戦国武将・明智光秀は生き延びていた!「光秀=天海説」主な4つの根拠
「天海」とは
徳川家康のブレーンとして有名な天台宗の高僧です。同じくブレーンだった金地院崇伝(臨済宗の僧)と並び「黒衣の宰相」とも称される人物です。
家康の篤い帰依を受け、天台宗系の山王一実神道の方式で「東照大権現」として祀る事や江戸・上野の寛永寺の開山(寺を開創した初代住職)したりと江戸幕府の宗教行政に携わりました。
天海は108歳まで生きたと言われ、家康、秀忠、家光と徳川三代に仕え、江戸幕府の基礎固めの時期に多大な貢献をなした人物といえます。
朝廷からは「慈眼大師」という大師号を贈られています。
ただ、天海は自身の来歴はあまり語らなかったとされ、その半生は謎に包まれています。
通説では会津の出身で、近江の園城寺、大和の興福寺、下野の足利学校などで学んだりした後に武蔵国の喜多院に住した(徳川家康の知遇を得たのはこの頃)とされています。
「光秀=天海説」主な4つの根拠
[1]日光に明智平
日光に明智平という地名があること。
日光には東照宮があり徳川家康が祭られています。
これに天海が深く関与している事は既述の通りです(家康は天海が属する天台宗系の山王一日神道の形式で祭られました)。その日光に天海が名付けたと伝わる「明智平」という場所があるそうです。
何故「明智平」なのか? かつて明智光秀だった天海が「明智」の名を残そうとしたのではと言われています。
光秀は美濃出身、天海は会津出身とされます。天海がわざわざ「明智」の名を付けるのには一体どんないわれがあるのでしょうか。
[2]比叡山に光秀
比叡山に「光秀」という人物が石碑を寄進していること。
山崎の合戦の後、即ち光秀の死後に比叡山に「光秀」という人物が石碑を寄進したという記録があるそうです。
かつて織田信長は比叡山を焼き討ちしました。「天台座主」を名乗る武田信玄に対して「第六点魔王」(仏道修行を妨げるとされる)と名乗った織田信長は当時の仏教勢力からは最大の「敵」と目されていたとしても不思議はありません。その信長を討ったのが光秀なので、比叡山が光秀を匿ったとしても話の筋としては通る気がします(光秀は比叡山攻めでは信長の先鋒を務めてはいますが..)。
戦国武将・明智光秀としては死んだことにして天台僧・天海として生きる。
写真も無い時代なので、別人になって生きるということは現代人が考えるよりは容易だったのではとも思えます。
[3]お久しぶりです
天海が春日局と初めて会った時に「お久しぶりです」と言ったとされること。
春日局と言えば三代将軍・徳川家光の乳母として有名な人物ですが、光秀の重臣の斎藤利三の娘です。
斎藤利光は本能寺の変でも光秀と行動を共にし、山崎の合戦でも光秀と共に戦いました。そして春日局の養父は光秀と同じ織田家家臣の稲葉重通です。
このように、はっきりとした史実だけで見ても春日局は光秀とはとても縁が深い人物だったと言えるでしょう。
もし、天海が光秀なら春日局に対して「お久しぶりです」と挨拶をしたとしても辻褄が合います。
[4]近江坂本に廟所
近江坂本に天海の廟所(墓所)があること。
通説では、天海は会津出身であり、比叡山を本山とする天台宗の僧侶ではありますが、武蔵の喜多院や江戸の寛永寺(天海が開山)などに住し主に関東で活動していました。
その天海の廟所「慈眼堂」が近江坂本の地にあるそうです。
近江坂本は本能寺の変の直前まで明智光秀が治めていた土地です。近江坂本は光秀と非常に縁が深い土地だと言えるでしょう。
天海の墓所が光秀の旧領の近江坂本にある事も「光秀=天海」説の「根拠」として挙げられています。
まとめ
「光秀=天海説」主な4つの根拠をあげてみました。
歴史学ではまともに顧みられることのない「説」だと思いますが、ひとつのロマンとして捉えるなら一歴史ファンとしては胸躍るものがあります。
厳格な史料批判を経て確定された「史実」以外の伝説や伝承も人々が何を思い、何に夢を託したのかを表しているという意味では幾分かの「真実」を含んでいると捉えることができるかもしれません。
そういう歴史の豆知識を知っておくと小説やドラマなどの歴史物語が、より一層楽しくなるかもしれませんね。