【茶道】近代茶の湯の発展に貢献した3人の実業家「近代数寄者」を紹介
近代の茶道の担い手
明治時代中頃の1900年前後、日本経済を支えていた実業家たちが、しだいに茶道を嗜むようになってきます。
彼らは、没落した大名家や廃仏毀釈の煽りを受けた寺社から流出した美術品を買い取り、茶席などで披露することで、新たな時代の茶の湯文化を作り上げていきました。
実業家たちの茶の湯に対する情熱の傾け方が、名物道具の収集に取りつかれた桃山時代の数寄者に似ていることから、彼らは一般的に「近代数寄者」と呼ばれています。
豪放磊落な近代数寄者たち
近代数寄者の豪快な様子を表わすエピソードとして、1919(大正8)年に行われた「佐竹本三十六歌仙絵巻(さたけぼんさんじゅうろっかせんえまき)」の切断に関する事件が知られています。
これは旧秋田藩主の佐竹家に伝来していた三十六歌仙の絵巻物が売りに出された際、あまりにも高額で1人で買い取ることができなかったため、歌仙ごとに絵巻を分断し、くじで所有者を決め売買したというエピソードです。
貴重な美術品を切断するという行為は当時から批判もありましたが、一方で海外流出を阻止し、歌仙ごとに表装を変え新たな美術品を作り出した点は、現在でも一定の評価がなされています。
3人の近代数寄者
近代数寄者として著名な人物を紹介していきます。
実業家として日本経済の発展に寄与しただけではなく、文化的な面でも多大な功績を残した人物です。彼らは手に入れた美術品を披露する場所として茶の湯の仕組みを利用し、趣味や社交の舞台としての茶道を発展させていきました。
益田鈍翁
[ますだどんのう]
1848年~1938年
近代の代表的な茶人として、まず名前を挙げられるのが益田鈍翁です。
鈍翁は、世界初の総合商社となる三井物産を設立し、現在の日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した卓越した実業家としても存在感を放っています。
三井の顧問から退いた後は、政財界の重鎮たちと交流しながら、茶の湯三昧の晩年を過ごしました。なかでも弘法大師空海の書を披露するために開かれた「大師会(だいしかい)」は有名で、日本を代表する茶会として、益田鈍翁が亡くなった後も現在まで連綿と続いています。
原三溪
[はらさんけい]
1868年~1939年
富岡製糸場の経営など製糸業で財を成した原三溪は、益田鈍翁と並び称されるほどの美術コレクターです。
5000点にも及ぶと言われるコレクションは、茶道具や書画、仏教美術のほかに、横浜市の「三溪園」敷地内に移築されている古建築など多岐にわたっています。
園内では国の重要文化財に指定されている建造物が10件12棟も保存されており、敷地の起伏を生かした建築の美術館のような雰囲気を感じとることができます。
松永耳庵
[まつながじあん]
1875年~1971年
戦前から戦後にかけて電力業界で活躍した松永耳庵は、「電力王」や「電力の鬼」と呼ばれるほど、不屈の精神と強い意志を持った人物でした。
戦後の日本復興を電力の供給面から支えるため、精力的に政界やGHQとも交渉を重ね、現在のもととなる体制を整えていきます。
茶道は60歳を過ぎてから始め、決まり切った点前を覚えることはなく、「耳庵流」とも呼ばれる我流の所作を貫いたことでも知られています。また、他の近代数寄者と同様、数多くの名物道具を収集しており、そのコレクションは東京国立博物館や福岡市美術館などに寄贈されています
おわりに
今回紹介した益田鈍翁、原三溪、松永耳庵の3人は「近代三大茶人」とも呼ばれ、日本経済の発展に寄与する財界人であるとともに、茶の湯文化の発展にも大きな貢献を果たした人物です。
形式的な美しさを超越した近代数寄者たちの茶の湯は、侘び寂びといった概念を重視する人たちから批判を受ける一方、その華やかさから多くの人を引き付けました。
同じ茶道と言っても時代や担い手によって雰囲気が異なり、茶の湯という文化の多様性を感じさせる好例となっています。