【刺し子】防寒と補強にひと針ひと針、ぬくもりが伝わる。三大刺し子「こぎん刺し」「南部菱刺し」「庄内刺し子」
刺し子の歴史
諸説ありますが刺し子の起源は、500年ほど前の江戸時代と言われております。全国各地に刺し子の技法を用いたものが残されているため、発祥の地は不明とされておりますが、東北地方に伝わる刺し子が最も広く知られています。
その昔、倹約令がしかれており庶民が木綿の着物を着ることは贅沢とされ禁じられておりました。寒さが厳しい東北地方において、目の粗い麻の着物を少しでも温かく、そして農作業でも頑丈に使えるようにと工夫したことから生まれたのが刺し子の始まりです。
刺し子の模様には子供の成長を願う麻の葉、人との縁や円満を意味する七宝、永遠の幸せや平穏な暮らしを願う青海波といった意味合いが込められた伝統柄が数多くあります。また、娘の幸せを願って母から娘へ嫁入り道具として花ふきんをもたせる風習がありました。家族を思う気持ちが込められた刺し子は人々の生活とともに発展してきました。
[わつなぎオススメ記事]
日本三大刺し子
全国各地で発展を遂げた刺し子ですが、その中でも特に盛んだったのが東北地方に伝わる3つの刺し子です。青森県津軽地方の津軽こぎん刺し、青森県南部地方の南部菱刺し、山形県庄内地方の庄内刺し子の3つが最も有名な刺し子の技法として広く知られています。
津軽こぎん刺し
津軽地方に伝わる津軽こぎん刺し。名前の由来は、津軽地方の言葉で作業着のことをこぎん(小布)と呼んでいたことが由来と言われています。
津軽こぎん刺しの最大の特徴は、縦の織り目に対して奇数目を数えて刺していく技法です。津軽こぎん刺しと一口に言っても、西こぎん(弘前市西部)、東こぎん(弘前市東部)、三縞こぎん(北津軽の金木町)の3つに分かれており少しずつ図柄や刺し方が異なります。
こぎん刺しの基本的な図柄のことをモドコと呼び、語源は「もとになるもの」を指す津軽弁からきています。現在、モドコの基本の種類だけで40種類ありその形を組み合わせ多様な図柄を生み出しています。
明治時代になると、倹約令が解かれたことで綿花が手に入りやすくなり刺しやすい綿糸でのこぎん刺しが広がりました。しかし、鉄道が開通したことにより綿織物が流通し始め、1895(明治28)年ごろから津軽こぎん刺しは急激に衰退しました。
西こぎん
西こぎんは岩木川を挟んで西側の里山エリアを中心に広がり、中でも西目屋村が発祥と言われています。その特徴は非常に緻密で繊細な模様と、農民ならではの工夫が施された刺し方にあります。
西こぎんは農村地帯を中心に広まったことから、重たい荷物を背負うために肩に縞模様が配してあります。肩の部分には黒い糸と白い糸が交互に刺してあり、縞こぎんと呼ばれることもありました。
前身頃には縞で三段、後ろ身頃には縞で二段に仕切られて様々な模様が施されています。また、後ろ身頃には魔除けの意味を持つさかさこぶ、別名、轡つなぎ(くつわつなぎ)と言われる模様が刺されているのが特徴で、山で働く人の安全や、熊などに襲われないようにと願いの意味が込められています。
ほとんどのものにこの轡つなぎが施されていることからも、こぎん刺しがデザインや機能面だけを重視したものではなく、大切な人を想い作られていたことがわかります。
東こぎん
岩木川を挟んで東側、黒石市、平川市、弘前市石川地区の水田地帯でつくられました。太めの麻糸で織られた布に刺したものが多く、一種類の模様で刺された大胆な図案が特徴です。
他の地域にあるような縞模様はみられず、連続した小柄な模様を刺したものが多くみられ、前身頃と後ろ身頃ともに同一の模様が刺されています。
三縞こぎん
