【千利休】こころに響く!天下一の茶人千利休の名言・エピソード10選
この記事の目次
千利休とは
千利休は年に堺の魚問屋の家に生まれました。当時堺は織田信長の直轄地で自由貿易が行われ、活気のある商人の街でした。18歳で茶の湯の道に入った後、武野紹鴎に師事しました。
茶人として頭角を現していき、茶道具好きの織田信長によって今井宗久・津田宗及とともに茶頭に抜擢され、信長亡き後も豊臣秀吉に重用されました。
利休は「質素なものをよしとして、最小限のもので多くを表現する」という「わび茶」の考えを完成させます。
派手好きだった秀吉とは、茶の湯に対する考えや、政治的なことで考えが合わなくなり、次第に権力の座に固執していた秀吉と溝を深め、1591年に豊臣秀吉から切腹を命じられ、京都にある聚楽第の不審庵で70年の人生を閉じました。
利休亡き後、江戸時代に入って利休の孫・宗旦によって再興され、今の茶道の家元である千家(裏千家・表千家・武者小路千家)によって利休の精神が受け継がれました。
出典:Wikipedia
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千利休の名言・エピソード
千利休自身は書物を残していませんが、弟子の山上宗二が書いた『山上宗二記』や、江戸時代に入って編纂された『茶祖伝』のなかで利休の言葉・教えとして受け継がれてきました。
[エピソード1]
相手が誰であっても自分の意見は言う
織田信長が安宅船といわれる鉄板を張った軍艦を作ったとき、出来上がったばかりの船についてそこにいた者たちに意見を求めました。大名たちは信長の機嫌を損ねるのが怖くて誰も声を発しません。
そこへ「いまいちですね」と利休は前に出て発言し、「何がいまいちだ」という信長に
「色がいまいちですね。アレを全部黒く塗りなさい」と返しました。
織田信長はその意見を採用し、黒く塗られた軍艦が出来あがりました。たとえ信長といえども、ひるむことなく自分の理念を言える人として利休はその名を有名にしました。
軍艦の黒は、質素な色好きの利休の好みか、生まれ育った堺の港に出入りする船のイメージでしょうか。
[エピソード2]
花の美しさを際立たせるための心憎い演出
「庭に朝顔が沢山咲いたので見に来ませんか」と利休は豊臣秀吉を茶に招待しました。
秀吉が出向いていくと、庭の朝顔はすべて刈り取られています。がっかりした気持ちで秀吉が茶室に入ると、茶室の中に一輪の朝顔の花が活けられていました。
利休は「一輪であるが故のこの美しさ。それ以外は全て摘んでおきました。」と一言。
この演出に秀吉は感動しました。
千利休は、人の心をつかむ天才なのではないかと思います。咲いている朝顔をわざわざ刈り取るなんて少々もったいないですが、粋な計らいです。
朝顔のきれいさは、このようにしたら確かに際立つし、いかにもイベント好きの秀吉が喜びそうです。
[エピソード3]
何よりも出会いと人を大切にした
臆せずものを言い、粋な計らいができるだけでなく、利休は人を大切にすることを心がけていました。
「小さな出会いを大切に育てていくことで、人生の中での大きな出会いになることもあります」と説いています。
「一期一会」は、この言葉の後に続きます。「同じ主客の組み合わせの茶会であっても、行われた茶席の場はその時一度きりのもの・お互いに誠意をもちなさい」という教えから広く解釈して、私たちも出会いを大切にしようという意味で使っています。
「一期一会」は、あの井伊直弼も気に入っていて、この言葉を広めたといわれています。
[エピソード4]
茶の湯で大切なのは、心を込めたおもてなし
茶の湯を楽しむ大名たちのなかで、名器集めや道具集め、高価なものを誉めあったりする風潮がありました。織田信長は褒美の品に茶器を使い、戦国大名の松永久秀は平蜘蛛釜を信長に渡したくなくて釜とともに自害しました。それほどまでに大名たちにとって茶道具が大切だったのです。
それに対し「釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚なり」と戒めています。
道具のことが主体となるのは違う。茶はおかまと最低限の道具があればできる。茶の湯の場で客を大切にもてなすことこそ一番重要と、考えていました。
ブランドや肩書好きの現代の私たちにも、少しばかり耳の痛い言葉ですね。
[エピソード5]
自分に厳しく謙虚な姿勢を持ち続ける
ある日弟子が、茶道の心得は何ですか?と聞いたとき、利休は湯の沸かし具合や部屋のセッティングや客としての心構えについて基本的なことを答えました。
それに対して「それは当たり前のことばかりです」と答えた弟子に、利休は「当たり前のことが、いつでもどこでもできるならば、私があなた方の弟子になりましょう。」と返答しました。
この教えは「利休七則」として茶道千家の基本の教えとしてまとめられています。
しかし、茶聖とまで言われた利休に、そう言われてしまったら身も蓋もありませんね・・。
[エピソード6]
できる人なのに基本を忘れない!
