1. TOP
  2. 風土 歴史
  3. 【禅】武士に多く支持された禅宗!禅の教えと武士との関係

【禅】武士に多く支持された禅宗!禅の教えと武士との関係

LINEで送る
Pocket

禅の教え

禅宗とは主に座禅修行により自らの心を鍛えて悟りを開く事を目指す仏教の一宗派です。

「禅」とはサンスクリットの「dhyāna(ディヤーナ)」を音写した漢語で、心を一点に集中する修業法や精神が一点に集中した状態(禅定)を指します。この修行法は南方の上座部仏教ではパーリ語で「サマタ(samatha)」と呼ばれ、原始仏教以来実践されてきました。

禅はインド僧の達磨(ボーディダルマ)が南北朝時代の中国にもたらしたとされ、その後中国で独特の発達を遂げました。日本にも鎌倉時代に伝来し、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗という三つの宗派が存立しています。

禅宗の教えは宗派によって異なりが見られるとは言え、基本的に「不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)・直指人心(じきしにんしき)・ 見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」という四つの言葉でまとめられます。
経典の文字ではなく体験を重視し、仏陀以来師から弟子へと心と心で直に伝えられた教えを受け取って、自らの心の本性を見極めて、仏になる事を目指すという程の意味です。禅宗は「心」を非常に重視するので別名を「仏心宗」と言います。

禅とは文字より体験を重視し、自らの心を鍛える事によって悟りを開く事を目指す自己鍛錬の教えだと言えるでしょう。


禅と武士

禅宗が日本にやってきたのは鎌倉時代のことです。

栄西が宋から持ち帰り臨済宗を開き、次いで道元が同じく宋から帰国して曹洞宗を開きました。

地方に土着した貴族や農民が自らの一族と土地を守る為に武装したのが武士の発祥だとされています。彼らは次第に勢力を伸ばし、都の朝廷も無視できない勢力となっていきました。そのようにして自らの実力によってのし上がった新興勢力である武士達は新たな精神的支柱を求めていました。

禅は自らの鍛錬によって心を鍛えるという教えのであり、質実剛健で独立心が旺盛だった新興の武士勢力の気風にマッチしたのでしょう。ここに武士と禅の結び付きが生まれました。

特に源頼朝の死後に幕府の実権を握った北条氏は篤く禅宗に帰依しました。彼らは宋から蘭渓道隆や無学祖元といった禅僧を招いて建長寺や円覚寺などの寺院を建立して禅宗を保護しました。

そして宋の制度を真似て鎌倉五山の制度を整え、日本の禅文化の基礎を作りました。


無学祖元と北条時宗

鎌倉幕府の8代目の執権・北条時宗は幼少の頃より禅を修行し禅宗に篤く帰依しました。

時宗が執権になった時代、モンゴル帝国(蒙古)が破竹の勢いで侵略を行い、ユーラシア大陸のほぼ全域を支配してしまうかのような勢いでした。
時宗は、「世界帝国」と言える蒙古に立ち向かい国を守らなければならないという精神的重圧は筆舌に尽くし難いものがあったに違いありません。

そんな時宗の心の拠り所となったのが禅の教えであり、師である無学祖元という禅僧でした。

無学祖元は蒙古に侵略された南宋から日本に亡命しており、鎌倉円覚寺の開山し、鎌倉武士達を禅の教えで教化していました。

無学祖元がまだ宋にいた時、寺になだれ込んできた元兵に殺されそうになり、今まさに元兵の剣が振り下ろされようとする時、

乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
喜び得たり、人空にして、法もまた空なることを
珍重す、大元三尺の剣
電光、影裏に春風を斬らん

(この広い天地の内で杖一本立てる余地が無いほど元が天下を制覇している。だが、人間も人間を構成する要素も皆「空」なので何の執着があろうか。大元の剣を振り下ろしたところで、電光が光る瞬間に春風を斬るようなものである。)

