【平家物語】“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり” 平家の栄光から滅亡。あらすじ名場面解説
この記事の目次
『平家物語』のあらすじ
平家物語は鎌倉時代に成立したとされる軍記物語です。
第1巻から第12巻、最終の灌頂巻(かんぢょうのまき)で構成されており、平家が台頭し、頂点にのぼりつめてから、坂を転がり落ちるかのように没落し、滅亡するまでを描いています。
序盤の第1巻では、平忠盛(たいらのただもり、清盛の父)が頭角をあらわし力をつけていく様子から始まります。その跡を継いだ清盛が太政大臣にのぼりつめ、平家の全盛期を築き、要職を平家一門で独占するようになりました。
第3巻で清盛の娘・徳子(とくこ)が、のちの安徳天皇(あんとくてんのう)を出産したことで平家は絶頂期を迎えます。しかし、以仁王(もちひとおう)の呼びかけに応じた源頼朝(みなもとのよりとも)・源義仲(みなもとのよしなか、木曾義仲の名でも知られる)が平家追討の兵を挙げたことにより、徐々に暗雲が漂い始めるのです。物語中盤の第6巻で描写されている清盛の死は、平家衰退の流れを一気に加速させました。
第7巻から第11巻は義仲や源義経(みなもとのよしつね)らの活躍により徐々に追い詰められていく平家を、さまざまな名場面を交えながら紹介しています。壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で敗北し滅亡してしまう平家ですが、第12巻では平家追討戦で大活躍した義経が頼朝の恨みを買い、追われる身となってしまいました。
灌頂巻(かんぢょうのまき)では、清盛の娘・徳子が出家した後の貧しい暮らしぶりが描かれています。平家の絶頂と没落、滅亡というジェットコースターのような人生を経験した徳子の生活ぶりからは悲哀が感じられます。
数々の名場面
『平家物語』のストーリーは非常に長く、すべてを紹介することはできませんが、いくつか有名な名場面をピックアップしてご紹介します。
祇園精舎
だれもがきいたことのある有名な書き出し『平家物語』の第1巻の書き出しです。
“祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵に同じ。”
この冒頭部分は非常に有名なので、聞き覚えがあるという方も少なくないでしょう。
改めて意味を説明すると、「この世に永久不滅なものなどなく、すべての事象は移り変わり、常に変化していくものである。お釈迦様が亡くなられた際に白く咲いていた沙羅双樹の花がまもなく枯れたというのは、勢いのあるものもいつかは必ず衰えるという人生の道理を示している。おごり高ぶっている人も絶頂期は長く続かず、いいときは春の夜に見る夢のように一瞬で終わってしまうものである。勢いのあるものも最後には滅びてしまう。それは塵のように風が吹けば吹き飛んでしまうものである。」という内容を冒頭で述べています。
この4文を冒頭の書き出しに置くことで、「世の中は常に変化していくものである」「勢いのある者もいつかは必ず衰える」という言葉の通り、『平家物語』が仏教の教えに沿った作品であることを強調しているのではないでしょうか。
木曾の最期
木曾義仲と今井兼平の絆
1184(寿永3)年1月、源義仲(木曾義仲)がいとこである源範頼(みなもとののりより、頼朝の異母弟)・源義経軍に宇治川の戦いで敗れたのち、粟津の戦いで討ち死にするまでの様子が「木曾の最期」で描かれています。
倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい、現在の富山県小矢部市と石川県河北郡津幡町)で10万の平氏軍を破るなど、破竹の勢いで京都に入った義仲ですが、義仲軍が京の都で略奪を繰り返し、さらには皇位継承問題をめぐり後白河法皇(ごしらかわほうおう)と対立するようになり、孤立してしまいます。源頼朝に派遣された範頼・義経軍と宇治川で戦った際には、義仲のもとにはわずかの兵しか集まらず、戦いに敗れてしまいました。
子どものころより一緒に育った今井兼平(いまいかねひら)や巴御前(ともえごぜん)などわずかの兵を連れ、義仲は逃走しようと試みるも粟津の地で運悪く源氏軍と遭遇してしまいました。『木曾の最期』では木曾義仲と今井兼平とが主従関係で結ばれていながら、友情のようにお互いを思いやる気持ちが見て取れるのが見どころとなっています。
敦盛の最期
熊谷直実の苦悩
1184(寿永3)年3月、義経が断崖「鵯越(ひよどりごえ)」を馬で駆け下り、平家軍を急襲したことで知られる一ノ谷の戦い(現在の兵庫県神戸市)。思いもよらないところから敵兵が現れたことに驚いた平家軍は大混乱に陥り、我先にと船に乗り込み、海に逃れようとします。
「敦盛の最期」では一ノ谷の戦いのあと、戦功を挙げようと意気込んでいる熊谷直実(くまがいなおざね)が、沖の船を目指し逃げていく1騎の武将を見かけたところから始まります。
立派な姿から名の知れた武将であろうと思った直実が「背中を見せて逃げるのは見苦しい。岸にお戻りなさい」と大声で呼びかけ、扇を上げて招くそぶりをしたところ、その武将は直実の呼びかけに応じ、引き返してきました。この武将は平清盛の甥・平敦盛(たいらのあつもり)でした。
