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【茶の湯】わび茶の大成!茶人千利休。茶の湯から茶道、わび茶の違い[簡単説明]

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茶の湯から茶道へ

わび茶の祖「村田 珠光」

[むらた じゅこう](1422ー1502)

室町時代の茶は、闘茶といって産地を競うような遊びが流行し、器自慢をするような場でした。そのような茶の湯に精神面を取り入れた人です。彼は仏教界に反骨心を抱いていた禅僧・一休の弟子です。

不足の美[ふそくのび]

村田珠光むらたじゅこうは茶道の心得を書いた手紙「心の文」の中で高い茶器を集める風潮を戒め「不足の美ふそくのび」を提唱します。
高価・名器じゃなくても普段使いの茶碗や、欠けている品も、こちらが心で補って満たせばよいというのが、わびの考えで、村田珠光が初めて「侘び」という言葉を使いました。

利休の師「武野 紹鴎」

[たけの じょうおう](1502-1555)

武野紹鴎たけのじょうおうは、村田珠光の没年に生まれました。村田珠光を心の師とし「茶禅一味ちゃぜんいちみ」という考えを説きました。
「必要なものをそぎ落として表現する」という禅の思想を茶の湯にとりいれ珠光と同じく茶の質素化につとめ、普段使いの茶碗を茶の湯に使いました。また、大部屋で開かれていた茶会を屏風で区切って4畳半の間で開くようにしました。

わび茶「千利休」

[せんのりきゅう](1552-1591)

利休はさらに、師二人の教えに「おもてなし」の心を付け加えました。しつらえは余計なものをそぎ落として表現、来客が満足するように、心づくしのもてなしをするというのが、利休のわび茶の精神です。

また「四規七則」は、利休の考えをまとめたものです。

「茶道」として発展

利休の死後・江戸時代になって、利休の孫の千宗旦が利休の教えをまとめ、現在の茶道の原型を作りました。現在の茶道は千宗旦の息子たちがそれぞれ家元で、表千家・裏千家・武者小路千家の3流派で受け継がれています。

わびとさび
「侘び」普段使いの器や、かけた月など、不完全なものから美を見つけ心を満たす精神。「寂び」そこにある物事からその場にはない違う事象を想像する。「寂び」では松尾芭蕉が代表的です。似ているようで少し違いますが、今は禅や茶道の教えを全体的に指す言葉となっています。

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千利休はどんな人

千利休は1552年に和泉の国・堺の魚問屋に生まれました。本名は田中与四郎、号は宗易そうえき。父親は堺の会合衆(承認の組合を取りまとめる役員)でした。当時、堺は自由貿易が認められ商人の力が強い活気のある町でした。


出典:Wikipedia

茶道の世界へ
そんな街に生まれた利休は、家業を継ぐために両親から茶道を進められ、16歳で茶の道に入り、18歳の時に当時の茶の湯の第一人者であった武野紹鴎たけのじょうおうに師事しました。その後23歳で茶会を開きます。

妻と子供たち
1542年に最初の妻、宝心妙樹ほうしんみょうじゅと結婚し、6人の子供をもうけました。妻は武家出身でプライドが高く、茶道をする商人の利休との夫婦仲は悪かったようです。妻を亡くした翌年、利休は1553年に宗恩そうおんと再婚しました。連れ子の少庵は、利休と最初の妻の末娘と結婚し、その子が千宗旦せんのそうたんとなり江戸時代に千家を再興します。宗恩は千利休が通う能の師匠の奥様でした。
愛人の子も合わせると利休には6男6女がいたようです。

天下人の茶頭

1549年から堺を自由貿易地として直轄地にした織田信長は、明や大陸から輸入される名器を必死で集めていました。茶の湯を許可制にして政治に利用し、戦功の褒美に茶器を与え、茶器の価値が上がりました。