という漢詩「臨刃偈」を詠みました。

死を目の前にしてのあまりにも泰然自若たる態度に感銘を受けた元兵は祖元を斬らずにそのまま去ったそうです。

このような体験を持つ無学祖元は時宗に対して元に立ち向かう心得として「莫煩悩(まくぼんのう)」と書いた書を与えました。

「わずらい、なやむなかれ」

人間はあれこれ考えすぎるとその度に執着が増して不安や恐怖が増長していきます。そしてそれはとめどもない苦しみとなっていきます。

祖元は時宗に対してそのような思い煩いを止め、断固たる決意で立ち向かえと禅の精神に基づいて激励したのです。
時宗はこのような禅の精神に支えられて、元の侵略(元寇)を跳ね除け、日本を守り抜いたと伝わっています。


戦国武将と禅

戦国武将が禅を修行

禅を修行した戦国武将と言うとまず第一に思い浮かぶのが「越後の龍」こと上杉謙信です。
謙信(幼名は虎千代)は越後の守護代長尾家に生まれ、幼少期は林泉寺という禅寺に入門し住職の天室光育の教えを受けました。

謙信は「義」を重んじる武将として有名です。
領地の拡大や天下取りを目指すのが当たり前だった戦国時代では珍しく義侠を重んじる武将で、不当な領土侵略はせず、天下への野心も持っていなかったと言われています。
ただ「義」を守る為に戦わんとした。この精神の源には禅で学んだ「無欲」の精神があったのかもしれません。
林泉寺の山門に掲げられている「第一義」の文字は「仏が悟った真理」を指し、また「義」を第一とする謙信の信念が込められているのではないでしょうか。

相模の後北条氏の祖となった北条早雲も禅の修行者のひとりです。
若き日に「伊勢新九郎」と名乗った早雲は大徳寺や建仁寺で禅を修行したと言われています。かなり本格的に修行したそうで、一流の教養人でもありました。
早雲は伊豆を平定した後に小田原に進出して相模国を制圧し、一国の主となりました。領国支配を強化した早雲は戦国大名の先駆けと言われています。


禅僧が戦国武将化

戦国武将になった禅僧もいました。安国寺恵瓊です。

安国寺恵瓊は臨済宗東福寺派の禅僧でしたが、毛利氏の外交係を務めていました。
織田信長の部将として中国地方に進軍してきた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と折衝したのも恵瓊です。恵瓊はその時に知遇を得た秀吉の下で後に出世を重ね、石田三成や小西行長らと並び秀吉配下の有力大名にまで成長しました。ですが、関ヶ原の戦いでは西軍につき、敗戦後刑場の露と消えました。

禅僧でありながら戦国武将として最期を迎えた安国寺恵瓊は禅僧としては非常に数奇な運命を辿った人物と言うことが出来ます。


禅僧が戦国武将のブレーン

今川義元のブレーンとして領国経営で力を振るった太原雪斎

雪斎は臨済宗の僧侶で、幼少時から一時期出家をしていた今川義元の師でもありました。
義元の家督相続に尽力して義元から全幅の信頼を寄せられていた雪斎は義元の政治軍事上のブレーンとなりました。いわば「軍師」です。

領国経営や戦の戦略でも力を振るいました。
何故禅僧にこのような働きが可能だったかと言うと、当時の禅僧は漢文に通じ兵書をはじめとして漢籍を自由に読みこなす事が出来る知識人だったため、その知識を買われて大名の顧問となり政治に関わる事もありました。

徳川家康の外交政策や宗教政策に関係した以心崇伝(金地院崇伝)もそのひとりです。
崇伝も臨済宗の僧侶です。
崇伝は家康のもとで諸法度の制定、対キリシタン政策や外交政策に関わりました。禅僧は当時の国際語である漢文を自由に読み書きできたため、外交文書の取り扱いを任されることが多かったようです。


沢庵と柳生宗矩

徳川幕府の兵法指南役を務めていた柳生宗矩は、“柳生新陰流”を父・柳生石舟斎から受け継いでいました。

時は戦が無くなり平和安定期に移行しようという江戸時代初期に「剣術にはどんな意義があるのか?」「人を斬る為の技術ではない」

それを超える意義を剣術に見出すにはどうしたらよいのか?を禅僧の沢庵宗彭に教えを請いました。

沢庵は柳生宗矩に剣術という「術」のより深い所にある「心」即ち「心法」を伝授しました。
それは「不動智」(とらわれない心、無執着の心)と言われ、剣の立ち合いで、あまり意識し過ぎて執着すると相手の動きに自由自在に対処する事が出来ない。

