【浮世草子】町人の生活を描いた小説!井原西鶴の代表作品を紹介[簡単解説]
この記事の目次
浮世草子とは
天和2(1682)年に刊行された『好色一代男』をはじめ、井原西鶴や西鶴に傾倒した作家たちによって書かれ刊行された上方発信の大衆文学作品の総称です。
元禄以降、宝暦、明和 (1751~72) 頃まで約 80年間にわたり刊行されました。
それまでの堅苦しい内容の「仮名草子」に対して「浮世草子」と呼ばれています。
代表作家は井原西鶴、江島其磧、西島一風などですが、中心は最初にこのジャンルを開拓した井原西鶴です。
作品の分類
[好色物]
[代表作]
『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』『好色一代女(こうしょくいちだいおんな)』(井原西鶴 作)
[武家物]
[代表作]
『武家義理物語(ぶけぎりものがたり)』『武道伝来記(ぶどうでんらいき)』(井原西鶴 作)
[町人物]
[代表作]
『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』『世間胸算用(せけんむねさんよう)』(井原西鶴 作)
[気質物]
[代表作]
『世間息子気質(せけんむすこかたぎ)』(江島其磧 作)
これらの作品は、現在の出版物に例えると好色物は水商売、男女間の色恋を描いた大衆小説、武家物は武士の世界を描いたサラリーマンもの、町人物は借金や商いをテーマにした経済小説、気質物は人間観察本といった感じにとらえられます。
一般庶民のありのままの姿を描いた「浮世草子」の作風は現在私たちが読んでいるような大衆・娯楽小説の元祖的存在です。
井原西鶴とは
出典:Wikipedia
元禄文化の代表者たちと生きた
寛永19(1642)年生まれ、本名は平山藤五。作品に「ふるさと難波にて」という記述があることから大阪出身とされています。世は江戸時代で、五代目将軍・徳川綱吉です。
俳句の松尾芭蕉、人形浄瑠璃の近松門左衛門、浮世絵師の菱川師宣、工芸や美術では尾形光琳といった、各分野における元禄文化の代表者たちと同時期に生涯を送りました。
商人から俳諧師に
西鶴は商人だった15歳の時に俳諧の道を志しました。
上方俳諧師の中心的存在の西山宗因に弟子入りし21歳の若さで点者(句会などで俳句を評価する人)になり大矢数という当時流行した俳諧の催しで頭角を現しました。
大矢数とは、元は京都と江戸深川の三十三間堂で一昼夜にわたって弓を射る競技のことです。
それを模してたくさんの見物人がいる中で一人が一昼夜で何句読めるか句の数を競う興行です。
西鶴は、延宝3(1675)年に34歳で妻を亡くし、子供がいたのにも関わらず商売をやめて出家し、俳諧師になりました。本格的に俳諧師として活動します。
俳諧師から小説家へ
西鶴は生玉神社において一昼夜で3000句という大記録を打ち立て、世間をあっと言わせます、これは一分で2・3句を読むペースになります。何をそんなに読めるのかと思ってしまいますが、以後に書かれた小説につながるような大衆的な内容で、5・6句で一つになるような散文的な句も多く見受けられます。
この催しで俳諧の世界に区切りがついたのか、西鶴は小説家へと転身し、デビュー作『好色一代男』を刊行しました。
以後、武家物、町人物とジャンルを広げ、人気作家として活躍し1867年に46才で亡くなりました。
では、浮世草子の執筆で一躍人気作家となった西鶴の代表作品を紹介します。
『好色一代男』
[こうしょくいちだいおとこ]
出展:国立国会図書館デジタルコレクション
元禄元(1688)年に刊行された西鶴のデビュー作です。大富豪の家に生まれ、高名な遊女との間に生まれた主人公世之介の、女性遍歴や廓遊びの様子を描いた一代記です。
あらすじ
京都但馬屋の跡継ぎ息子・世之介は、7歳で女を口説く女好きです。その素行を見かねて両親に江戸の店に修行に出されます。しかし、本来の気質は変わらず遊女の身請けに奔走し女遊びに夢中になります・親に見つかって寺に入れられますが、脱走し勘当されてしまい行く先々で女性との逢瀬を重ねつつ放蕩生活を続けます。
しばらくして、京の店にもどった世之介は親の言いつけに背いて店をつぶします。京の女を買いあさると豪語していた素行が役人に知れ渡り、手配人となり、追っ手を逃れるため友人たちと女護が島へと船に乗って旅立っていく。
世之介の女遍歴とモデル
54章から成り立ち、世之介の7歳から60歳まで一章で一年という構成です。
『源氏物語』の構成にならっていることから、現在では『源氏物語』のパロディー作品といわれています。世之介は江戸の光源氏といわれています。
