【歌舞伎】新春賑わう浅草に華やかな幕があく!新春浅草歌舞伎[演目解説]
戻駕色相肩
もどりかごいろにあいかた
東の与四郎と難波の次郎作、二人の駕籠担ぎが京都島原からの戻り道に紫野というところで休憩しているところから物語が始まります。
お互いの出身の江戸と大坂について自慢話をしあっているうちに、二人が担いできた駕籠の客が京都の島原の小車太夫という傾城の禿であることに気が付きます。
(京都の島原というのは江戸時代に江戸の吉原とともに幕府に認められた遊郭のことです。遊郭についての話のことを廓話と呼んだり、遊郭で働く人を廓者と呼んだりします。落語でも遊郭が出てくるジャンルの演目を廓噺と分類します。)
三都の廓話を語り合おうと決まり、東の与四郎は江戸の吉原の廓話、浪花の次郎作は大阪の新町の揚屋がいかに立派か自慢話を始めます。
そして島原の傾城についている禿に京の島原はどんなところか尋ねます。すると禿は「まだ廓馴れぬ風情にて」とぽっくりをはいて三人で踊ります。
踊っているうちに懐から次郎作から連判状が、与四郎から香炉が落ち、お互いに真柴秀吉と石川五右衛門という因縁の相手だということが分かります。
にらみ合い険悪になった二人を禿が止めるところで一旦はなしの幕を閉じます。
江戸の吉原、難波の新町、京の島原という大きな遊郭をが華やかに紹介される演目です。
源平布引滝 義賢最期
よしかたさいご
この話は源氏と平氏が争っていたころの話で、平治の乱で平清盛に源義朝が討たれた少し後が舞台です。
義朝の弟の義賢は源氏の劣勢を前に降伏し自分の館に引きこもっていました。
義賢の妻・葵御前と義堅の娘・待宵姫がしゃべっているところから始まります。
そこへ百姓のおじいさん九郎助、娘の小万、その息子の太郎吉の三人組が登場します。
小万は太郎吉が生まれた直後に姿を消した旦那の折平をあちこち探しまわった末に義賢の屋敷で働いていることを聞いて返してもらおうと三人で来たわけです。
話をしているうちに折平は実は源氏の嫡流の末裔で源の義朝の家来の多田蔵人行綱であることが分かります。
するとそこへ、清盛の侍が、義賢が隠し持っている源氏の白旗について調べに来ます。
義賢を疑った使いは、義賢に源氏側ではないのなら兄義朝の首を踏んでみろと言います。
とうとう義賢は平氏の使いの一人を殺しました。
行綱は待宵姫と逃げます。義賢の妻の葵御前は九郎助と小万に預けられ源氏の白旗も小万に預けられます。そして攻め込んできた平家と討死覚悟で館に残った義賢が最期を迎えました。
原作は文楽なのでとても文楽らしい雰囲気の演目です。
芋掘長者
いもほりちょうじゃ
松ヶ枝家では、息女・緑御前の婿を選ぶために舞の会を開きます。
緑御前に恋する芋掘藤五郎が友人の治六郎と一緒に参加しますが、藤五郎は舞ができません。
そこで舞を得意とする治六郎は藤五郎のため面をつけて代わりに舞を披露することになり、途中で入れ替わって藤五郎のふりをして見事な踊りを披露します。
すると緑御前に気に入られ、面をとった上で舞うよう言われ困った藤五郎による芋掘踊りというユーモアのある踊りを見ることができます。
狂言に似た演目でほんわかと明るく楽しいところが特徴です。
下手な踊りを演じるところが面白く本花道に男伊達、仮花道に女伊達がずらりと並ぶ正月ならではの豪華さを味わえます。
寿曽我対面
ことぶきそがのたいめん
鎌倉時代の曽我兄弟による敵討ちを題材にした作品です。
正月に工藤祐経の館に曽我十郎・曽我五郎二人が訪れます。彼らは、当時貧しい身分だったことを表す浅葱色(水色)の着物を着ています。
工藤祐経は当時、関東では有力な豪族で、朝比奈三郎が執り成しをしたことで工藤と対面します。
実は工藤は曽我兄弟の親の敵だったのです。工藤はすぐに曽我兄弟のことに気づき彼らの父親を殺した時の様子を語ります。
すると五郎は工藤に切りかかりそうな勢いで怒るのに対し、十郎は祝いの席で客人が斬りかかるという無礼なことを言わないように注意します。工藤も二人は客人なので杯でもてなします。
