【茶道】産地による茶碗の種類を解説!唐物・高麗物・和物の違いと歴史について
この記事の目次
茶碗の歴史
唐物の渡来
もともと茶碗などの道具は、鎌倉時代に禅宗の僧侶たちによって、中国から輸入されてきました。
当時の中国は、日本にとって遥かに先進的な文化を持った憧れの国!現代の人が海外ブランドのバッグや車を欲しがるように、唐物を所有することが一種のステータスとなっていたのです。
唐物至上主義の時代
時代が下って室町時代になると、足利将軍家のもとに「同朋衆(どうぼうしゅう)」と呼ばれる、唐物の鑑定や飾り方などを担当する役職が置かれます。8代将軍の足利義政が収集した「東山御物(ひがしやまごもつ)」は、同朋衆によって価値づけられた宝物のことを指していますが、その中心は中国・南宋時代(1127年から1279年)の絵画や工芸品だったんです。
その後、戦国の様相が深まってくると、茶の湯が政治の手段に利用されるようになります。そのなかで唐物は大きな枠割を担い、例えば織田信長は唐物を一国の価値があるとして、部下の論功行賞に用いています。また、信長が唐物を中心とした名物を収集し、権威付けを行っていたことからも、その価値がいかに高かったかが分かるんです。
侘び茶の出現による唐物の衰退
唐物が大きな力を持っていた室町時代末期に、「侘び寂び」という新しい美意識が確立します。一般的に「侘び茶」と呼ばれる新しい茶の湯の価値観では、豪華な唐物よりも、シンプルで大らかな趣のある高麗物や和物が重宝されるようになったんです。
そして、この流れを決定的にしたのが、侘び茶の大成者として知られる千利休です。
お茶会の記録である「茶会記(ちゃかいき)」を読むと、天文年間(1532年~1555年)から天正年間(1573年~1592年)の中頃までは、その中心は唐物茶碗が主流でした。しかし、天正14年(1586年)の記録に「宗易形(そうえきなり)ノ茶ワン」という語句が登場したのを境に、高麗物と和物が茶碗の主流になっていくのです。
この“宗易”こそ千利休のことであり、彼は自分の茶の湯のスタイルに適った茶碗を新たに見つけたり、日本の職人に作らせたりしていくのです。
世の中の価値観を変えた千利休
天正16年(1588年)に利休の弟子、山上宗二(やまのうえそうじ)が記録した書物には、「唐茶碗はすたれ、当世は高麗茶碗、瀬戸茶碗、今焼茶碗がよい」という意味の文章が書いてあります。ここで言う瀬戸茶碗は今の岐阜県で作られた「美濃焼(みのやき)」、今焼茶碗は利休が指導して作らせた楽茶碗(らくちゃわん)に相当すると考えられており、この記述からも唐物至上主義の評価が一変したことが分かります。
そのわずか3年後の天正19年(1591年)、豊臣秀吉によって利休は切腹を命じられ、その生涯を閉じることになりますが、茶の湯の世界において、利休は世の中の価値観を180度転換させてしまった大天才だったのです。
わつなぎオススメ記事 >>【千利休】こころに響く!天下一の茶人千利休の名言・エピソード10選
唐物茶碗
豪華さはピカイチ
中国産の唐物茶碗は、歴史に裏付けられた高い技術力と豪華な色合いが見どころです。
コバルトブルーの「砧青磁(きぬたせいじ)」や宝石のようにキラキラと光り輝く「曜変天目(ようへんてんもく)」など、一目見て凄いと思えるところが、唐物茶碗の特徴です。
また、2020年現在、国宝に指定されている茶碗8碗のうち、5碗が唐物茶碗であることからも、歴史的に見ても今なお非常に高い評価を受けていることが分かります。
高麗茶碗
日用雑器や祭器として誕生
「高麗」と呼ばれることから高麗時代(918年 から1392年)の茶碗のような印象を受けますが、実はその多くが朝鮮王朝時代(1392年から1910年)に作られたものなんです。
もともと日用雑器や祭器のために焼かれた茶碗を日本人が茶器に見立てて使用したことが、その始まりと考えられています。
高麗物の種類は非常に多く、白い土を埋め込んだ模様の「三島茶碗(みしまちゃわん)」や砂混じりのざらついた肌触りが特徴的な「伊羅保(いらぼちゃわん)」などがあります。どれも唐物とは違った、素朴さと大らかな雰囲気を持っていることが、その魅力と言えるのではないでしょうか。
なかでも高麗茶碗で唯一国宝に指定されている井戸茶碗(いどちゃわん)は、琵琶色の釉薬や梅花皮(かいらぎ)と呼ばれる高台周辺にできるイボイボの縮れなど、いかにも侘びた風情にふさわしい茶碗となっています。
和物茶碗
侘び茶の隆盛とともに誕生
日本で焼かれた和物も土や釉薬、窯の焼成温度などによって異なる味わいが出るため、産地や技法によって多くの種類に選別できます。なかでも有名なのは、今でも一大窯業産地である「瀬戸焼」や「有田焼」、「美濃焼」などです。
今回はその歴史的な重要性に着目し、千利休の指導によって生まれた「楽焼(らくやき)」を紹介していきます。
楽焼は侘び茶にふさわしい茶碗を作るため、利休が瓦職人だった長次郎(ちょうじろう)に命じて、聚楽第(じゅらくだい)を造営する際に掘り出された土を使って生み出した茶碗です。その特徴は、一般的な茶碗作りに使われる轆轤(ろくろ)を使用せず、自分の手と篦(へら)だけを使って形を整える「手捏ね(てづくね)」と呼ばれる方法で作られていることです。
楽焼は抹茶を飲むために考案された茶碗なだけあって、軽くて丈夫なうえに、茶筅が動かしやすいような段差があったり、熱さが伝わりにくいような工夫がされていたりします。
わつなぎオススメ記事 >>【茶の湯】わび茶の大成!茶人千利休。茶の湯から茶道、わび茶の違い[簡単説明]
おわりに
茶碗1つを取ってみても、その歴史は大変ドラマティックかつ奥が深いものとなっています。
お点前などの作法だけではなく、道具への知識やこだわりも茶道において重要な要素です。ぜひこの機会に茶碗への興味も深めてみてください。
わつなぎオススメ記事 >>【織部焼】千利休の弟子・古田織部によって創始!はじまりから特徴に11種類の織部