【東海道中膝栗毛】弥次さん喜多さん珍道中!十返舎一九の江戸時代大ベストセラー
この記事の目次
東海道中膝栗毛とは
江戸時代の大ベストセラー名所案内本
『東海道中膝栗毛』は、享和2(1802)年から文化6(1809)年まで十返舎一九(じっぺんしゃいっく)によって書かれました。当時流行した滑稽本という軽い読み物のジャンルで、町人層でも読める軽くユーモアを交えた内容でした。
話は、漫才でいうボケと突っ込みのような軽い会話形式で進みます。これは狂言のシテ(主役)・アド(主役の受け)の形式を参考にしたといわれています。
この作品が大ヒットし、以後20年近くにわたって続編や派生編が続きました。
「膝栗毛」とは馬を使わず自分の足で旅をするという意味で、この言葉だけが独り歩きして「〇〇膝栗毛」というパロディーや派生本がたくさん生まれました。
弥次さん喜多さんはどんな人?
弥次郎兵衛 (主役)
本名・栃面屋弥次郎兵衛。
駿河の国(静岡県)の裕福な商人の家に生まれました。ところが家のお金を遊びに使い果たしてしまいます。そして妻を追い出そうと画策し、家に入れた二人目の妻になる女性は身重のまま亡くなってしまいます。
借金まみれで困った弥次郎兵衛は、入れあげていた役者見習いの青年鼻之介を喜多次と改名して成人させ、お金を稼がせようと企みます。そんな計画がうまくいくはずもなく、借金に追われ江戸に出て江戸八丁堀の長屋住まいを余儀なくされます。江戸でも遊びを繰り返し、とうとう居候の喜多次と江戸を逃げるように出て、お伊勢参りをしようと旅に出ます。
旅に出たのは50歳くらいのとき。喜多次とは親子のような年の差です。
喜多次 (弥次郎兵衛の相棒)
駿河の国の生まれ。
元は、役者志望だったが弥次郎兵衛に気に入られて世話になっていた。弥次さんの策略により、元服させられて商家に奉公に出されますが、生来の性格もあり店の金を使い込んで続きません。
浅知恵の才覚が働く愛嬌のある性格で、悪いことをしても何となく憎めないところがあります。
元は、かわいい顔の役者でしたが、成人した今はその面影はありません。
江戸でも弥次郎兵衛の住む江戸八丁堀の長屋に居候しています。
元服してからは弥次郎兵衛とは普通の成人同士の関係です。
弥次さん喜多さんの足取り
二人が旅をするのは、江戸時代に徳川家康によって整備された五街道のひとつ東海道です。
東海道は物資の輸送や、参勤交代をスムーズにするために整備されましたが、次第に町人も旅を楽しむようになり利用するようになりました。二人は東海道に沿って桑名宿(三重県)から分岐した道に入り、伊勢神宮へと向かい、東海道には戻らず枚方宿から京都に入ります。第八編では、京都から大阪見物へと繰り出します。
[発端編]
生まれ育った駿府宿から江戸へ行くまで
[初編~第五編]
日本橋を出発し、東海道の桑名宿(三重県)まで
第五編:東海道から分岐した追分街道を通って伊勢へ
五編追加:伊勢神宮編
[第六編]
伊勢~枚方宿、枚方から船で京都の伏見に出る
[第七編]
京都見物
[第八編]
大坂見物
漫才のような軽い会話をしながら道を歩き、旅籠に泊まり、名物を食べ歩き、事件を巻き起こす弥次喜多コンビです。一話のなかに必ず狂歌が詠まれて、話の最後は下手な歌で〆られています。「難波江のよしあしくとも旅なれば思い立つ日の吉日とせん」 (旅は日の良い悪いにかかわらず、行こうと思い立った日が吉日)
借金まみれの二人は、このような歌をうたいつつ旅をスタートします。「さきのよに かりたおすか今かすか いづれむくいのあるとおもえば」 (借金は前世からなのか、今の世のものなのか、結局いつ返しても同じ)
