【葛飾北斎】世界に影響を与えた奇才の画家!有名作品「富嶽三十六景・小布施天井絵・北斎漫画」
この記事の目次
葛飾北斎とは
葛飾北斎は宝暦10(1760)年、川村家に生まれ、幕府御用鏡師の中島伊勢の養子となりました。20歳のときに勝川春章に師事し、一年で頭角を現しました。狩野派、土佐派など日本画の伝統的技法を学ぶ一方、西洋画や解剖学にも興味を持ち、幅広いジャンルの画法を作品にも取り入れました。
生涯で90回以上の引っ越し、何度も画号を変え、衣食住にこだわらない変人として数々の寄行談が残されています。また2回の結婚をし、娘に恵まれています。
号と共に作風も変わる
主に使われていた号(本名の他に用いる名)を見ると作品の製作時期がわかりま。富嶽三十六景は北斎為一が使用されています。
勝川春朗[20歳~]、宗里[35歳~]35歳ころに勝川派を離脱(破門された)、北斎辰政・画狂人[42歳~]、戴斗[57歳~]、為一・葛飾北斎[64歳~]、画狂老人[74歳~]と、大まかに分類されます。
衰えない制作意欲
富嶽三十六景の序文に「50歳以前の作品はろくなものではない、70歳で初めて草木や虫の骨格を知った。90歳で絵の極意をきわめて101歳まで描き続ける」と書いています。
驚くべき制作意欲です!そしてそのとおり、70歳以降の作品に名作が多いです。
世界を魅了した北斎ブルー
[プルシアンブルー]
「富嶽三十六景」に使用されている美しい藍色は北斎ブルーと呼ばれるプルシアンブルーの顔料です。
この絵の具は、最初にロシアで作られヨーロッパに普及した後、清にわたって大量生産が可能になり日本にも持ち込まれました。「富嶽三十六景」の版元である西村屋蔦八がこの絵の具使った作品を北斎に依頼しています。
北斎はこの青の絵の具を晩年の作品に好んで使っています。特に海の彩色に似合い美しい藍色です。
世界への影響
ジャポニズムブーム
江戸時代の終わりころは、開国を迫る外国船が日本に来るようになりました。リーボルトコレクションのなかにも北斎とみられる錦絵があり、あのペリーも日本の骨董好きだったと言われています。貿易商だけでなく、こうした人々の手で日本の骨董品や絵画が海を渡りました。
1900年前後、西洋の画壇には既成の概念にとらわれず他の文化も取り入れる様式が流行しました。
特に遠近法にとらわれない浮世絵のデザイン化され表現や、北斎の富嶽三十六景のアイデアは、実物に対して優美に描く西洋画の常識を破るものでした。
フィンセント・ゴッホ
北斎と同時期の浮世絵師・歌川広重の「名所江戸百景」を模写した作品は有名です。「ザンギー爺さん」では、同時期の浮世絵師栄泉の錦絵の富士山が背景に描かれています。
ゴッホの日本に対する思い入れは大きかったようで、北斎や歌川広重、栄泉をはじめとする浮世絵を500枚以上持っていました。売れない画家だったゴッホがここまで固執したのは、“日本があこがれの異郷の地”だったに違いありません。
アンリ リヴィエール
リヴェールは「西洋の浮世絵師」といわれるフランスの版画家です。
富嶽三十六景のアイデアを真似して、建設中のエッフェル塔の見えるパリ市内の名所を「エッフェル塔三十六景」として発表しました。エッフェル塔を大胆に配置した構図を用いたモノクロのこの銅版画には北斎の影響が強く出ています。
パリのエッフェル塔は1889年に開催された万国博覧会のシンボルマークとして建設され、この博覧会で北斎の作品も多く紹介されました。
クロード・ドビュッシー
作曲家ドビュッシーは、富嶽三十六景を交響曲「海」の楽譜の表紙に使用しました。この「海」の作曲にも北斎の水の表現を巧みに使った浮世絵からヒントを得たとされてます。
北斎の有名作品
