【歌舞伎系図】兄弟揃い踏み、新時代の中村屋!はじまりから歴代、当代名跡の歌舞伎役者
この記事の目次
中村屋のはじまり
歌舞伎の名門である江戸三座の中でも最も古い「中村屋」は、江戸歌舞伎の劇場を興した祖である猿若勘三郎が名古屋市中村区のあたりで生まれた事からその名前を付けたと言われています。
江戸で中村屋を開業した猿若勘三郎は座元になった際に「中村勘三郎」と改名し、これが後々の中村屋の名跡となりますが、屋号は柏屋や舞鶴屋と変わり、十七代目中村勘三郎が中村屋にしたという歴史があります。
現在でも中村屋は役者と座元を兼業するスタイルは初代から受け継がれてきた伝統と言えるではないでしょうか。
中村勘三郎
初代 中村勘三郎
[生年1598年/没年1658年7月9日(異説あり)]
江戸時代初期の歌舞伎役者で、江戸で初めての常設歌舞伎劇場となった「猿若座」、後の「中村座」の創始者で、当時江戸中で大人気となった舞踊の傑作『猿若』を創作したと伝えられています。
江戸では将軍家、京では天皇の御前でその雅な舞を披露したとされています。初代から十三代目までは「柏屋」の屋号を使っていました。
二代目 中村勘三郎
[生年1647年/没年1674年]
初代中村勘三郎の次男で、二代目勘三郎襲名前は中村勘治郎と名乗り、父である初代勘三郎と共に第111代天皇の後西(ごさい)天皇の御前で『猿若舞』と『新発智太鼓』を上演し、その褒美として「中村明石」の名を賜りました。
「勘三郎」という名は、二代目以降は中村座の支配人の称号として継承されることになり、現在に至っています。
三代目 中村勘三郎
[生年1649年/没年1678年]
初代中村勘三郎の実子で三男。三代目勘三郎襲名前は中村長三郎と名乗っていました。
四代目 中村勘三郎
[生年1662年/没年1713年]
三代目中村勘三郎の養子として柏屋の一員となり、二代目中村明石、初代中村勘太郎として活躍した後、四代目勘三郎を襲名しました。
隠居後は初代中村傳九郎を名乗りました。
五代目 中村勘三郎
[生年1666年/没年1701年]
三代目中村勘三郎の実子で、四代目勘三郎の養子となり、五代目勘三郎を襲名し、隠居後は四代目同様に中村傳九郎を名乗りました。
六代目 中村勘三郎
[生年1688年/没年1758年]
四代目中村勘三郎の実弟で、後に五代目勘三郎の養子となり、六代目勘三郎を襲名。
隠居後は二代目中村勘九郎そして後に四代目、五代目に続いて中村傳九郎を名乗りました。
七代目 中村勘三郎
[生年1717年/没年1775年]
六代目中村勘三郎の実子で長男。三代目中村明石を襲名の後、七代目勘三郎を襲名しました。
八代目 中村勘三郎
[生年1719年/没年1777年]
六代目中村勘三郎の次男で、二代目中村傳九郎を襲名の後、八代目勘三郎を襲名しました。
九代目 中村勘三郎
[生年1765年/没年1785年]
八代目中村勘三郎の養子で、初代中村七之助、三代目中村七三郎を経て、九代目中村勘三郎を襲名しました。
十代目 中村勘三郎
[生年不詳/没年1810年]
八代目中村勘三郎の次女の婿として柏屋の一員となり、十代目勘三郎を襲名しました。
十一代目 中村勘三郎
[生年1766年/没年1829年]
十一代目中村勘三郎も十代目と同様に八代目勘三郎の娘婿となり、三代目中村傳九郎を襲名の後に十一代目勘三郎を襲名しました。
十ニ代目 中村勘三郎
[生年1800年/没年1851年]
十一代目中村勘三郎の次男で、四代目中村明石、五代目中村傳九郎を襲名した後、十二代目勘三郎を襲名しました。
隠居後は三代目中村勘九郎を名乗りました。
十三代目 中村勘三郎
[生年1828年/没年1895年]
十二代目中村勘三郎の実子で、三代目中村傳蔵襲名の後に十三代目勘三郎を襲名しました。江戸末期になって引退した後は、事実上100年余りもの間、勘三郎を名乗るものはおらず、中村座自体も明治期に起こった火事の影響で廃座となりました。
預十四代目 中村勘三郎
[生年1809年/没年1886年]
十四代、十五代そして十六代の中村勘三郎は、いずれも中村座の経営に携わっていたことから「預」という形で歴代の勘三郎として数えられていますが、実際には勘三郎を襲名したわけではないそうです。十四代から十六代までは「舞鶴屋」を屋号としていました。預十四代目中村勘三郎はその演技力で出世街道を歩き、名優として名を馳せました。