弥次さん喜多さんも寄った名店・名所
宿場や街道沿いには茶屋、茶店がありました。藁ぶきの立派な建物を構えている店から、赤い敷物を敷いた椅子の置いた簡易的な店、さらに簡単な茶を売るだけの立ち売りだけの商売もありました。
土地の名物を食べることのできる茶屋は旅人の楽しみの一つでもあり、旅の疲れをいやす場所となっていました。
二人が立ち寄った名店・名所とともに、エピソードを紹介します。
川崎宿
[万年屋の奈良茶めし]
六郷の渡し(相模川の下流・六郷川を往復する舟)を渡り、武蔵国から相模国に入った弥次喜多コンビです。
舟の中では喜多が機転を利かせて武士のふりをして一儲けします。舟から出た二人は、奈良茶めしで有名な万年屋に入ります。
奈良茶めしは、大豆、小豆、生姜、きのこなどを入れて、塩と醤油で味付けした炊き込みご飯のことです。船から降りた客がすぐに食べられるように、常に炊いていて竹の皮に包んで販売していました。
しかし、弥次さんが食べたのは、喜多さんがふんどしに包んできた飯です・・。
この後二人は大名行列にあってしまい、「下へ下へ」と大名の列の通り過ぎるのを待ちます。その様子は「東海道五十三次」にも描かれています。
【浮世絵】歌川広重「東海道五十三次」江戸から京都まで解説![日本橋〜掛川編]
二人は大名行列の籠から降りてきた裃姿の武士を「暖簾から金玉出すようだ」などと軽口叩いてやり過ごします。
戻り馬(一つ先の宿場まで客を馬に乗せて、人を乗せずに宿場に戻るところ)の商人に出合い、安く馬を使うことが出来ました。
小田原宿
[ういろう(薬)・梅干し]
小田原は北条氏の城下町としてにぎわっていた城下町です。
到着した二人は、梅漬けの名物とてや とめおんな くちをすくしてたびびとをよぶ (梅干しが名物だと女が一生懸命に客引きをしている すくしては、梅干しの酸っぱいことと掛詞にしている)と詠んで、ごきげんで城下町小田原を歩く二人です。
名物のういろう? 「これが名物のういろうか」「ひとつ買うてみよふ」と二人はういろうを買いますが、店は漢方薬店です。どうも餅ではない様子。
ここに出てくる小田原宿の「ういろう」は丸薬の漢方薬の透頂香(とうちんこう)という薬です。中国の元で作られた薬で、小田原城を居城としていた北条氏が城下町に広めました。口の中で清涼感を出す仁丹のようなものです。
現在、餅菓子のういろうは名古屋土産として有名ですが小田原でも土産物として販売されています。
ういろうを餅かとうまくだまされて こは薬じゃとにがいかほする (餅だと思って買ったういろうは実は苦い薬 思わず顔をしかめる) と歌いながら茶屋では甘酒を飲みます。
このあと、宿泊した先で五右衛門風呂の入り方を知らない二人のひと騒動が続きます。この話に出てくる五右衛門風呂は漆喰の釜の上に鉄の板をしき、その上に風呂おけ(底のない)を乗せて漆喰で水漏れしないように固めたものです。二人は下駄で入ることを思いつき、はしゃいで壊してしまいます。
藤枝宿
[たたみ鰯の船場煮・大平椀(たまご汁)]
宿泊先では付け出しで出された料理がたたみ鰯の煮物(たたみ鰯を塩味で煮ただけのもの)だったことから、弥次さんは「なんだ、たたみ鰯の船場煮か。次の料理はかぼちゃ団子のごま汁かサツマイモの煮物だろう」と軽口をたたきます。
いつまでたっても料理が来ないと待ちわびていると、卵のふわふわ汁(かきたま汁)が出され、舌つづみを打ちました。しかし、こんなごちそうにありつけたときには、何かが起こるのが膝栗毛です。この宿に泊まる前に弥次さんが喧嘩した男に騙され、お金を払わされる羽目になります。