茶頭に抜擢

千利休は堺の商人今井宗久、津田宗及とともに茶頭ちゃがしらとして織田信長に抜擢され重用されました。利休は茶道のアドバイザーとしての位置づけです。1582年・本能寺の変で信長が滅び、豊臣秀吉が天下人となりました。秀吉は織田信長以上に茶の道に熱心でした。

秀吉の天下と利休

天正13 (1585) 年に豊臣秀吉が関白に就任し、正親町おおぎまち天皇に茶を献じて利休居士の号を贈られました。天正15年には秀吉とともに、秀吉自ら茶をふるまう企画・北野大茶会を開くなど天下一の茶匠となり秀吉の行う茶会のプロデュースをするようになりました。

わび茶の大成

派手好きの豊臣秀吉のプロデュースをする一方、千利休はわび茶の道を大成させます。村田珠光・武野紹鴎の師二人のわび茶の精神に、もてなしの心をさらにつけ加え、器や茶室の様式も発展させました。

楽茶碗

名器ではなく普段使いの楽茶碗を使い、宗易型そうえきがたと呼ばれる楽茶碗(ろくろでなく手でこねた茶碗)を自ら焼きました。この楽茶碗は利休が瓦職人の長次郎に頼んで作り、大名の間でも流行しました。
今でいう現代アート風でしょうか掛け軸に水墨画や禅の言葉を入れた作品を使用し、茶道と禅は深くつながっていきました。

草庵風

また茶席の大きさを2畳まで狭め、茶室を独立した建物にし、草庵そうあん風という様式を作りました。入り口は、武士は刀を外して腰を曲げて入らなければならない躙り口にじりぐちにしました。茶室の中では身分に関係なく、人として対等であるという利休の考えからです。

茶室・待庵(たいあん)

妙喜庵侍庵みょうきあんたいあんは、1582年、信長を討ちとった明智光秀と豊臣秀吉が戦った大山崎の戦のころ、その場所に利休が作った茶室を京都に移築したものです。秀吉が山崎の地に城を立てて住んでいたので、利休もこの地に住みました。

現存する利休の茶室といわれるのは3つで、そのうち利休の時から変わらず残るものはこの待庵だけです。

次の間一畳 勝手の間一畳、茶席2畳の空間は、窓があるせいか狭いようで意外と広く感じられます。窓が大きくとってあるので、薄暗さのなかにも明るさがあります。にじり口は、本当に腰を曲げ、自然と頭を下げざるを得なくなります。武士が屈辱的に思ったとしても仕方ないです。控えの間からこの入り口を通るときは、腰をかがめるけれど背筋が伸びるような緊張感があります。

利休の最期「切腹」

北野大茶会ではあれほど利休を頼っていた秀吉ですが、きたんなく意見を言う利休と対立していきます。

切腹に追い込まれた理由に

▶︎金の茶室に見られるように派手好きだった秀吉と利休の提唱する侘びの考えが合わなかった。秀吉を招いた茶会であえて黒い茶碗を出したりしました。
▶︎秀吉に次女を側室に差し出せといわれていた。
▶︎茶室では人と人は平等という考えや、利休に傾倒する大名たちに秀吉が危機感を感じた。

などがあります。

そして、大徳寺の門に雪駄姿の利休の木造を作り、そこを秀吉にくぐらせたという理由で切腹を命じられました。1591年に京都聚楽第で生涯を閉じました。

もてなしの心で人の気持ちをつかみ信長に取り入り、曲者の戦国大名たちをうまく使って天下人になった秀吉です。自分の好みとは逆の利休の茶や器が支持され、大名たちに慕われていく様子に、かつての自分を反映させて危機感を持ったのではないかと想像します。

茶道の心得「四規七則」

四規しき七則しちそく」は、茶道の心得を現す千家の言葉です。

四規(しき)

1730年刊行の『茶祖伝』の序文で、わび茶の祖・村田珠光が将軍足利義満に茶の心は何かと問われ、「四規」の心得を答えたとされています。後世に編纂へんさんされた可能性もあります。