預十五代目 中村勘三郎
[生年1873年/没年1940年]
預十五代目中村勘三郎は、十三代目勘三郎の実子で、五代目中村明石として知られていました。
預十六代目 中村勘三郎
[生年不詳/没年不詳]
女人禁制の芸能である歌舞伎界にあって、預十六代目中村勘三郎は、中村勝子という女性です。役者でもない女性を便宜上の「預」中村勘三郎にしたのだとか。
十七代目 中村勘三郎
[生年1909年/没年1988年]
十七代目中村勘三郎は、1916年に三代目中村米吉を襲名して初舞台を踏みました。
1950年に長らく絶えていた「中村勘三郎」名跡を再考する形で十七代目を襲名し、屋号を「中村屋」に改めました。十七代目勘三郎が生涯は、生涯で800を超える数の役柄を演じて、「最も多くの役を演じた役者」としてギネスブックに登録されています。さらには種別を問わない幅広い演技力で、人間国宝に選ばれるという栄誉をも得ました。
当時では珍しく映画やテレビなどにも出演して、役者としての活躍の幅を広げ、歌舞伎界に新風を巻き起こしました。
十八代目 中村勘三郎
[生年1955年/没年2012年]
十八代目中村勘三郎は、1959年に4歳で五代目中村勘九郎として歌舞伎界にデビューし、なんと46年もの間「勘九郎」として歌舞伎だけでなく、テレビドラマやバラエティー番組にも出演するなどして、舞台の上のみならずお茶の間でも人気者になりました。
父は十七代目中村勘三郎、母方の祖父は同じく歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎という歌舞伎界のサラブレッドで、母方の「音羽屋」の作品を多く演じ、また新演目や新演出を構築させて、改革的かつ派手な活躍で歌舞伎界を盛り上げました。
十八代目勘三郎として更なる活躍が期待される中、多くのファンに惜しまれながら57歳の若さで逝去しました。
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当代名跡
六代目 中村勘九郎
[生年月日:1981年10月30日生]
2019年のNHK大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』で主役の金栗四三(かなくりしそう)役を熱演中の六代目中村勘九郎は、十八代目中村勘三郎の長男で、1961年に初お目見得して以来、歌舞伎のみならず舞台や映画、テレビ出演などの芸能活動も積極的に行なっています。
主に立役を演じる機会が多い六代目勘九郎ですが、彼の演じる『車引』の梅王丸は、荒事の演技の骨法を見事に体現しているとして高く評価されています。幼少の頃から高い身体能力と舞踊の才能には定評があり、中村屋を牽引するにふさわしい逸材と言われています。
2017年に長男が三代目中村勘太郎を、次男が二代目中村長三郎を襲名して初舞台を踏んだことでも話題になり、ますます繁栄していく中村屋を印象付けました。
二代目 中村七之助
[生年月日:1983年5月18日生]
二代目中村七之助は、十八代目中村勘三郎の次男として産声をあげ、1986年に初お目見え。
1987年に二代目中村七之助を名乗り初舞台を踏みました。ほっそりとした容姿と、やや寂しげな美しい風情が魅力の若女方で、五代目坂東玉三郎を目標としているのだとか。五代目坂東玉三郎といえば、「美貌の若女方」として人気を博した昭和を代表する歌舞伎役者ですよね。
二代目七之助も兄の六代目勘九郎、そして憧れと語る五代目玉三郎同様に、映画やテレビなどにも出演し活躍の幅を広げています。特にハリウッドデビューを果たした、2003年公開のトム・クルーズ主演の話題作『ラスト サムライ』では優雅で繊細な明治天皇を見事に演じ、世界にその存在を印象付けました。
まとめ
兄弟とても仲が良く、お互いに良きライバルとして切磋琢磨しているという六代目勘九郎と二代目七之助。
まだ幼い三代目勘太郎と二代目長三郎という新しいジェネレーションの息吹きも感じられる中村屋の今後の活躍から目が離せませんね。
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