岩木川の下流の北津軽郡金木町(現在の五所川原市)を中心に普及しました。前身頃と後ろ身頃に太い3本の縞模様が施されているのが最大の特徴です。
金木町周辺は冷害や凶作が頻発し、こぎん刺しをする余裕がなく刺し手が少なかったと言われています。そのため、現在残っている三縞こぎんは少なく、大変貴重なものとなっています。
南部菱刺し
青森県南部地方に伝わる南部菱刺し。その始まりは200年前と言われております。
南部地方は津軽地方に比べ、気候が厳しく作物が十分に育たない環境でした。そのため、一つのモチーフに対し様々な種類の糸を使わなけれならず、貴重な糸を大切に使い切ろうとする想いを刺し子を通して垣間見ることができます。
しばしば、こぎん刺しと混同されることも多い菱刺しですが、その大きな違いは刺し目の数え方にあります。
こぎん刺しは奇数目を刺していくのに対して、菱刺しは縦の織り目に対して偶数目を刺していきます。こぎん刺しは身頃のみに刺していくのに対し、菱刺しは袖や身頃全体に刺していくという異なる特徴があります。菱刺しは表に水浅葱色(みずあさぎいろ)に染められた麻布を用いています。
庄内刺し子
庄内刺し子は、山形県庄内地方で生まれました。中でも遊佐町に伝わる遊佐刺し子は人々の生活とともに発展しました。
プロパンガスが普及する1955(昭和30)年頃まで、薪を山からそりを使って下ろす橇木山(そりぎやま)が行われていました。その橇木山を行う際に着用していたのが橇曳法被(そりひきはっぴ)で、重いそりを引く時に耐えられるように肩と胸当てに刺し子を施して補強していました。
遊佐刺し子には設計図となるものはなく、刺し手の感覚を頼りに一目ずつ刺す横刺しという技法が用いられていました。作り手によってそれぞれの持ち味がでるのもこの技法の醍醐味です。
こぎん刺しや菱刺しよりも細かい針目で刺していくため、多様なデザインを表現することができ、図案の種類も豊富で庄内刺し子全体では100種類ほどあると言われています。
庄内刺し子独自の図案も多く、五穀豊穣を願う「米刺し」、大漁を祈願した「うろこ刺し」、商売繁盛を意味する「そろばん刺し」など自然や身の回りのものをモチーフにした図案一つ一つに、願いや祈りが込められています。
刺し子の魅力
人々の暮らしの知恵と工夫が詰まった刺し子は、長い時間をかけて先人から紡がれてきた手仕事ならではのぬくもりがあり注目されています。また、手間と時間をかけて作られた刺し子は、歪んだ不格好な運針すらも愛おしく思え、ものを大切にするという気持ちを育んでくれます。
さらに、伝統的な図柄をカラフルな色合わせや、モダンな幾何学模様にアレンジされるなど広がりを見せております。
手芸初心者でも始めやすく、ちょっとした隙間時間でもできる手軽さも魅力のひとつで、お家時間が増えた今、趣味として始めるにはうってつけです。ふきんやコースターなどに刺し子を少しあしらうだけで、市販のものにはない温かみを感じられるでしょう。
常に忙しい毎日を送る現代人にとって刺し子をする時間というのは、無心になれる貴重な時間でもあり、気持ちを落ち着かせるセラピー効果もあるのではないでしょうか。
まとめ
人々の暮らしに寄り添い、時代に合わせながら受け継がれてきた刺し子。
今なお世代を問わず愛され続ける理由は、手仕事ならではのぬくもりを感じられる佇まいと、気負わずに続けられる自由度の高さにあるのではないしょうか。
何か新しいことを始めたい、趣味を見つけたいという方は、刺し子の世界へ一歩踏み出してみるのもおすすめです。
[わつなぎオススメ記事]
【藍染】ジャパンブルーとも呼ばれる藍色。藍染の歴史や染め以外にも使われた藍