【織部焼】千利休の弟子・古田織部によって創始!はじまりから特徴に11種類の織部
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古田織部
初めての士官は織田信長
古田織部は1544年に美濃国に生まれました。本名は古田重然。
父・主定は斎藤道三に仕えていましたが、織田信長の美濃平定とともに信長の配下となり、織部は使番として仕官しました。織田勢として桶狭間の戦い、姉川の戦いにも参加しました。
26才の時に荒木村重の重臣・中川清秀の妹と結婚しました。
1578年、荒木村重が織田信長に謀反を起こした際は、義兄の中川清秀と、同じく村重の重臣・高山右近を村重から切り離して助けました。
秀吉の部下としても活躍
信長の死後、豊臣秀吉の天下となり、42歳の時に従五位織部正(織物を扱う役職ですが織部は茶器の担当をした)を叙され、3万5千石の大名となり、師匠の千利休の死後、秀吉の茶頭として茶の湯の第一人者となりました。
秀吉逝去のときには、秀吉の御伽衆(秀吉の話し相手などをする側近たち)の一人として名を連ね、秀吉が集めた遺品の茶器を譲り受けるまでの地位にいました。
家康・秀忠の家臣となる
秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは徳川家康側につき一万石の大名となりました。そして2代将軍徳川秀忠の茶の師匠となります。大坂冬の陣では5人の子供のうち4人と徳川方につきました。この際、茶の湯に使う竹を探しに行って、明るい月夜に照らされた坊主頭を敵の佐竹氏に討たれて負傷したとも言われています。
その後、家康から豊臣方への内通を疑われ(両家の無血和解を望んで奔走していたことが有力)切腹しました。享年72才。
遅咲きの茶人 千利休との出会い
古田織部が、師匠の千利休に入門した時期ははっきりしませんが、武家の生まれですから、若いときに茶もたしなんでいたはずです。織部は茶の湯が好きではなかったそうで、初めての茶会の記録も40代と遅いです。
しかし「人と違うことをしろ」という師匠利休の教えが、織部の性格と合っていて、次第に茶の湯にのめり込んでいきました。作風も茶の作法も全く正反対と言え利休も織部を認めていました。
千利休が切腹を申し付けられた折には利休七哲(千利休に心酔していた弟子7人)のなかで細川忠興とともに、ただ二人で師匠の死を見送りました。
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織部焼のはじまり
黒織部沓形茶碗 銘 鶴太郎
出典:国立博物館所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collectionItems/view/12f08f3c06a62af80737925634848303/60378
焼き物ルネッサンスといわれる時代の陶窯設立ブーム。
戦国時代から江戸時代初めにかけて、茶の湯が流行し、大名たちは領地と同じくらい茶器を大事にしました。そこへ織部の師匠の千利休が、自ら発案した黒井楽茶碗を長次郎という陶工に依頼したことから楽茶碗の流行が起こり、楽茶碗の窯が各地にできました。
また、朝鮮出兵の際には大名たちは朝鮮の陶工に茶器を注文し、帰国後自分の領地に陶工を招いて自分の領地に釜を作りました。萩。益子、唐津、有馬がその例です。
このような時代背景のなかで、茶の第一人者となった織部も、自分の考案した織部焼を焼かせました。織部焼の多くは、陶工の加藤景延が美濃各地に作った連立式登り窯という山の斜面を利用した大量生産可能な高温の焼き物が可能な窯を作り、唐津から呼んだ職人たちによって制作されたものです。
一大ブームを巻き起こした織部焼ですが、織部が切腹した後は、しばらく廃れていました。古田織部の全盛期は慶長(1596~1615年)前後の短い間でした。
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織部焼の特徴
織部扇形蓋物
出典:国立博物館所蔵品統合検索システム https://colbase.nich.go.jp/collectionItems/view/12f08f3c06a62af80737925634848303/60378
鮮やかな緑・利休風の黒との決別
織部焼の特徴は一言で言えば、わび茶を軸とした利休の町人風の茶との決別でと言えます。
利休の好んだ黒の楽焼に対し、織部焼は白に絵付けをしたもの、また独特の緑色の釉薬と白地を混ぜ、幾何学模様などを描く斬新さが特徴です。
