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【新選組】何をするために結成された集団か?目的から解散まで

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はじまりと目的

幕府体制を助ける壬生浪士組

黒船来航以降、天下泰平と言われた江戸幕府の支配力が不安定になると人々の間で天皇を敬い外敵と戦う「尊王攘夷そんのうじょうい思想」が活発になってきて、政権を天皇に返そうという運動が起き始めました。

そんな幕末の1863年(文久3年)に山形の庄内藩出身の武士である清河きよかわ八郎はちろう山岡鉄太郎が上洛する14代将軍徳川家茂の警護を目的に身分前歴問わず人員を募集し約200人からなる浪士組ろうしぐみを結成。

この中に後の新選組の中核メンバーとなる芹沢せりざわかもや近藤勇たちも参加していました。

しかし清河八郎達は尊王攘夷の討幕派で、幕府から切り離して急進的な改革を行おうと幕臣を巻き込んで計画していましたがそれに反発した芹沢鴨達13人は離脱し、攘夷のために江戸に戻る清河八郎とそれに賛同した人達とは別に滞在先だった壬生村に残って、公武合体によって幕府体制の強化策を助けることを目的とする「壬生浪士組みぶろうしぐみを結成したのでした。

壬生浪士組から新選組


幕府から新選組の名を拝命

壬生村に残った13人と新たに京都での募集で集まった23人、合わせて36人で結成された壬生浪士組は、結成の中心となった芹沢鴨を筆頭局長とし同じ水戸藩派の局長に新見にいみにしき、試衛館派の局長に近藤こんどういさみが就任し体制を整えます。

この時彼らの後ろ盾として会津藩の松平まつだいら容保かたもり預かりとなり文久3年(1863年)3月に「京都市中警護」という自警団と警察が一緒になったような活動を開始し名前も「壬生浪士隊」と改めました。

この年の4月に当初の目的の通りに上洛する将軍の道中警護に参加し、さらに長州派と一部の公家が画策したクーデターである「八月十八日の政変」の際に御所内の警備に出動し、その時の働きが認められて幕府から「新選組」の名前を拝命されたと言われています。

結成から5カ月の間に華々しい業績を残し新選組となった壬生浪士組ですが、この間に6月に大阪の力士に因縁をつけられて乱闘となり、その力士を芹沢鴨が斬り殺した「大阪力士事件」や京都の生糸問屋の大和屋庄兵衛に金策を断られたことに腹を立てた芹沢鴨達が店に放火し消火を邪魔して全焼させたり、さらに自分をフッた吉田屋の芸妓の小寅に腹を立てて髪を切り落とすという当時の女性にとって最大の辱めを行うなど芹沢派の起こす問題が後を絶ちませんでした。

それにより芹沢鴨には朝廷から捕縛命令が出ていましたが、この事態を早急に収束させたい会津藩から近藤勇に芹沢派の粛清の命令が下され、文久3年(1863年)9月に長州藩士の仕業に見せかけて土方ひじかた歳三としぞう沖田おきた総司そうじなどによって芹沢鴨を含めた芹沢派の幹部を暗殺したのです。

これにより新選組は近藤勇をトップに土方歳三山南やまなみ啓介けいすけが副長として組織の主導権を握りました。

池田屋事件


幕府の命により京を守る

組織改革を行った新選組は芹沢鴨たちの起こした騒動から「壬生狼みぶろ」と一部の京都の人たちから呼ばれ色々な意味で恐れられていた彼らを一躍英雄として有名にしたのが元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた「池田屋事件」です。

八月十八日の政変によって立場が悪くなった長州藩や薩摩藩の尊王攘夷派の過激派志士が潜伏し、京都に火を放ち大火事を起こしてその混乱に乗じて幕府の要人を暗殺し孝明天皇を長州へ誘拐するという政変を起こすことを計画していました。

それを知った江戸幕府の京都守護職の命令により新選組は捜索を行い、彼らが池田屋か四国屋に潜伏していることを知りました。

この日、新選組は池田屋と四国屋の2組に分かれて張り込み、近藤勇の隊が池田屋に尊攘派志士がいることを発見したことをきっかけに、近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助を含めた10名で池田屋に突入。

20人以上いた尊攘派志士相手に激闘を繰り広げ、一時は劣勢になるものの別働隊だった土方隊12名、井上隊12名が応援に駆け付けたことで一気に有利になり、9名を討ち取り4名を捕縛しました。

この時に土方歳三が戦闘終了後に応援として駆け付けた会津と桑名の藩士を池田屋に入れなかったために手柄を横取りされることもなく、京の都を守った英雄として新選組の名前は人々の間に広まりました。

ただこの事件をきっかけに同志を殺された長州藩の強硬派が激高し、穏健派がその怒りに押さえられなくなり、後に「蛤御門はまぐりごもんの変(禁門の変)」を起こし、さらにそこから幕府の長州征伐の失敗からの将軍の交代や明治天皇の即位に伴う政治的な方向性の変化などが立て続けに起こったことで、徐々に時代は江戸の時代から明治維新へと移り変わります。