心を一か所にとどめることなく、常に自由なとらわれのない状態にして置くことが大事だと沢庵は説きました。
宗矩は技だけでなく「心法」をも重視する剣術を確立したのでした。

また沢庵は宗矩に対して「義」の精神を教えました。

宗矩の子息の十兵衛になにやら非行があったらしく、沢庵はそのことについて宗矩を厳しく戒めています。幕閣の要人である宗矩の権勢を恐れる事無く「悪い事は悪い」「身を正しなさい」「欲にかまけて義を忘れてはならない」と直言したのです。

沢庵は宗矩に剣の根本には「心」があること、不正を許さず「義」を守ることの大切さを教え、殺伐とした「殺人剣」を超えて、人を活かす「活人剣」に開眼していきました。


剣禅一致の精神

江戸を戦火から守った山岡鉄舟

江戸末期の頃にいた剣豪「山岡鉄太郎(後に鉄舟)」は、江戸の旗本の子として生まれ、若い頃から禅の修行を積み、剣と禅と書の三道を極め、一刀正伝無刀流という流派の開祖となります。鉄舟の剣と書の根底にあるのは勿論禅の精神でしょう。鉄舟は剣豪として幕末の激動期を生き抜きながら、一度たりとも人を斬った事がありません。

幕末から明治の最初の頃、鳥羽伏見の戦いをきっかけに官軍と旧幕府軍の間で戊辰戦争が戦われ、旧幕府軍は敗戦に次ぐ敗戦で江戸が戦火に包まれる恐れがある状態まで追いつめられた時、江戸城の無血開城に奔走したひとりでもあります。

戦国時代までは「人を斬る為の技」だった剣術が、禅の精神と出会うことによって人間修養の道として江戸二百数十年の間に磨き上げられ、幕末に至り、人を一人たりとも斬らずに多くの命を守る「慈悲の剣」となりました。

開祖となる自らの流派には「無刀」の二字を入れています。まさに剣禅一如を体現した人物です。


 わつなぎオススメ記事 >>【禅宗】禅とは?禅宗は宗派ではなく総称!臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の違い


まとめ

武士の歴史と禅宗、武士の精神と禅の心には、とても深いつながりがあります。

武士道は世界的にもよく知られた日本の精神文化ですが、武士の歴史や武士の心について禅との関係という視点から探求してみるのもよいかもしれませんね。

きっと新たな発見があるはずです。


\ SNSでシェアしよう! /

日本文化をわかりやすく紹介する情報サイト|わつなぎの注目記事を受け取ろう

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

日本文化をわかりやすく紹介する情報サイト|わつなぎの人気記事をお届けします。

  • 気に入ったらブックマーク! このエントリーをはてなブックマークに追加
  • フォローしよう!

ライター紹介 ライター一覧

大島太郎

大島太郎

学生時代より、日本の歴史、伝統的な思想や文化に関心を持ち、探求を続けています。

「グローバル化」が叫ばれる昨今、日本人としての固有性、日本独自の文化とは何なのかという問題意識を持っています。

形に表れた文化だけでなく、その根底にある「心(和の心)」あるいは「道」というものにも一層の関心があります(日本文化には茶道・華道・剣道・柔道など「道」が付くものが多いです)。

日本文化を発信していくお手伝いが出来ればと思っています。

この人が書いた記事  記事一覧

  • 【大姫】運命に翻弄された生涯! 木曾義高との悲恋に悲劇的な後半生

  • 【刀剣】北条時政を鬼から守った!天下五剣の一振り「鬼丸国綱」にまつわる歴史と伝承

  • 【北条時政】鎌倉幕府執権の職!時政の生涯。北条氏の家紋「三つの鱗」にまつわる龍神伝説

  • 【忍者】有名な忍者からマニアックな忍者まで! 歴史上実在した忍者を紹介