しかし五郎はあまりの悔しさに三方(杯を載せた台)を壊してしまいます。
そこで工藤は富士山のふもとで狩りの総奉行を勤めてから兄弟に敵うちされることを約束します。
(当時このようなイベントは幕府の威信がかかっていました。)
狩場の通行手形(切符)を渡します。
この話は曽我物語として歌舞伎が上演され大衆の熱い支持を得ました。ちなみにこの曽我五郎・十郎兄弟の登場する作品は曽我物と総称されています。
番町皿屋敷
ばんちょうさらやしき
旗本の青山播磨は町人とのけんかに明け暮れる日々を送っていましたが、播磨は腰元のお菊と相思相愛の仲でした。
よって叔母に勧められても他の女と結婚するつもりはありません。
一方のお菊は播磨の演壇に不安になり大切な家宝とされている皿を割ることで、播磨の愛情を試します。
ところがわざと皿を割るのを見ていた腰元、お仙によって事の真相を知り疑われたことでショックを受けた播磨は、お菊を切り殺して井戸に投げ捨てます。そして自暴自棄になり再び喧嘩をしに飛び出していくところで話は終了します。
元々歌舞伎には大阪でよく演じられていた怪談の播州皿屋敷という演目があります。
番町皿屋敷は、元のストーリ―を生かしたまま怪談劇から恋愛ものへとリニューアルされたものです。この話は江戸が舞台ですが、実際には落語の皿屋敷の元にもなった姫路の車屋敷が大元だと言われています。
番町皿屋敷と播州皿屋敷、落語の皿屋敷を見比べるのも楽しいかもしれないですね。
乗合船惠方萬歳
のりあいぶねえほうまんざい
初春の墨田川の渡し船に白酒売、大工、芸者、通人、子守、女船頭、三河からきた太夫と才蔵が乗っていて船が出るまでそれぞれが踊りを披露します。
最後はみんなで踊りを踊るという江戸時代の庶民をそれぞれ七福神に見立てた常磐津の歌舞伎舞踊でとても新春にふさわしい賑やかな演目ですね。
この演目に出てくる太夫と才蔵とは現代では聞きなれない言葉ですが、実はとても身近なものに関係しています。
最近のM-1やTHA MANZAIなどで漫才を楽しむ方も多いでしょう。現代の漫才は二人の会話を聞かせる「しゃべくり漫才」のイメージがありますが昔は萬歳と言って豊作や幸せ安全などを祝うものだったそうです。
文献では平安時代には既に存在したことが知られており、三河で生まれた三河万歳が各地に広がり、天皇や近畿地方の貴族の前で4~5人で行う御殿萬歳と家々を2人組で回る門付萬歳が長らく演じられてきました。門付萬歳は興行主である太夫が才蔵を一人雇って楽器を演奏したり歌や踊りを見せて祝儀をもらうものでした。
この太夫と才蔵の関係が今のボケとツッコミに当たります。歌や踊りの間に1~4人の才蔵が掛け合いやなぞかけ、言葉遊びのようなものを披露して太夫が仕切るという大喜利のようなものでした。そこへ突如として現れたのが横山エンタツ・花菱アチャコです。彼らは作家の秋田實と協力して、それまでの萬歳は袴で演じるものでしたがスーツで演じ、楽器を一切持たず落語に倣ったスピーディーな会話のみで成立させ人気を得ました。彼らの所属していた吉本興業文芸部の橋本鐵彦が表記を萬歳から漫才へと改めました。
その様子は去年の朝ドラ「わろてんか」に描かれています。その後中田ダイマル・ラケットや夢路いとし・喜味こいしら名人により形をしっかり固められました。今の漫才があるのは吉本興業おかげです。
この歌舞伎を見るとき萬歳にそのような歴史があったことを思い出すと楽しいかもしれませんね。
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まとめ
歌舞伎はやはり上品で優雅さの中に迫力もある日本が誇る芸能ですね。
昔から歌舞伎の演目から落語の演目ができたり落語の演目から歌舞伎の演目ができたり落語と深いかかわりがあります。
また江戸の栄えたのは魚河岸(今の豊洲市場)と吉原と歌舞伎のおかげと言われるほど庶民の生活に身近なものでした。
これからもさらに発展していくといいですね!
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