世之介の女遍歴は「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」(寝た女は3740人、少年相手は720人)というすさまじい数です。
刊行の経緯
あまりの内容の斬新さに、当時、大手の版元(本の制作と販売をする店)で断られ、初版は大坂の小さな店から刊行されました。
しかし上方で大ヒットとなり、江戸でも大流行しました。江戸で刊行されるときの初版は、人気浮世絵師の菱川師宣が挿絵を描いています。
『日本永代蔵』
[にっぽんえいたいぐら]
出展:国立国会図書館デジタルコレクション
元禄元(1688)年に刊行された日本初の経済小説です。タイトルが重々しいですが「永代蔵」は永遠に続く金蔵という意味です。このタイトルと副題の「大福新長者教」が示す通り金持ちになるために商売繁盛するには、どのようにしたらいいのかということが書かれた6巻30話の短編集です。
主な作品と解説
出自が低くつつましく暮らしていた女が、相場が上がり大金持ちになった女の話(巻1の3「波風静に神通丸」)、貧乏神を祭って商売が成功するお話(巻4の1「祈る印の神の折敷」)、借家に住んでいるけれど千貫目の財産がある商人の話(巻2の1「世界の借家大将」)といった内容で、経済小説・商売の指南書といっても堅苦しいものではありません。
巻1の4「昔は掛け算今は当座銀」では、つけ払いで裕福な暮らしをしてはいけない。現金掛け値なしの方法はとても良い。と書かれていて、当時一般的だったつけ払いへの警告です。
このお話は「現金掛け値なし」の商売で成功した江戸の三井呉服店がモデルとなっています。これを含め、実在モデルがいると言われている話が16話あります。
一巻の記述はクレジット社会に暮らす私たちにも耳の痛い話ではないでしょうか。
このように、現代に生きる私たちが読んでも、ためになるような記述がたくさんあります。
作品が書かれた経緯
好色一代男の執筆後、武家物の執筆の合間に書か枯れたこの作品は、西鶴が人気作家としてマンネリ化を破るために新ジャンルに挑戦したと言われています。その舞台は自分の出身である商家を舞台としたものでした。
『世間胸算用』
[せけんむねさんよう]
出展:国立国会図書館デジタルコレクション
元禄5(1692)年に書かれた西鶴晩年の作品で、5巻20章の短編集です。副題は「大晦日は一攫千金なり」
『日本永代蔵』では商家を紹介し町人の心得的なものを面白おかしく描いていたのに対し、この『胸算用』は、大晦日の一日に焦点を合わせて、借金取りから逃れるために手を尽くす借家人とそれを追いかける借金取りの駆け引きを描いた切実なテーマです。
江戸時代の商取引は、つけ払いが一般的で取引相手とは各月の最後の日(晦日 みそか)に集金人が店に来る形で支払いをしていました。12月31日はその年の晦日の最終日なので大晦日となります。
主な作品
作品は「世の常は大晦日は闇なること」の一説から始まります。大晦日は旧暦で闇夜にあたることと、支払いの締め日で憂鬱な気持ちとを重ねています。
正月のお飾りには伊勢海老がないと始まらないという商家の話(巻1の3「伊勢海老は春のも栬」)、持っていくものが何もないなら、柱をもっていくという強者の借金取り払わなくてもお縄にはならないと開き直っている借り手の話(巻2の4「門柱も皆かりの世」)、ぐうたら亭主と亭主のために仕方なく乳母として働く妻の話(巻3の3「小判は寝姿の夢」)
内容と対照人物
なかでも「小判は寝姿の夢」はぐうたら亭主でありながら、妻の勤め先のご主人が妻のような女が好みかといううわさを聞いて、引き戻してしまうという、ほろりとさせる内容です。
描かれているのは商人だけでなく、つけ払いでも買い物ができないような階層の人々にもスポットを当てています。
大晦日が今よりももっと大変な日だったこと、江戸時代の町人のたくましさを感じさせる作品です。
まとめ
まるで当時の町人の息遣いが聞こえてくるような西鶴作品の数々は、パロディー本、指南書の域にとどまらない質の高さです。
「浮世草子」の刊行は西鶴の没後もしばらく続きますが、他の追随を許しませんでした。
西鶴はしばらく忘れられていましたが明治時代に再評価され、以後現在に至ります。
人としてやるべきことの基本は、いつの時代も同じだということを現代の私たちも改めて知ることができますビジネス指南書として、文学作品として支持されていることには納得です。
わつなぎオススメ記事 >>【浮世絵】一度は見たことある!浮世絵と有名絵師たちのすべて