【歌舞伎系図】歌舞伎界の頂点に立つ成田屋!はじまりから歴代、当代名跡の歌舞伎役者
この記事の目次
成田屋のはじまり
初代市川團十郎の父親の堀越重蔵が千葉県成田市の成田山新勝寺の近くが出身で、子どもに恵まれなかった初代團十郎が新勝寺で祈願したところ、その翌年に2代目團十郎を授かり、世継ぎが誕生したことへの感謝の気持ちを形にするため、「成田不動明王山」という芝居を上演し、その際に客席から「成田屋!」という声が掛かったことからそれを屋号にし、これが歌舞伎の一門の屋号の始まりと言われています。
この成田屋の屋号は宗家のみが名乗る事が許されている由緒ある屋号なのです。
市川團十郎
初代 市川團十郎
[生年1660年/没年1704年]
初代團十郎は、あの歌舞伎独特の化粧法の「隈取」をほどこし、ダイナミックな演技で観客を魅了する「荒事」と呼ばれる演技スタイルを歌舞伎に導入しました。
舞台上で刺殺されるという、ショッキングな終焉を迎えました。享年45歳でした。
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二代目 市川團十郎
[生年1688年/没年1758年]
二代目團十郎は、多岐にわたる才能をもって歌舞伎界に華を添えたため、万人から愛されました。
父である初代團十郎が創始した「荒事」を一つの芸として、また「隈取」の技法や様式を完成させ、代表作の『毛抜』は上方でも人気を博しました。
三代目 市川團十郎
[生年1721年/没年1742年]
1735年に團十郎を襲名した三代目團十郎は、5歳の時に二代目團十郎の養子となり、『市川升五郎』として初舞台を踏みました。
将来を嘱望された役者でしたが、1741年に旅先の大坂で発病し、翌年22歳という若さで逝去しました。
四代目 市川團十郎
[生年1711年/没年1778年]
歌舞伎十八番の『景清』を初めて演じたのが四代目團十郎です。
家芸である荒事に陰鬱な悪のテイストを組み入れて新しい歌舞伎の演技を創りました。引退後は後進の指導に力を注ぎ、指導者としても歌舞伎界に功績を遺しました。
五代目 市川團十郎
[生年1741年/没年1806年]
「荒事」「実悪」「女形」と、様々な役を見事に演じた五代目團十郎は、18世紀後半の江戸歌舞伎の黄金時代を作り上げ、名人と評されました。
真摯に演技に取り組む姿や、真面目で且つユーモアのある人柄から多くの人たちから尊敬され「戯場の君子」と称されました。
六代目 市川團十郎
[生年1778年/没年1799年]
1791年に團十郎を襲名した六代目團十郎は、華のある美男役者で当代一の人気を誇り、市川宗家のお家芸『助六』の演技が高く評価され注目の的に。
しかし風邪をこじらせて、なんとわずか22歳という若さで急死してしまいました。
七代目 市川團十郎
[生年1791年/没年1859年]
六代目の急逝によってわずか10歳の若さで七代目團十郎を襲名し、イケメンだが性根が悪い男を演じる「色悪」と呼ばれる領域を確立しました。
歌舞伎役者なら誰もが憧れるという『勧進帳』の弁慶役を最初に演じたことでも知られています。
八代目 市川團十郎
[生年1823年/没年1854年]
八代目團十郎は愛嬌のあるイケメンで「江戸時代きってのモテ男」と称され、人気の程が伺える逸話が数々残っています。
市川宗家伝来の『助六』など、凛とした色気のある役を得意としましたが、巡業先で自らこの世を後にしました。
九代目 市川團十郎
[生年1838年/没年1903年]
1874年に團十郎を襲名した九代目團十郎は、明治期の歌舞伎界を支え、「劇聖」と称されました。
写実的な演出などで歌舞伎の近代化を図る一方、「荒事」においては今尚継承されている多くの形を築き、歌舞伎を日本が誇る高尚な芸術の域にまで高めた立役者です。
贈十代目 市川團十郎
[生年1882年/没年1956年]
十代目團十郎の名跡は死後に追贈されたもので、役者としては堀越福三郎、五代目市川三升として活躍しました。
九代目團十郎の娘婿で、デビューは29歳と遅かったため、役者としては高い評価は得られませんでした。しかし九代目亡き後の團十郎不在だった市川宗家を、59年もの長きに渡って支え、埋もれていた演目を次々と復活上演するなどして歌舞伎界を盛り上げました。
十一代目 市川團十郎
[生年1909年/没年1965年]
6歳で初舞台を踏んだ十一代目團十郎は、気品高い桁違いのイケメンで、昭和の歌舞伎を代表する役者でした。