和敬静寂(わけいせいじゃく)

[和]
相手に心を開いて和ませ仲良くする。

[敬]
お互いに尊敬しあって相手を敬う。

[清]
目に見える部分だけでなく、内面もきれいに清らかにしよう。

[寂]
何事にも動じない心をもちましょう。

ここに茶道の心得のすべてがあらわされています。客をもてなす時、もてなしを受ける時、お茶をたてる時、部屋を飾る時もこの精神で臨むという教えです。

七則(しちそく)

ある日、利休は弟子に茶道の心得を聞かれて「七則」の心得を伝えました。

それに対して弟子は「そんなことは誰でも知っています」と返した所、利休は「それができるのならあなたの弟子になります」と返答したそうです。

[茶は服の良きように点て]
お茶は相手が良いと思った加減でいれなさい。この「服」は一服する(飲むほう)の服で、「点て」は、茶筅でかき混ぜる具合のこと。自分好みの基準ではなく、相手の好みを第一に考えて、湯の温度や茶の量・筅の泡立ての加減を決めなさい。という意味です。

[炭は湯の沸くように置き]
茶の湯において、お湯の沸かし加減はとても重要です。沸かし具合・お湯の温度、点前にちょうど良いお湯をつくるためには炭の置き加減が重要。美味しいお茶を沸かすために、湯を沸かす炭の準備を怠らないという意味です。

[花は野にあるように]
花を生けるときに、野にある姿そのままの姿のように活けなさい。しかし、華道の生け花のように技巧を加えることはせず、そこに花があるとその花が野にあるのが思い浮かぶように場と調和させて活けるようにということです。

[夏は涼しく冬暖かに]
夏は涼しくなるように、打ち水などをして、冬は囲炉裏を出すなど部屋を暖かくする工夫をして、お客様を迎え、相手の居心地を考えて部屋作りをしなさいという教えです。

[刻限は早めに]
学校の先生が言う「5分・10分前行動」とは少し違うようです。準備は早めにという意味ですが、心にも余裕をもってお客様に接することが大事という茶道の精神の意味合いも含まれています。

[降らずとも雨の用意]
もし、その茶会の日・おもてなしの日が晴れていたとしても、突如雨が降ることはあります。その時に相手に心配をかけないように、玄関には傘を用意しておきなさい。つまり、いついかなる時も臨機応変に対応できるようにということです。

[相客に心せよ]
7つ目はもてなしを受ける側の心得です。同席した相手にも気遣いを怠らないよう接しなさいという意味です。その場に居合わせた人たちがお互いの立場を考えてふるまえば、そこに和やかな茶の湯の場が出来上がるのです。


まとめ

千利休は、村田珠光から100年の時を経て茶道の考え完成させました。

その利休の人柄は、カリスマ性をもち、秀吉にも屈せず、ストイックに茶の湯を追求するとても魅力的です。

侘び・寂の心は千家の茶道の基本として、日本人の心を現す言葉として現代まで受け継がれ、私たちが生活するうえでも大切なことがたくさん含まれています。

これからも大事にしたい精神です。


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小さいころから歴史好きで、大学では日本美術・江戸文学を学び、歴史系の学芸員の資格を取りました。

40代の主婦ですのでかれこれ四半世紀前のことになりますが、研修旅行では、おいしいものもろくろく食べず京都の寺社を東奔西走していました。博物館や美術館にもレポートなどでよく行きました。

現在は子育てや体調もあり、実物を見る機会はめっきり減りました。それでも、家にある図録などから縄文式土器のパワーに惹かれ、仏像の美しさに見入り、焼き物や工芸品の匠の技に感心し、庶民の力が花開いた町人の世界に思いをめぐらせ・・と、江戸文化や美術をできる範囲で楽しんでいます。

作品から当時の人々の息遣いを感じることができると、歴史を楽しむ醍醐味がわかります。そのお手伝いができたらいいなと思います。

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