北斎といえば、波の表現の芸術性が際立ち、多くの波を扱った名作があります。また『北斎漫画』のようなユニークな作品も海を渡って評価されています。晩年に多く描かれた肉筆画を中心に有名作品を紹介します。
富嶽三十六景・神奈川沖浪裏
出典:Wikipedia/『冨嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」
富士山の見える場所36ヶ所の風景を描いた揃物錦絵「富嶽三十六景」のなかの一枚で、江の島沖の荒れた海の一コマです。北斎が70歳の時の作品になります。
当時、北川歌麿や写楽など人物画の浮世絵が主流だったところに、風景画という新しい風を吹き込みました。版元は西村屋蔦八で北斎ブルーの絵の具を最初に使った作品です。
遠近法を無視して描かれたいきり立つ波、富士山を挟んで二隻の船が描かれた構図は、江戸の人々だけでなく海外でも衝撃を与えました。今見ても斬新ですね。
いきり立つ波、斬新な構図には、「関東に行ったら波を扱ってはいけない」と言わせたほどの彫刻師・波の伊八の影響を受けたのではないかと言われています。
「富嶽三十六景」は売れ行きが良かったため追加で十景が発売され、三十六景という名ですが実は48枚構成です。
富嶽三十六景・凱風快晴
出典:Wikipedia/『冨嶽三十六景 凱風快晴』(通称:赤富士)
「富嶽三十六景」の一枚。夏の澄み渡った空にそびえたつ赤富士として有名で、北斎が79歳の時の作品になります。
富士山をドカンと主役に置いたこの構図、雄大さを感じさせます。それまで挿絵や漫画など庶民向けの画家として人気を得ましたが、風景画というジャンルで富裕層の顧客を意識したと言われています。
北斎のシンボルともいえる深く澄み渡る藍色はこの作品から使用されました。
千絵の海・総州銚子
出典:Wikipedia/『千絵の海』「総州銚子」
千絵の海は、全国各地の漁の風景を描いた10枚揃いの錦絵で、北斎が74歳の時の作品です。
荒れ狂う浪が岩に打ち付けられ、それに立ち向かうように二隻の船が描かれています。富嶽三十六景同様に、勢いある波は圧巻です。
夜の川で漁をする「甲州火振」や、増水の時の漁を描いた「持チ網」、激しい波から穏やかな川、流れる滝のような川など、漁の様子とともにバラエティに富んだ北斎の水の表現が見られます。北斎はたびたび描かれる海の風景に船が描かれているのでもわかる通り、漁に特に興味を持っていました。
このシリーズは売れ行きが振るいませんでした。発行数が少なかったのか、現在では10枚揃って現存するのはオランダの博物館にあるのみで希少な作品です。
東町祭屋台天井絵・龍図/鳳凰図
出典:Wikipedia/信州小布施 東町祭屋台天井絵 『龍図』(桐板着色肉筆画)
北斎が80代で信州を訪れた時、陽明学にも通じている豪商・高井鴻山と交流を深めていました。そして、信州小布施町の祭り屋台の天井絵の仕事を請け負いました。
中国風の龍はのびやかに描かれ、まるで竜が天を泳いでいるような躍動感があります。
朱色の背景に白い龍の「龍図」と、朱色の背景に黒の鳳凰が描かれた「鳳凰図」は並んで配置されています。二つの図の赤、白、黒のコントラストが屋台の天井で目を引きます。龍や鳳凰の色は近く、岩松院のカラフルな鳳凰と比べると対照的です。岩松院の鳳凰図と並ぶ北斎肉筆画の名作です。
上町祭屋台天井絵・怒涛図
出典:Wikipedia/信州小布施、上町祭屋台天井絵(桐板着色肉筆画)のうち『怒涛図』2図中の1「女浪」その一部。
豪商・高井鴻山より請け負った天井絵「怒涛図」は、うねり立つ水の素晴らしさを表現した「男波」「女波」の対からなる作品です。
この作品でもの音が聞こえてきそうな見事な荒波が画面いっぱいに力強く描かれており、「神奈川沖浪裏」の下絵をモチーフにしているとみられます。
