【佐渡金山】金銀の採掘量日本最大級!歴史や採掘方法に小判の作り方
佐渡金山とは
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歌川広重の描いた佐渡金山
佐渡鉱山の開発の歴史が始まったのは、1601(慶長6)年。相川の鶴子銀山で銀の採掘をしていた山師の中の3人が金銀鉱脈を発見してからと伝えられています。ですが、『今昔物語集』などによると、12世紀頃には砂金が採れる島として知られていたようです。
江戸幕府が成立すると、佐渡は、徳川家康によって天領(直轄領)として指定されました。家康は、甲斐の出身で金採掘に詳しい大久保長安を奉行に命じ、最大鉱脈の青盤脈をはじめとした露天掘りの道遊脈、大切脈、鳥越脈などで相次いで採掘を始めました。
佐渡金山は、1600年代前半の最盛期には年間金400kg、銀40トン以上を産出。突如として日本最大の金銀山となり、ゴールドラッシュが始まったのです。以後幕末まで約270年間にわたり計41トンの金が採掘され、江戸幕府の財政基盤を支えてきました。佐渡には金銀山を目当てに全国各地から大勢の人が集まり、最盛期には約5万人もの人が暮らしたと伝えられています。
明治時代には、西洋技術の導入と日本独自の技術革新によってさらに採掘量が増加し、日本の近代化の一翼を担いました。
金・銀の採掘量
佐渡鉱山の採掘量は、江戸時代初期の最盛期には金が1年間に400kg、銀が40トン以上でした。
これは、当時としては世界最大級の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山でした。
江戸幕府による佐渡金銀山の開発が始まってから、1989(平成元)年の採掘休止までに、記録されているだけでも、78トンの金と2,330トンの銀を産出したことが判明しています。
江戸幕府直轄の佐渡金山
1589(天正17)年、上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝により本間氏が滅ぼされ佐渡は上杉領となりますが、江戸幕府ができると佐渡は幕府の天領になりました。特に、北山(金北山)で金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となっていきました。
江戸時代後期には江戸から約1,800人の無宿人(浮浪者)・罪人が強制連行され過酷な労働を強いられました。彼らは主に水替人足の補充に充てられましたが、佐渡島には現在も坑内の事故で亡くなった水替人足のお墓が残されています。
明治から閉山まで
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佐渡金山の入り口
一時は金山として有名になった佐渡鉱山ですが、江戸時代中期から産出量が衰退してしまいます。
明治時代になると、英国人技師などによって西洋の新技術の導入がなされ、金の産出額産は飛躍的に上昇。明治新政府はやがて、近代貨幣制度へと移行するために佐渡金山のさらなる増産を目指していきます。
この時期、佐渡鉱山局長に任じられた大島高任(たかとう)は、高任立坑の開削、ドイツ式の新技術による北沢浮遊選鉱場の建設、大間港の整備などを次々に行い、佐渡金山の開発を推し進めていきました。1890(明治23)年には、鉱山学校も開設され、鉱山技術の国産化も進めていきました。
明治中期になると、金山は、政府から、民間の三菱合資会社に払い下げられましたが、そのことによってより産出量を増し、急成長を遂げます。同社は、金産出に使用する機材の機械化を進め、明治後期には年間400kgを超える、江戸時代最盛期並みの産金量にまで盛り返すことに成功したのです。
しかし、時代とともに、金の値段と労働賃金がつりあわなくなり、採掘予算との採算が取れなくなったため、現在では採掘を中止して観光施設となっています。
坑道の総延長は実に約400kmに及びますが、そのうち約300mが観光ルートとして公開されており、いつでも見学できるようになっています。
採掘方法
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佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」
鉱石を掘り出す方法は、初期の段階としては、山の表面に出ている鉱脈を土砂ごと掘りとる「露頭掘り」が主体でした。佐渡金銀山のシンボル「道遊の割戸」も露頭掘りの代表的な例です。
地表から深く掘り下げることができなくなると、山の横からトンネル(坑道)を掘る「坑道掘り」という技術が用いられるようになりました。相川金銀山の鉱石はとても硬く、1日に約10㎝程しか掘れなかったといわれています。
坑道を水平に掘るためには、高度な測量技術が必要なため、測量術が発達しました。また、坑道が深くなると、湧き水の問題が出てくるため、湧き水を効率的に排水する道具、水上輪(すいしょうりん)が導入されたほか、木材を組み合わせて、坑道内の弱い部分を補強する山留(やまどめ)技術が発達しました。
鉱石は、金穿大工(かなほりだいく)が鑽(たがね)という採掘用の「のみ」を上田箸(うえだばし)ではさみ、槌(つち)で打って掘りました。上田箸ではさむことで短くなった鑽も使用できました。鉱石は硬いため、大工1人当たり、鑽を2日で1本程つぶしたといわれています。また、坑道の換気には、米の脱穀作業で使用する「とうみ」も使用していました。
小判の作り方
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佐渡奉行所(再建)
佐渡では、鉱石から金銀を生産するだけでなく、小判の製造まで行っていました。
これは、島という隔絶した地理的条件と、奉行所による一元的な管理体制によって可能となったものでした。
鉱石の採掘から小判の製造までを一貫して採掘地で行うというのは、世界的にも極めて珍しいことです。
小判は奉行所の隣にあった「小判所」でつくられました。
まず、金を溶かして、のべ板状にしたものをハサミで小判1枚の重さに切り分け、つちで叩いて小判の形に成形し、「茣蓙目(ござめ)」というもようを付けます。その後、表面に薬品を塗り、熱を加える「色揚げ(いろあげ)」を行って、より良い「黄金色」にして、完成させました。
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慶長小判。両替屋の刻印が多数見られる。
佐渡の小判は、金銀とともに厳重な警護のもとに毎年江戸まで運ばれました。
相川から小木、小木から船で対岸の出雲崎へと運ばれ、さらに北国街道から中山道に入り、江戸まで運ばれました。
まとめ
日本最大級を誇る金山としての歴史に幕を閉じた佐渡金山。
1989(平成元)年に操業を休止するまで、金78トン、銀2,300トンを産出しました。
金山の発展の歴史はただ産出量だけではなく、炭鉱技術の向上やそれに伴う様々な技術の革新も生み出しだしたのでした。
現在、佐渡金山は「史跡佐渡金山」(ゴールデン佐渡社運営)として一般に公開されており、ユネスコへの国内推薦、そして世界遺産への登録を目指しています。
佐渡金山の鉱山遺跡は、休止した今でも、400年にわたる鉱山技術や生産システムの長い歴史を人々に伝え続けているのです。
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