引き返してきた敦盛と直実は取っ組み合いになります。力に勝る直実が取り押さえ首を斬ろうと兜を上げてみると、16~17歳ほどの若者でした。わが子と同じくらいの年齢の若者を自らの功をあげるために討ち取ってよいのか、直実の逡巡する思いが描かれています。
那須与一・扇の的
扇が舞う描写が美しい名場面
1185(元暦2)年3月、源氏と平氏が激しい戦いを繰り広げた屋島の戦い(現在の香川県高松市)。「扇の的」はこの戦いにおける名場面です。
嵐の中、阿波国・勝浦に上陸した義経は陸路を進み、屋島に陣を置く平家を背後から急襲します。海からの攻撃だけを想定していた平家軍は混乱に陥り、船に乗り込み逃げ出そうとしました。
しかし、源氏軍が思っていたより少数であることに気づくと、これに応戦。船を岸に寄せ、弓矢で義経軍を攻撃し激しい戦闘が繰り広げられます。戦いは一進一退となり、なかなか勝負がつかないまま日没が迫り、両軍はいったん休戦にしようという雰囲気になりました。
そんななか、沖にいる平家軍の船の一団から若い美女を乗せた小舟が、源氏方へ漕ぎ寄せ近づいてきます。小舟の先頭には竿を立て、先端には赤地に金箔の日の丸を描いた扇がくくりつけられてありました。美女は陸の源氏軍に向かって手招きしています。平家軍は「この扇を射落とせるものならやってみろ」といわんばかりに源氏を挑発してきたのです。
平家の挑発を受けて立った義経は、弓の名手がいないか呼びかけます。しかし誰1人として声を上げるものはいません。波で揺れる小舟の先端にある扇を射るなど、弓の名手であっても打ち損じる可能性があります。
そこで白羽の矢がたったのが那須与一(なすのよいち)でした。義経の理不尽な命を受け、辞退する選択肢もなくなった与一はやむなくこの任務を引き受けます。
万が一、打ち損じることがあれば末代までの恥、世間に顔向けなどできません。失敗したら自ら命を絶つつもりで、悲壮な思いを巡らせながら与一が放った鏑矢は、扇を見事うち抜いたのでした。真ん中を射られた扇が空中に舞い上がり、ひらひらと春風に吹かれながら海面に落ちていく描写が美しい場面です。
壇ノ浦の合戦
源平最後の戦い
源義仲に都を追われたのち、源頼朝と義仲の対立に乗じて、態勢を立て直した平家は摂津国・福原まで陣地を挽回しました。しかし、一ノ谷の戦い、続く屋島の戦いに敗れ、残す拠点は長門国・彦島のみとなり完全に追い詰められていました。
1185(元暦2)年4月25日、壇ノ浦(現在の山口県下関市)で源氏と平氏による最後の戦いが行われたのです。
先帝身投げ
平家の終焉
序盤は戦いを優位に進めていた平家ですが、戦いが終盤になると形勢が逆転。平知盛(たいらのとももり)は平家の命運が尽きたことを悟り、安徳天皇が乗る船に赴きます。敵に見られて見苦しいものはすべて海に捨てるよう言い残すと、船の掃除を始めるのでした。
二位殿(にいどの、清盛の妻であり安徳天皇の祖母、尼になる前は平時子)はこうなることはかねてより覚悟していたことなので、入水自殺をはかるため安徳天皇を抱き上げます。
安徳天皇がどうするつもりなのか尋ねたところ、二位殿は海の下にも都がありますと答え、安徳天皇もろとも飛び込むと海の底に沈んでいきました。8歳の小さな子供と入水するという衝撃的なシーンが描かれています。
安徳天皇の母・建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)は自分の母と子が入水したのを見て海へ身を投じます。しかし重いものをしっかり仕込んでいなかった徳子はうまく沈むことができず浮いてしまい、漂っているところを源氏に引き上げられてしまったのでした。
平家の主だった人物が次々と入水する中、平家の棟梁・宗盛とその子・平清宗(たいらのきよむね)は海に飛び込むのをためらっていました。あまりの情けなさを見かねた家来が近くを通るふりをして宗盛を突き落とし、それに続いて清宗も飛び込むという有様。しかし重いものを背負うなど準備を全くしていなかったこの2人は沈むこともできず泳いでいるところを結局は引き上げられたのでした。
能登殿最期
豪快な武将、平教経の死にざま
これが最後の戦いになると考えていた平教経(たいらののりつね、能登守)はある限りの矢をすべて放ったあとは両手に太刀と長刀を持ち、源氏の武士を片っ端から討ち取っていました。見兼ねた平知盛から無駄な殺生を控えるように使者が届くと、源氏方の大将・義経1人に狙いを絞ります。
源氏方の船から船へ飛び移り大声で叫びながら義経を探します。ついに義経の船に乗り移ることができた教経ですが、身軽な義経は約6メートルも離れていた別の味方の船にひらりと飛び移りました。あきらめた教経は武器も兜もすべて海へ投げ捨てると、立ち向かってきた安芸実光(あきさねみつ)と弟・次郎を力ずくで両脇に抱え込んだまま海に飛び込み、命を絶ったのでした。
平家一門が次々と入水自殺をはかる「先帝身投げ」や「能登殿の最期」は『平家物語』のクライマックスともいえる名シーンです。
まとめ
「祇園精舎」の書き出しに懐かしさを覚えた方、「木曾の最期」「扇の的」など有名な場面をもう一度読んでみたい、源義経や木曾義仲が気になる、源平の戦いをもう一度ふりかえりたい、という方はぜひ『平家物語』を読んでみることをおすすめします。