ご馳走とおもひのほかの始末にて 腹もふくれた頬もふくれた と詠んでこの宿を去ります。
鞠子宿
[とろろ汁]
鞠子のとろろ汁を食べようと、店に入る弥次喜多コンビ、ある店に入ると亭主は皮も向かずに芋をすりはじめ、すりこ木で奥さんを殴っています。夫婦喧嘩の始まりです。せっかくのとろろ汁もおいしく食べることが出来ず、けんかする 夫婦はくちをとがらせて 鳶(とんび)とろろにすべりこそすれ と歌って、そそくさと店を後にします。
このあと大井川の川留で川を渡ることが出来ず、しばらく足止めされてしまいます。そして、豆腐なる をかべの壁に つきてけり あしにできたるまめをつぶして と詠んで、次の岡部宿での宿泊を決めます。
鞠子のとろろ汁は、現在も市に江戸情緒たっぷりのたたずまいの店で食べることが出来ます。また、「歌川広重の「東海道五十三次」でも描かれています。
【浮世絵】歌川広重「東海道五十三次」江戸から京都まで解説![日本橋〜掛川編]
江戸時代は、丁子屋のとろろ汁といえば、だれでも知っている名物でした。足止めを食らっているのに、次の宿場・岡部宿の豆腐の歌をうたっているのんきな二人です。
江戸時代、とうふは白塗りの蔵のイメージと重ねて「おかべ(御壁)」と別名で呼ばれていて、その語呂合わせで岡部(おかべ)宿は豆腐が名物でした。
藤川宿
[大平椀皿鉢料理 (蛸のゆでもの)]
二人は藤川宿につくと生の肴をみな店の前に陳列していました、生の肴?と喜んで食べますが、弥次さんはおなかが痛くなって便所に行きます。そこで、店の裏の納屋に住んでいる女性を見つけます。
さっそく弥次さんは声をかけますが、店主からあの女は不幸な生い立ちを背負い、気が病んでいるのだ。そんな女に手をだそうというのか、とたしなめられます。
皿鉢料理は海の幸を大きな丸皿に盛り合わせたものです。
土佐(高知県)地方の郷土料理として有名ですが、伊勢志摩地方やその他の地域でもお祝いのときや、神様にささげる宴会の料理として出される風習がありました。ハレの日のごちそうです。大平椀はその料理を出すお皿です。しかし、病んだ女にも手を出そうとするとは・・弥次さんの女好きにもほどがあります。
当時の宿場町は、重なる幕府からの人や馬の準備を要求が負担となっていました。観光・特産品などで成功した宿場と、そうでない宿場で経済格差が広がっていました。藤川宿が困窮した場末の宿場であることを踏まえて読むと、お話に哀れみが増します。
桑名宿
[焼き蛤]
桑名へ向かう船では、舟中での用足しマナーを知らなかった喜多さんがひと騒動起こします。船の中で小便をする竹筒を出発の時にもらった喜多さんは、てっきりその筒が入れ物だと思っていました。
竹筒は船のへりにおいて、川で用を足すように作られたもので底なしです。
船中は大変なことに・・・。
そんな騒動がありましたが、桑名宿についた二人は、早速、焼き蛤に舌鼓を打ちます。
京都へ行く船では再び、一緒に乗りあわせた旅人の急須に小用をしようと思い立ち、船中で小便を飲ませたり飲んだりという事件があります。
京料理を食べつくす二人
京都につくと早々に観光三昧、飲み食い三昧の弥次喜多コンビです。京都では北野天満宮、三十三間堂、清水寺、方広寺、東寺 壬生寺 など名所めぐりに精を出す二人です。
二人は伊勢参りのときに出会った「辺栗屋の与太」を訪ねます。与太は尋ねた二人に「桂川の若鮎、鴨川の土壌、卵焼き、松茸・・」と、京の美味しいものは、もう少し先の四条通りに行ったら食べられる」と次々言い出します。