器の形も沓形のぐい飲みが代表的で、扇型や籠の形を模したものなど、バラエティーに富んだ形状が特徴です。その華やかな作風は利休の町人の茶に対し、“武家の茶”織部好みといわれています。
靴型に代表されるゆがんだ形は「ひょうげもの」の愛称で親しまれています。ひょうきん者という意味であり、その器の形と主に織部の性格も表しています。
織部焼は、最も有名な青織部をはじめ、その釉薬の違いにより11種類に分けられています。
青織部
[あおおりべ]
銅を発色剤とした緑釉を器の一部にかけ、残りの白い部分に鉄絵の具で絵付けをしたもの。
織部の代表的な作風で、その緑色は織部が自然の緑を現したいと考え、全体的に深緑色をした南蛮渡来の交趾焼を参考として作り出されました。
青織部向付
ろくろで成形された扇型に緑釉をかけ、白地部分に花などを描いたものが多く、扇型や扇形を二つつけた形が多く残されています。
織部脚付角鉢[東京国立博物館所蔵]
織部独特の緑釉部分ポイントに使われている程度で、絵付け部分を主としている。そのデザイン化された花模様は織部黒の茶碗の模様と同じく、ポップで斬新です。
黒織部
[くろおりべ]
鉄釉薬を使い、白地を残して絵付けを施しています。
黒織部茶碗
黒織部の特徴的な作品で多く残されており、モノトーンの色合い、いびつな形と幾何学模様のコンビネーションが秀逸です。最近作られたといっても誰もわからないと思います。
織部黒
[おりべぐろ]
黒色になる鉄釉を全体にかけたもので、1200度の高温で焼かれ、引き出した時に鉄釉が急激に冷えることでより黒さを増します。
織部黒沓形茶碗
沓形茶碗は織部黒の代表的な形で数多く作られています。いびつな形は沓形とよばれ織部好みの特徴です。
瀬戸黒という瀬戸焼の手法をまねて織部焼に生かしたもので、その黒い美しさは絵を施した黒織部とはまた違った趣があります。
鳴海織部
[なるみおりべ]
白土と赤土を組み合わせて作られるのが特徴で、白土部分に緑釉をかけ赤土部分に絵模様を描く手法です。
織部爪型向付5客[古田織部美術館所蔵]
茄子のようなこの形は、現在に作られたといってもわからないほどの斬新さです。黒部分と白部分のコントラストのバランスは私たちが見てもわかりやすく新鮮です。
赤織部
[あかおりべ]
鳴海織部と同じ赤土を使用し、白泥などで絵を描いたもの。低い温度で焼かれる。赤土のほんのりとした赤が特徴で、黒織部や青織部とは趣が異なります。
志野織部
[しのおりべ]
志野焼は日本で初めて作られた白い陶器です。利休の師匠の武野紹鴎も志野焼の白天目茶碗を所持していました。志野織部はその志野焼の系統を引くもので、高温で焼かれてロクロで制作した作品を鬼板といわれる鉄絵具で装飾します。
志野織部台付向付[美濃焼ミュージアム所蔵]
六角形の皿の形に鉄絵具でモダンな花柄が施され、いびつな形と大胆な模様が楽しい作品です。
総織部
[そうおりべ]
織部焼の代表とされる緑色の釉薬を器全体にかけたもので、中国の陶器などを参考に作られました。
総織部獅子香炉 慶長十七年 熱田神宮[東京国立博物館所蔵]
香炉で小さい作品ですが存在感は抜群で、織部の中でも年号が入ったものは珍しいです。
伊賀織部
[いがおりべ]
伊賀焼の作風の影響を受けて作られた織部焼。
多くは茶に使われる竹や籐の花籠を模した形をしており、その形と透明釉に鉄釉を流したのが特徴です。
唐津織部
[からつおりべ]
織部焼の陶工・加藤影延が美濃の元屋敷窯を開いたときに唐津から連れていた陶工が作ったといわれている唐津焼の影響を受けた織部焼。鉄絵具で絵付けをしています。
絵織部
[えおりべ]
土に緑釉をかけないで、白い地に鉄絵具で絵柄を付けたもの。現代でも釜の中の置き場所なども選ばず、ほかの織部に比べると作りやすい。
弥七田織部
[やひちだおりべ]
弥七田窯で作られた織部焼晩期の作品を指します。白地に緑釉を面で使わず線で使う(たらすように使う)のが特徴で、食器に多く用いられました。
織部筒向付5客[古田織部美術館所蔵]
竹を思わせる筒形をした形の面白い作品です。高さ11センチと小さいですが幾何学模様も現代的とさえ言えます。白地に、ポイントとなる赤が印象的で織部の中でも赤をこのように使うのは矢田織部のみです。
まとめ
古田織部は、武将としては調和を望むハト派、茶人としては革命的ともいえる斬新なデザインの茶器の数々を生み出した人物です。
織部焼は、死後しばらく廃れたもののバラエティーに富んだ作品は、現代もまた再認識され、分類されて受け継がれています。
「へうげもの」といわれた作風・人物像からもわかる才能が、時代を超えて認められる素晴しさを持ち合わせていたといえますね。
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