかし拠点を新政府軍に取り囲まれた時に仲間を助ける為の時間稼ぎとして自ら官軍に投降。薩長メンバーを多く抱える新政府軍は仇敵の近藤勇を武士の名誉である切腹ではなく罪人として処刑しました。
余談ですが近藤勇の子孫と坂本龍馬の兄の子孫が結婚したそうです。かつて敵対していた勢力の家系図が繋がったところに、歴史の不思議な縁を感じますね。
土方 歳三
[ひじかた としぞう]
新選組を語るのに欠かせない鬼の副長と呼ばれた土方歳三は奥多摩の日野石田村の豪農の家に天保6年(1835年)5月5日に生まれました。
幼いころは呉服屋への奉公や家業の石田散薬の行商など様々な仕事をしながら試衛館に弟子入りし、もともとの気の強さやセンスの良さからメキメキと頭角を現します。
近藤勇の幼馴染であり親友盟友として上洛の際にもついていき、芹沢鴨暗殺をはじめとする様々な局内粛清や攘夷志士の取り締まり、そして有名な有名な局中法度(軍中法度)作りながら近藤勇を公私共に支えつつ奔走しました。
京都時代ではその苛烈さや冷酷無慈悲な取り締まりなどから鬼と呼ばれるエピソードに事欠かない土方歳三ですが、実は「豊玉」という俳名を名乗り「豊玉発句集」という個性的な俳句集を作ったり名工の刀を収集しこしらえにこだわる洒落者な文化人の一面も持っていました。
北へと敗走を続け函館政府(蝦夷共和国)を樹立する頃には気さくに部下たちに声をかけては酒をふるまい故郷の話を聞くなど、まるで菩薩のようだったと言われるほど穏やかな様子だったといいます。
常勝の将として多くの戦果をだしながらも大局的には負け続けた彼は、函館戦争の最中の明治2年5月11日に弁天台場で孤立した新選組の仲間を助けるために出陣し、一本木関門で腹部を撃たれて亡くなりました。
鬼と呼ばれ激動の時代を生き抜いた土方歳三は「武士よりも武士らしく」の信念のもとまさに桜のように咲き誇り散っていった新選組を象徴するような人物なのです。
山南 敬助
[やまなみ けいすけ]
一説では天保4年(1833年)に仙台藩で生まれた山南敬助は、武士の家だったとこもあり剣術や柔術などを極め文武に秀でた人物で、試衛館で行われた他流試合で近藤勇に敗れた際に彼の人柄に感服して慕うようになったと言われています。
この頃から後の壬生浪士組近藤派の一員として彼に付き従い、将軍警護の上洛にも一緒に向かいました。
芹沢派粛清の後に土方歳三と同じ副長として近藤勇を支え、血気に溢れた隊士が多くいる新選組の中でも穏やで親切な人柄から壬生の人々にも慕われていたといいます。
しかし元治2年(1865年)2月に書置きを残して突如脱走。その理由は解らず、脱走の翌日に大津の宿場をのんびりと歩いていた時に追手として来ていた沖田総司を見つけ自分から声をかけて連れ戻され、その後は隊規に従い2月23日に沖田総司に介錯を頼み切腹をしました。
追手は沖田総司一人であったことから他の新選組幹部からの「どうにか逃げ延びてほしい」という気持ちがあったことが伺え、また土方歳三や近藤勇が脱走の理由を何度も聞いても答えず、密かに永倉源八や原田左之助が逃亡の手配をし促しても従わなかったといいます。
享年33歳でその葬儀には隊士だけでなく壬生の人々も多く駆け付けその死を悼んだということからも彼の人柄を垣間見れます。
沖田 総司
[おきた そうじ]
新選組一番隊組長の沖田総司は、天保13年(1842年)頃に白河藩の藩士の子どもとして江戸で生まれ、9歳で試衛館の内弟子となり若くして試衛館塾頭になるほど剣術の才能に恵まれていました。
近藤勇らの上洛の際にはもちろんついていき、屯所近辺の子どもたちと鍛錬そっちのけで遊んでいては土方歳三に怒られたというエピソードが残っています。
多くのフィクション作品で薄幸で病弱な美少年と語られる彼ですが、実際は色白ながら健康的に日焼けした肌の小柄な人物で陽気な性格だったなどの身内の証言が残っています。