名人ほど、その道をきわめるのに特別なことはないと知っているものです。
利休は「茶の湯とはただ湯をわかし茶を点(た)ててのむばかりなることと知るべし」
と、茶道の稽古の姿勢を言っています。
茶道とは特別なことはなく道具と釜があればできる。いろいろなことに凝るのではなく、シンプルに練習に励み、いつも思うような茶を点てるようにという意味です。
スポーツでも基本は走り込みとストレッチ・素振りです。それを怠ったら思うようなプレーにはつながりません。ほかの何事にも通じることです。私たちも見習いたい心がけです。
[エピソード7]
さりげなく自然体でいることを演出!
利休は庭の落ち葉をきれいに掃き掃除をしたあとに、再び枯葉をパラバラまきました。
弟子がせっかく掃除をしたのに何故かと尋ねると
「秋の庭には、少しくらい葉っぱが落ちている方が自然でよい」と答えます。
秋に葉が一つも落ちていない状態は、不自然で美しくないという利休の美学なのです。
普通の人は、不自然でも次の掃除が楽なほうがいいと思うところを、自然体を演出する利休はさすがです!
このエピソードは、利休の考えの基本を現しています。
[エピソード8]
少し欠けた部分があることを好んだ
普段私たちは茶碗が欠けたら使わないし、捨てると思いますが、利休は「割れた茶碗も風流です」と言っています。割れたものや不完全なものにこそ美があるというわび茶の考えから来ています。
かけた茶碗を珍重しろということではなく、自然体のままであることがいいという考えです。
茶碗の割れ目が白く接合されている茶器を見たことがある人も多いと思います。利休の考えからきています。女好きで仕事の忙しい利休が妻と喧嘩をし、妻が利休に向けて投げた茶碗が割れたときに、かけた茶碗を修復しながら、この言葉が使われたという話もあるようです。
[エピソード9]
器用な利休の頑固なプライド
茶の湯では客を満足させることや出会いを大切にした利休でも、譲れないものがあったのでしょう。
「頭を下げて守れるものもあれば、頭を下げる故に守れないものもある」
この言葉で秀吉との亀裂が決定的になったといわれています。
要領のいい人なら、命が惜しくて秀吉好みにするのに何かあったのでしょう。
頭の回転が速く人に対しても謙虚な利休のこの言葉に、頑固なプライドが感じられます。
秀吉に切腹を命じられた原因は、大徳寺の木造事件ですが、それは利休を追い詰めるための言いがかりに過ぎないです。そこまでの過程に何があったかは諸説ありますが、あんなに仲が良かったのに、何があったのかなと思うばかりです。利休自身もそのような手紙内容の手紙を残しています。
[エピソード10]
最期までもてなしの心を忘れなかった
切腹を命じに来た使者に対し、千利休は一言「お茶の支度が出来ています」といいました。
聚楽第の茶室不審庵で最後の点前が行われたといわれています。
利休は、弟子の蒔田淡路守の介錯で切腹しました。茶室で切腹した後の遺体に妻の宗恩が布をかけたという逸話もあります。江戸以前の史料ではすぐに持ち去られて獄門になったとの記録もあります。
聚楽第の門の外は何膳もの軍勢で囲まれていたそうで、利休を支持する大名たちが奪い去りに来たときのための対策でした。
いずれにせよ、最期まで自分の理念を貫き通した利休の死に際は、あっぱれとしか言いようがありません。
時の人であった利休が最期に行った精いっぱいのもてなしの様子を思いうかべると、どうにも切ないですね。
まとめ
人を大事にし、高価なもので飾り立てるのではなく、自然体を好んだ千利休の人柄がうかがえます。
そして天才なのに謙虚さと努力を怠らなかった姿勢・権力者もひるまなかった頑固さに敬服します。
私たちも、この言葉の中の一つでも心に留めて置けたら、今より少し素敵な人になれそうですね。
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