ちなみに新選組のシンボルというべきダンダラ模様の浅葱色の羽織は、近藤勇が赤穂浪士の羽織を忠義のデザインとして採用したものだと言われています。

今も「浅葱の羽織と言えば新選組!」と言われるほど有名ですが実は隊士たちからダサいと大不評で、さらに夜に行動するには目立ちすぎるという事から、この池田屋事件以降は着用することのなかったという隊服です。

しかし現在もシンボルとなっているあたりこの時に野次馬をしていた京都の人々の記憶に強烈な印象を与えたのは間違いありませんね。

新選組の解散


戊辰戦争で多くの犠牲、敗走

池田屋事件以降に有名となったことで組織としても大きくなっていった新選組は、屯所を京都の西本願寺へと移し、新規隊士の募集や内部抗争、粛清や暗殺などを繰り返しながら江戸幕府を守るために戦い続けました。

しかし慶応3年(1867年)10月に15代将軍徳川慶喜によって天皇へと主権を返還する「大政奉還」と12月に発令した「王政復古の大号令」によって江戸幕府は消滅。さらに長州、薩摩、土佐を中核メンバーとした明治政府が樹立しますが、その体制に反発する旧幕府側との間で「鳥羽伏見の戦い」をきっかけとした「戊辰戦争」が勃発します。

新選組は多くの犠牲と脱走者を出し戦力を低下させながら江戸へと戻りますが、明治元年(1868年)3月に新選組は「甲州鎮部隊」と名称を変えて山梨へ出征を命令されますが敗戦し、さらに官軍となった新政府軍に賊軍として追われることとなり、旧幕府軍を支える会津を目指して北上をすることに。

その途中の千葉流山の拠点で新政府軍に囲まれますが、新選組や旧幕府軍を逃がすために近藤勇は政府軍に投降。その後4月に近藤勇は武士としての切腹が許されず、罪人として斬首されました。

余談ですが、33歳の若さで死んだ近藤勇は後年で明治政府によって賊軍として悪しざまに言われていた新選組という存在が見直されるまで悪役として講談などに登場していましたが、その人柄や人望ゆえに主人公の良きライバル役のように描かれ民衆に人気がありました。

宇都宮城の戦いや会津戦争で敗戦した新選組は、旧幕府軍をまとめる榎本武明らと一緒に蝦夷地(北海道)へ渡り、12月に独立政府である「蝦夷共和国」を函館に樹立。初代で最後の総裁に榎本武明が就任し、土方歳三も陸軍奉行並と役職を得て「無敗の将」として蝦夷共和国を認めない新政府軍との戦いで勝ち続けます。
しかし資金や物資の不足、土方歳三以外の部隊の敗戦など状況は決して良くなることありませんでした。

雪が解けた明治2年5月18日(1869年6月27日)に函館市内まで進軍してきた新政府軍から孤立し弁天台場に立てこもっていた新選組を助けるために土方歳三は出陣しますが、一本木関門にて銃弾に当たり仲間の元に駆け付けることはできずに戦死しました。

解散後の隊士

賊軍として埋葬許されず

土方歳三の死が知らせられ、彼の上司であり陸軍奉行の大鳥圭介の説得もあって、蝦夷共和国は明治政府に降伏し戊辰戦争は終結します。

この時この瞬間を持って、激動の時代を武士として「誠」の旗を掲げて駆け抜けた新選組は終焉を迎え解散。生き残った隊士たちはそれぞれの道を歩み始めました。

この函館戦争で亡くなった函館政府の兵士たちは賊軍としてその亡骸を埋葬されることが許されませんでした。そのため土方歳三の遺体がどうなったのかも不明であり、遺品も函館開戦前に実家へ送った僅かな物しか残っていません。

明治期に入り情勢が安定した頃であっても政府は戦死者を弔うことを禁止していましたが、旧幕府軍とも交流のあった侠客の柳川熊吉がひっそりと遺体を回収し埋葬し、函館山の麓に土方歳三などの約800人の戦死者を弔う慰霊碑「碧血碑」を建立。この意味は荘子の「忠義を貫き死んだ者の血は3年経てば地中で碧玉に変わる」という故事からで、碑文は一説では大鳥圭介が書き、その管理は榎本武揚が行ったそうです。

長く朝廷に逆らった賊軍とされた新選組ですが、昭和期に入ると生き残った隊士たちが書き残した記録や講談、小説家の子母澤寛や司馬遼太郎などの作品がヒットしたことで汚名を晴らし見直され、現在に至るまで多くの人を魅了しファンを集めています。

まとめ

結成からわずか5年という短い期間で発展と衰退から解散と激動の時間を駆け抜けた新選組。

鮮烈に咲き誇り儚く散っていく桜のような美しさと、
それだけでは収まらない魅力に満ち溢れた姿が今なお多くの人を惹き付けて止まないのです。


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ぷぷこ

ぷぷこ

ひたすら日本文化と動物をこよなく愛する時代劇で育った歴史好き。

趣味で手に入れた着物や模造刀や和雑貨を愛でつつ、歴史書を紐解いて当時の風俗文化に思いを馳せる日々。

2000年以上の歴史の変遷を積み重ねてでき上がった日本文化の奥深さと日常に根付いたその魅力を伝え、少しでもその面白さを知って気軽に楽しんでもらえれば嬉しいなと思っています!

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