エレキテルで有名な平賀源内!本草学に画家で作家と多芸多才な天才
平賀源内とは
讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)という所で高松藩士の白石茂左衛門の三男として生まれました。本名は国倫(くにとも)。
白石家は元は平賀姓の信濃佐久群の豪族で、武田信虎(信玄の父)に敗れた後に奥州の白石に移住し白石姓に改め伊達家に仕えました。その後、伊達政宗の子の秀宗が伊予宇和島藩主になった時に付き従って四国に移住し土着しました。平賀姓に戻したのは源内の代のことになります。
源内は幼少時から類まれな才能を発揮し、「お神酒天神」というカラクリ仕掛けの掛け軸を発明したりと、大きな評判を呼んだそうです。
13歳の時に藩医の元で本草学と儒学を学びました。特に本草学は源内の生涯の学問の基礎になったと思われます。
24歳の時には長崎に遊学し蘭学や西洋画など西洋の学問や技芸を学びました。当時唯一海外に開かれていた長崎の地で新奇な文物に触れる事で大いに刺激を受けたようです。
高松藩に召し抱えられるものの藩の枠内では自由な活動が出来ない為に脱藩して自由の身となります。その後に後述のような多岐にわたる活躍をしていくことになります。
日本初の発電器エレキテル
「エレキテル」とは “摩擦起電器” と呼ばれる静電気を発生させる装置です。内部にライデン瓶という蓄電瓶があり、外部のハンドルを回すとガラスが摩擦され電気が発生する仕掛けになっていました。ヨーロッパでは宮廷での見世物や治療用器具として使われていたそうです。
実は源内がエレキテルを発明した訳ではありません。
長崎で見つけた破損しているエレキテルを7年の歳月をかけて修理し1776(安永5)年に復元製造しました。
当時はヨーロッパでも電磁気学は発展途上の段階で、源内自身もエレキテルの原理はよく分かっていなかったと言われます。それでも独自の工夫で見事にエレキテルを復元したことは源内の天才ぶりを十二分に示していると言えるでしょう。
薬学、博物学
源内は13歳の時に藩医に入門して本草学を学びました。後に江戸に出てからは田村藍水という本草学の大家に弟子入りしております。
本草学とは、薬の元になる植物や鉱物について研究する学問で中国で誕生し、日本には平安時代に伝わりましたが、明の時代に本草学を集大成した李時珍が書いた「本草綱目」が伝わった江戸時代以降に特に盛んになっております。
中国の本草学は本来は薬物学ですが、日本の本草学は薬物学であると同時に日本に自生する様々な植物や鉱物を幅広く分類・研究する博物学的な色彩が強まりました。
あらゆる自然物を分類・研究する本草学は好奇心の塊と言える源内にとってはまさにうってつけの学問だったと言えるでしょう。
源内は様々な学問や技術に通じていましたが、その根幹にあったのは本草学だったのではないでしょうか。
西洋画家
源内は学問や科学技術だけでなく芸術家としての才能も持っていました。その一つが絵画です。
長崎に遊学した時に写実的な西洋画の画法を学びました。「西洋婦人図」(神戸市博物館所蔵)は唯一の油彩画と知られています。
遠近法や陰影法など西洋画から学んだ源内の画法は、秋田藩士の小田野直武に伝えられ、秋田蘭画という西洋画の一派が生まれました。源内の親友でもあった杉田玄白の「解体新書」の挿絵は、小田野直武によって描かれています。
また、江戸時代の西洋画家として有名な司馬江漢(蘭学者でもあり)も源内の影響を受けており、源内は日本の絵画史の上でも大きな存在であることが分かります。
浄瑠璃作家
源内は戯作や浄瑠璃本を書く作家でもありました。浄瑠璃作家としてのペンネームは「福内鬼外」、戯作本作者としてのペンネームは「風来山人」と、源内らしいユーモアが感じられシャレています。
浄瑠璃本の代表作は、南北朝時代の武将・新田義貞の次男の新田義興の死を巡る物語「神霊矢口渡」です。浄瑠璃だけでなく歌舞伎の演目にもなっています。
戯作本作者としては「放屁論」というユニークな本を書いています。放屁を見世物とするという変わった芸を行う江戸の芸人を取り上げ、当時の社会を停滞した封建社会と見なし批判した社会評論です。
この他にも「根南志具佐」「風流志道軒伝」など多くの作品を残しており、いずれもが大ヒットしました。江戸の大ベストセラー作家だったのです。
実業家
学問や技術を産業と結びつける殖産興業的な発想を持っていました。
その一環として行ったのが鉱山開発です。源内の鉱山事業自体は成功したとは言えませんが、殖産興業の発想は時代に100年ほど先行していたと言えます。
数々の事業に手を出した源内は時に「山師」と呼ばれることもありました。当時は西洋でも殖産興業が本格化しておらず、時代が源内の発想に追い付いてなかったという事なのでしょう。
本草学者の田村藍水の元にいる時には、全国各地の物産を集めて日本初の全国的な物産会「薬品会」を開き大盛況を収めました。諸々の物産の国産化を図る為に日本各地の物産の発掘を大きな目的としていたようです。
源内の事業の根底には常に「国益」という発想がありました。この時の成果は「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」という書にまとめられています。
土用の丑の日にうなぎ
「土用の丑の日にうなぎを食べる」という習慣は、夏場にうなぎが売れなくて困っているうなぎ屋から相談された源内が考案したという説があります。確証はないそうですが、源内ならば如何にもあり得そうなことです。
その他にも「漱石香」という歯磨き粉の宣伝文句(キャッチコピー)を作ったりしました。源内は仕掛け人、広告マンとしても一流だった事が分かります。
不遇な晩年
源内は以上にとどまらず実に多種多様な活躍をしました。
ですが、時代の先駆者の宿命なのか、晩年は不遇で、自らの才能を受け入れない世の中に対して深い憤りを抱くようになっていたようです。
そんな中、誤解によって人を殺めてしまい投獄されてしまいます。
大名の屋敷の修理を請け負った際に修理設計書を大工に盗まれたと勘違いして大工を殺めてしまったのです。酒に酔った状態だったそうです。自らの不遇をかこち酒に溺れてしまっていたのでしょうか。源内は獄中で破傷風を患い亡くなりました。享年は52歳でした。(※田沼意次又は高松藩に庇護されて天寿を全うしたという説もあります。)
源内の親友だった杉田玄白が源内の墓碑銘を書きました。
「嗟非常人 好非常事 行是非常 何死非常 」
(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)
源内の生き様だけでなく死に様まで「非常」だったことに対する親友・玄白の嘆きです。
源内も学んだ儒学(江戸時代の基礎教養)では万事に偏りのない中庸を理想としましたが、源内はよい意味でも悪い意味でも極端にふり幅の大きい規格外の天才だったのだと思います。
玄白の言う「非常の人」とはまさに適評と言えるでしょう。
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