池田屋事件の際に結核で吐血したというのはフィクションですが、彼が肺病を患い戊辰戦争の発端となる鳥羽伏見の戦いの前には療養の為に千駄ヶ谷の植木屋でかくまわれながら療養生活を送り、日に日に弱り剣を握れない事への焦燥かられながら過ごしていたそうです。
ほかの隊士達のような政治的思想のなかった沖田総司はただただ近藤勇を慕い、忠義のためにその剣を振るい、掛け声や剣筋まで近藤勇に似ていたり、愛刀が近藤勇の虎徹に似た作風だったことからもどれほど沖田総司が彼を慕っていたかを察せられます。
そんな沖田総司は甲州鎮部隊として江戸を離れた近藤勇の安否を気にしながら、彼の死を知らぬまま近藤勇の処刑から2カ月後の1868年(慶応4年)7月にまだ20代半ばの若さで息を引き取りました。
斎藤 一
[さいとう はじめ]
天保15年1月1日(1844年)に江戸で生まれた斎藤一は永倉新八、沖田総司に続く新選組最強の剣士の一人であり居合の天才と評される人物で、数少ない新選組初期メンバーの生き残りです。
江戸で近藤勇の試衛館の道場へ出入りしていたという斎藤一が新選組に参加したのは京都で人員募集があったころと言われてます。
新選組の活動に大きく貢献し副長助勤であり三番隊組長、そして撃剣指南を務め土方歳三たちからの信頼も篤かったそうで、様々な隊内の粛清から京都市中の取り締りまで様々な任務を多くこなしてきました。
戊辰戦争勃発後に北へと逃げる本隊と共に会津入りをしますが、会津藩が交戦状態になると新選組を含む旧幕府軍はさらに北へと敗走を決定します。
しかし斎藤一は恩義のある会津を見捨てることができずに新選組を離隊し、戦火で地獄となった会津に残り戦い続けました。
その後会津藩が新政府軍に降伏すると斎藤一も投降し、藤田五郎と名前を変えて明治維新後に警察官となって西南戦争で奮戦。さらに退職後には現在の筑波大学やお茶の水女子大学の守衛や庶務などを務め晩年は会津戦争で亡くなった人々の供養を妻の時尾ともに行い、72歳の時に胃潰瘍で亡くなっています。
近年になり晩年の家族と一緒に映った写真が発見されましたが、激動の時代を生き抜いた面影がその目に見えるようです。
永倉 新八
[ながくら しんぱち]
新選組最強の剣士で初期メンバーである永倉新八は、天保10年(1839年)に松前藩の武家に生まれ、脱藩後に近藤勇たちの浪士組に参加。
新選組の二番隊組長として中核をなして池田屋事件などの事件で活躍しますが、組織が大きくなるにつれ徐々に増長し勝手な振る舞いが増えた近藤勇に対して後ろ盾である会津藩主松平容保に「非行五ケ条」を脱退覚悟で提訴し、その行き過ぎた言動をいさめようとする事もありました。
鳥羽伏見の戦いでは決死隊を結成して新選組として戦い、近藤勇や土方歳三不在の時には代理として隊を取り仕切るほど信頼されていましたが、甲陽鎮部隊として甲州勝沼で敗戦したのちに思想の違いと前々からの摩擦から近藤勇達と完全に袂を分かち、原田左之助と共に靖兵隊を結成し独自に新政府軍と戦いを続けます。
しかし会津藩降伏や戊辰戦争終結に伴い江戸へと戻り松前藩士として帰参。
その後結婚して北海道小樽へ移住し刑務所の看守に剣術指南をしたり薬局を開いたり、現在の北海道大学の剣道部で指南をしたりと様々なことを行い、大正4年1月5日に虫歯を原因とした敗血症と骨膜炎で77歳で死去しました。
明治時代では新選組は賊軍として講談などで極悪非道な悪役として広められていましたが、永倉新八は新選組の顕彰に努め「浪士文久報国記事」や「七ケ所手負場所顕ス」、「新選組顛末記」を残し、これによってそれまでのイメージが払拭されたのです。
藤堂 平助
[とうどう へいすけ]
新選組幹部の中で最も若く小柄な美青年だったという藤堂平助は弘化元年(1884年)に江戸で生まれ、北辰一刀流を学び後に御陵衛士を結成する伊藤甲子太郎の道場や試衛館に出入りし、浪士組として上洛。
池田屋事件の際には「魁(さきがけ)先生」のあだ名通りに近藤勇と一緒い真っ先に斬り込み、眉間に大けがを負いながら過激派志士を打ち取り新選組が名声を得るきっかけを作りました。
