【方丈記】鴨長明、波乱の人生が行き着いた暮らしとは? 内容と特徴を解説
鴨長明の生涯
鴨長明は、平安時代末〜鎌倉時代のはじめに活躍した歌人・随筆家です。
1155(久寿2)年、京都の下鴨神社の正禰宜(下鴨神社の最高位)の子として生まれました。有力者の息子として、長明は将来を約束されていました。
18歳のとき、長明は父の死という大きな転機を迎えます。
父という後ろ盾を失った長明は親族との跡継ぎ争いに負け、家を去ることになります。長明は失意の中、和歌の腕をひたすら磨きました。
2つ目の転機が訪れるのは、長明が47歳のときでした。
彼は「新古今和歌集」の選者である「寄人(よりうど)」に任命され、活躍します。この仕事が評価され、ついに彼は後鳥羽院から河合社(ただすのやしろ)の禰宜(ねぎ)に推薦されます。ただ、ここでも親族に邪魔をされ、夢であった神職の道は絶たれてしまうのです。
その後長明は出家し、住まいを転々としながら隠遁生活を送ることになります。長明は家柄や才能に恵まれながらもいくつもの挫折を経験し、波乱の多い生涯を送った人物でした。
題名の由来
「方丈記」という題名は、鴨長明が晩年に住んだ一丈(3.03m)四方の小さな庵(いおり)に由来します。
基礎を作らず、すぐに組み立てて解体できるような簡素な庵は、彼の晩年の住処でもあり、「無常観」を表現する印象的なモチーフでもありました。
方丈記の特徴
方丈記は、よく「無常観」という言葉で説明されています。
「無常」とは仏教用語で、世の中のものは常に変化して同じところには留まらないということを言います。同時代の「平家物語」や「徒然草」なども、同じく無常観をテーマにした作品です。
鴨長明の生きた平安末期から鎌倉初期の日本は、源平争乱などの政治の混乱、そして飢饉や地震など様々な自然災害が発生した時代。
特に平安末期は、釈迦入滅後に仏教がおとろえる「末法の世」に入ったと信じられていました。災害や戦でたくさんの人が亡くなり、家を失い路頭に迷う人々も増え、未来へ希望を持てないような雰囲気だったのでしょう。そんな「生きにくい」時代を嘆きつつ、どう豊かに生きるべきかを説いたのが方丈記なのです。
有名な冒頭
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」
これが方丈記冒頭の有名な文章です。
この文章の意味は、「川は絶えることなく、常に新しい水が流れている。淀んだ所に浮かんでいる水の泡は、あちらで消えたかと思うとこちらで浮かび、決していつまでもそのままではいない。世の中の人を見て、そしてその住まいを見ても、やはり同じことである。」となります。
「物事は変わり続ける」という無常観を象徴した美しい文章です。
長明の生まれた下鴨神社の前には、京都の街の中心部を縦断する鴨川が流れており、長明は鴨川の流れをイメージして、この文章を書いたのではと言われています。
方丈記の内容・あらすじ
方丈記を前半と後半に分け、それぞれの内容とあらすじをご紹介します。
【前半】長明が見た災害と混乱
方丈記の前半は、長明が生きた時代に発生した大きな5つの災害の様子が語られます。
特に1181(養和元)年に始まる「養和の大飢饉」の描写は悲惨そのものです。干ばつによる食糧難に見舞われた後、感染症が都を襲い、数万人の人が亡くなったと言います。
当時都で亡くなった人の遺体は、鴨川の河原に集められていました。鴨川は遺体だらけで足の踏み場もありませんでした。方丈記冒頭の「ゆく川の流れは〜」の静かな鴨川の情景は、見る影もなかったことでしょう。長明はなすすべもなく、都はまさに地獄絵図だったと述べています。
【後半】庵の小さく豊かな暮らし
後半は前半とは打って変わり、長明が晩年を過ごした庵での暮らしについて、叙情的に語っています。
長明は孤独な暮らしの中でも、深い物の見方をすれば飽きることはないと言います。春は藤の花を眺め、夏はホトトギスの歌に耳を傾け、秋はひぐらしの声を聞き、冬は雪を愛でる…といったように、長明が見た四季折々の自然が、和歌や漢文の表現を織り交ぜて描かれます。
五畳半ほどの小屋に住み、書き物をしたり、琵琶や琴を弾いたりする生活は、まるで現代のスローライフのようです。
波乱に満ちた人生を送ってきた長明が最後に行き着いたのが、この静かで豊かな暮らしだったのです。
まとめ
方丈記の和歌や漢文の表現を巧みに使った歌うような文章は、現在でも美文・名文として知られています。
原文を読んでみると、さらに文章の美しさを感じられるはず。
方丈記はとても短い作品です。興味がある方は、ぜひ一度作品を手に取ってみてください。
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