第二次世界大戦後に九代目市川海老蔵として挑んだ『源氏物語』の光君の役が大好評で、「海老さまブーム」が沸き起こりました。
十ニ代目 市川團十郎
[生年1946年/没年2013年]
十二代目團十郎の芸の魅力は、観客を惹きつける迫力満点の演技で、歌舞伎十八番の一つ『勧進帳』の弁慶でのカッと眼をむく力強い演技は「弁慶らしい弁慶」と賞賛されました。
その誠実で暖かい人柄で多くの人に愛された十二代目團十郎は、血液の癌と呼ばれる白血病を患ってからも治療を受けながら舞台を務めていましたが、2013年に永遠の眠りにつきました。
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当代名跡
十一代目 市川海老蔵
[生年月日:1977年12月6日]
もはや歌舞伎役者という枠を超えて、日本が誇るエンタテイナーと言っても過言ではないのが、十一代目市川海老蔵です。つい先日、2020年に江戸時代から続く歌舞伎界の大名跡、市川團十郎白猿を襲名することを発表し話題になりました。
プライベートでも何かと話題に取り上げられる十一代目海老蔵は、実力、人気ともに江戸歌舞伎の総本山・市川宗家の御曹司にふさわしい逸材で、海外公演などを通じてその演技力、演出力は日本のみならず世界でも高く評価されています。
2020年開催予定の東京オリンピックの開会式の目玉の一つが十三代目市川團十郎のパフォーマンスと言われています。どのような演技で世界を魅了するのか、期待度は高まるばかりです。
八代目 市川新之助
[生年月日:2013年3月22日]
「カンカン」の愛称で親しまれる堀越勸玄君は、2015年の11月歌舞伎座公演で初お目見えして、その愛らしさが話題となりました。
十一代目市川海老蔵の長男で、2020年に父の十三代目市川團十郎襲名と同時に、八代目市川新之助を襲名することが発表されたばかりです。
まだ5歳と幼い勸玄君ですが、すでに1ヶ月にも及ぶ公演に出演、壇上での口上も声が大きく威風堂々としていて、一瞬実年齢を忘れてしまうほどしっかりしている印象を持ちます。大勢の取材陣に囲まれても、臆することなくハキハキと受け応えをしている様は、市川宗家を継承するにふさわしい人材に育てるべく、日々弛みなく行われている英才教育の賜物だと言われています。「歌舞伎の練習が大好き」という勸玄君の今後の活躍に大いに期待したいものです。
市川團十郎の俳名
歌舞伎役者の俳名は、本来は役者が俳句を作る時の雅号で、初代市川團十郎が才牛と称したのがはじまり。 その後これにならって俳名をつけるのが習わしとなり、俳名も世襲されるようになりました。
歴代の市川團十郎の俳名は以下の通りです
初代: 才牛
二代目: 三升・才牛斎・栢莚・雛助
三代目: なし
四代目: 海丸・五粒・三升・柏莚
五代目: 海童・男女川・三升・白猿・反古庵
六代目: 海丸・五粒・三升・柏莚
七代目: 三升・白猿・夜雨亭・壽海老人・子福者・ニ九亭
八代目: 団栗・白猿・夜雨庵
九代目: 紫扇・團州・壽海・三升・夜雨庵
贈十代目: 夜雨
十一代目: 五粒
十二代目: 柏莚
十三代目: 白猿(予定)
またこれらの俳名の中には、その名に思いが込められているものもあります。
才牛(さいぎゅう)
初代市川團十郎の俳諧の師である椎本才麿から「才」の字をもらい、壇上では七夕の牽牛役をしていた事から才牛の名を貰ったことが、役者が俳名をもつきっかけになりました。
柏莚(はくえん)
陰陽道でいう五行、つまり木・火・土・金・水のうち「木」にあたる生まれの二代目は、120歳まで延命をとの思いから「木、百、艸(即ち二十)、延」を組み合わせてできた名前です。
三升(さんじよう)
成田屋の紋で、言葉そのものを團十郎家の象徴のようにして、縁起物として使われています。
白猿(はくえん)
二代目の團十郎の俳名「栢莚」を人間に及ばない猿という俗信を踏まえて、名人に及ばないという意味で白猿の文字を当てて名乗った俳名です。
反古庵(ほごあん)
十五代目團十郎が引退後に本所牛島に作った住居「反古庵」に因んだもので、十五代目團十郎はここで俳諧の会を催しました。
まとめ
「歌舞伎界の頂点に立つ成田屋!はじまりから歴代、当代名跡の歌舞伎役者」いかがでしたか。
この記事で成田屋の歴史や魅力に触れ、十三代目市川團十郎そして八代目市川新之助の今後の活躍を応援したいと思う方が増えてくれることを切に願います。
「成田屋あぁ!」
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