組織を大きくするために江戸で隊士募集を行い、その時に昔馴染みであった伊藤甲子太郎とその門弟らを引き入れることに成功しますが、勤皇家だった伊藤甲子太郎らが新選組から離れ御陵衛士を結成する際には責任を感じ一緒に離脱。
英語や砲術を学ぶなど新選組とは違う視点で江戸幕府を守る活動を続け、坂本龍馬暗殺当日の近江屋で伊藤甲子太郎らと一緒に会談していたと言います。
そんな藤堂平助ですが伊藤甲子太郎が新選組に暗殺された夜に遺体奪還のために御陵衛士の仲間と共に油小路に行き、待ち伏せしていた新選組と戦闘になり23歳の若さでその命を散らしました。
親友だった永倉新八は藤堂平助をどさくさで逃がそうとしたのですが、事情を知らない別の隊士に斬られたといいます。
原田 左之助
[はらだ さのすけ]
天保11年(1840年)に伊予松山藩で生まれた原田左之助は槍の名手として伝えられています。
元々は武家奉公人として働いていましたが上司と反りが合わず、その上司と喧嘩をしたときに「切腹の作法も知らない下郎!」と売り言葉に買い言葉で腹を切ってみせたという逸話が残っており、金物の味をしっている腹だ!と、新選組時代に自慢したりその傷跡を生かして顔を描いては腹芸をしたりとしていたそうです。
脱藩後に江戸の試衛館で世話になった事で浪士組にも一緒に参加し、新選組十番隊組長という戦の際には殿(しんがり)を務める最も危険で重要なポジションを任さるほど信頼も厚く、また芹沢鴨暗殺や池田屋事件、禁門の変など新選組が手柄を立てる様々な場面で活躍します。
坂本龍馬暗殺の際には偽証によって犯人とされたこともありますが、実際には新選組は一切関与していなという説が有力です。
甲陽鎮部隊として新選組で戦いますが前述の永倉新八と一緒に離脱。
しかし千葉県野田市の山崎宿に入ると用を思い出したといって永倉新八の靖兵隊から離れ江戸に戻り、そこで江戸の治安維持を目的とした彰義隊に参加。
その後は東京上野で新政府軍と戦った1868年7月6日の上野戦争で負傷しその2日後に29歳で死亡したと言われています。
ただ入隊時期が遅かったためか彰義隊の名簿に名前はなく、親友だった永倉新八と離れ彰義隊に参加した理由も定かではないためか「上野で死なず生き延びて大陸で馬賊になった」という伝説が残っている、不思議な人物でもあります。
井上 源三郎
[いのうえ げんざぶろう]
文政12年(1829年)に日野の武家に生まれた井上源三郎は、18歳の時に天然理心流3代目宗家に弟子入りし、江戸の試衛館へ出稽古に行っては近藤勇達と一緒に剣術の腕を磨いたと言われています。
特筆した才能があったわけではなく免許皆伝まで10年かかったほどの努力家だった彼は、とても無口で穏やかな雰囲気があり、若く血気盛んで気性の荒い新選組隊士たちから慕われ、さらに同門の弟弟子である近藤勇や土方歳三からは「源さん」の愛称で兄のように慕われていたという、新選組屈指の癒し系と伝わる副長助勤の六番隊組長です。
幹部の中でも外交的な仕事を多くこなし、総務などの仕事もこなす縁の下の力持ちでもありました。
しかし壬生狼と呼ばれた新選組幹部であることに変わりなく、一度決めると梃でも動かないほど頑固な一面もあり、粛清や暗殺なども積極的に行い組織に貢献しています。
鳥羽伏見の戦い勃発後の1月5日に京都伏見の淀千両松で官軍と激突し、その際に銃弾を腹に受けて死亡しました。
好々爺のように描かれることの多い井上源三郎ですが、このときまだ40歳の働き盛りであり彼の死は近藤勇や土方歳三ら試衛館の仲間たちに重い影を落としたのです。
まとめ
若くして散った多くのメンバーの一生は時代の大きなうねりに翻弄されつつも
信念を貫いた苛烈さと儚い切なさを感じさせます。
血なま臭いエピソードも多いですが、
その生き様は一言では表せない魅力に溢れていますね。
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