屋台の天井に描かれた縁絵は北斎の指示のもとに高井鴻山が彩色し、屋台に彫られている『水滸伝』の武将・皇孫勝は、彫刻師の亀屋和田四郎によって彫られています。
北斎の水の表現を語るうえで外せない作品です。
信州小布施天井絵・大鳳凰図
出典:Wikipedia/岩松院 『八方睨み鳳凰図』下絵
信州小布施の東行寺岩松寺に描かれた約20畳の大きな天井絵です。この大作に85歳以降に取り組みました。
北斎の画家人生の集大成といえる作品です。
使用されている藍色は北斎ブルーといわれるプルシアンブルーの顔料です。また、鳳凰の彩色には西洋の油絵の技法の影響が見られます。
この絵には富士山の隠し絵がされており、まじめな絵の中にも北斎のひょうきんな一面が表れています。
別名「八方にらみ鳳凰図」でも知られている作品です。
鳳凰にらまれながら富士を探すのもいいものです。とにかくその大きさに驚きます。
北斎漫画
出典:Wikipedia/『北斎漫画』 八編(1818年出版)15丁より、座頭と瞽女(ごぜ)視力に障害を持って渡世する人々のさまざまな顔模様を描いてみせた。
「気の向くままに描いた」といわれるこの作品は、人物・動物・草木など身の回りで目にしたありとあらゆる物のスケッチ約4000点が収録されている「北斎漫画」。
北斎が55歳の時に号を戴斗に変えてこの作品に取り組んでいます。
門人でもあった牧墨僊宅で半年かけて描いたスケッチを、絵手本として売り出したところ、売れ行きが好調で15巻が刊行されました。
人物の部では、鼻息でろうそくの火を消そうとする町人のスケッチは、見るだけで誰でも笑いがこみ上げてきます。ユーモアあふれる描写の数々に奇人と言われた北斎の人柄がうかがえます。手の動きのスケッチでは、思わずこちらも同じ形を試したくなるような面白さです。
日本の漫画のルーツともいえるこの作品も「ホクサイ スケッチ」として、すぐに世界で受け入れられました。シンプルな笑いに、国籍は関係ありませんね。
百物語・お岩さん
出典:Wikipedia/『百物語 お岩さん』 『百物語』全5図のうち、四谷怪談のお岩さん。提灯に浮かび上がる恨めしげなお岩の形相。
奇人として知られる北斎らしいユーモアあふれる作品「百物語」のお岩さんです。北斎が74歳の時、「富嶽三十六景」を手掛けた同時期にこの作品も製作していました。
「百物語」は江戸時代に流行した遊びの一つで、夜に100本のろうそくをつけ、一人一話ずつ怖い話を語り、語り終えるたびに、ろうそくを一本ずつ消していきます。
この遊びにちなんで100話作ろうと企画していましたが、売れ行きが良くなく5枚で打ち切られてしまいました。
江戸時代は怪談ブームでもあり、歌舞伎でも怪談が上演され幽霊画を描いた錦絵や掛け軸が数多く制作され、同時代に描かれた掛け軸の本当に怖い「幽霊図」に比べると、北斎のお岩さんはずっとかわいらしく怖さの中に愛嬌さえ感じます。
まとめ
北斎は、何度も号を変えながら亡くなるまで多くの作品を遺しました。「富嶽三十六景」をはじめ、秀作といわれるものは70代以降の作品が多いです。
作品のクオリティの高さは、開国を迫って来日してきた外国人たちにもすぐに認められ、海を渡ってゴッホをはじめとした欧米の画壇にも影響を与えました。
風景画が有名ですが、ユーモアを交えて描かれた絵手本「北斎漫画」は、江戸で大ヒットとなりました。「ホクサイ スケッチ」として現在でも世界中で受け入れられています。
実際にご覧頂ける機会がありましたら、ぜひ間近で「葛飾北斎」を感じてください。
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