そして自業自得ではありますが、伊勢での旅籠で踏み倒した代金を払わされます。
立ち寄った店で、ねぎ、鶏、竹輪の煮物、田楽と飯、菜ひたしとおでん、これで13匁(約25000円くらい※)も取られるのは理不尽だと弥次さんはケチをつけます。 ※計算式の基準となるものによって数値が違いますが、だいたい銀一匁は2000円前後。関東は金、関西は銀で支払いでした。匁は銀の単位。金は一貫。
物価の高い京都の旅は散々で、織物の土産の値段の高さに、ため息交じりの弥次さんでした。そのあとも、以前に出合った役戒坊という男に麦飯をたくさん食べさせられた挙句に騙されてしまいます。
はじめから人を茶にして やたらにめしを空也寺の僧 (初めからだますつもりで、飯を食わせた僧のやつめ・・) と詠んだものの京都の食事は散々です。
そんな弥次さん、旅人から梯子を買うこととなり「親の形見の梯子を江戸から運ぶところだ」と嘘をついたことから始まる一件があります。娘さんにけがを負わせ、とうとう医者を呼ぶ騒動になってしまいます。京都まで来てお参りしても懲りない二人です。
こうした二人の旅は、大阪、続編へと続いていきます。
十返舎一九と時代背景
十返舎一九は駿府国府中に、同心の子として産まれました。
19歳で江戸へでたあと、大阪で浄瑠璃を学び、再び江戸へもどってからは版元の蔦屋の居候となります。おもに黄表紙や滑稽本を書いていましたが、この作品以前に十返舎一九にヒット作はありませんでした。そのため、江戸の最大手の版元・蔦屋重三郎の家にいたにもかかわらず、西村屋から享和2(1802)年に刊行されました。「東海道中膝栗毛」は文章だけでなく挿絵も十返舎一九が描いています。
当時、洒落本や黄表紙の稿料だけでは、洒落本や黄表紙の作家たちは副業の商売をして生計を立てていました。しかし、十返舎一九と滝沢馬琴だけは執筆業以外はしませんでした。日本初の職業作家といわれています。
十返舎一九と一緒に旅をした人によると「口数も少なく、いつも紙に何か書きためていて、旅をしていてこんなにつまらない人はいなかった」そうです。
こんなに楽しい話を書くのに、いつも仕事のことを考えているまじめな人柄だったようです。20年も作品を書き続けていたので、ネタのことで頭がいっぱいだったのかもしれません。
当時、江戸町人の間では旅がブームで、富士山の見える景色を集めた「富嶽三十六景」や歌川広重の「東海道五十三次」などが名所案内的な浮世絵として販売され、好調な売れ行きでした。「名所江戸百景」などの観光案内本も発売されていました。
また、お伊勢参りや冨士講参拝など寺社への参拝ブームもこの作品がヒットのした背景にありました。町人層に元気があった証拠です。
まとめ
「東海道中膝栗毛」はコメディータッチの旅物語のルーツとも言えます。
当時の物価や食べ物などが細かく描かれ、江戸時代の町人たちの生の姿を知る上で貴重な史料となっています。
名物を食べ、名所を巡って旅館でくつろぐという旅の過ごし方は、今とあまり変わりません。旅の観光本も刊行され、意外と先進的な生活をしていたことがわかります。
また、道中の掛け合いは絶妙で、現在私たちが読んでも十分楽しく読むことが出来ます。
弥次さん喜多さんの悪行三昧にはあきれるばかりですが、江戸時代の人たちも私たちも苦笑いしつつも許してしまう魅力があるから、現在まで親しまれているのだと思います。
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