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【浮世絵】歌川広重「東海道五十三次」江戸から京都まで解説![日本橋〜掛川編]

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三島

[朝霞]


五十三次の旅で最大の難所・箱根峠を抜けると、江戸から約28里の三島宿に到着します。旅の行程の約4分の1になります。

副朝の霞みのなかを行く旅人は、うとうと眠そうです。馬の両側に籠をまたがせてさらに馬上に人を乗せる乗掛(のりかけ)といいます。馬の負担も相当でしょう。

影絵風のコントラストで描かれた人や木が幻想的です。副題にあるように朝の霞を見事に表現し、現在も高い評価を得ている作品です。この画法は、日本画の円山応挙が水墨画で多用していました。

三島宿は伊豆の国府として、また三島明神の門前町として栄えていました。

本陣2つ脇本陣3つ、旅籠数も75件とタイ規模な宿場でした。ドイツ人医師シーボルト、アメリカ領時のハリスも、この三島宿を利用した記録があり、皆が足を止めて休みやすい宿場だったことがうかがえます。

本陣跡はJR三島駅近くにあります。

静岡県三島市本町


沼津

[黄昏図]


狩野川にかかる三枚橋(さんまいばし)の風景です。

宿場に向かっているのは白い装束に、天狗の面を背負う行者です。このような服装で回ると霊験が増すといわれていました。

画面全体が青のグラデーションに月が浮かぶ幻想的なこの作品は、広重の名作といわれています。この青色は「ベロ藍」と呼ばれるプルシアンブルーの絵の具が使われています。欧米で赤色を作ろうとして偶然に作られた藍色で、大陸経由で安く日本に入るようになり、北斎や広重の浮世絵に使用されました。53次中で最もこの絵の具の良さが生かされています。

沼津宿は狩野川沿いにある宿場町です。

北条氏の居城だった沼津橋城の城下町として栄えました。一般的に城の近くの道は、敵が進みにくくするため、ジグザグ道が多く作られています。図中の道が急なかぎ型なのはそのためです。

宿場本陣はJR沼津駅近くになります。

静岡県沼津市本町


[朝ノ富士]


雲がかからずに、すそ野までどっしり描かれた雪山の富士は圧巻です!

富士のふもと駿河国を旅していることを実感させる秀作の一つです。朝焼けをあらわす赤の線よりも富士が突き抜けているのは、広重の遊び心でしょうか。

原宿は宿場として整備される前は小さな漁村でした。

当初は海岸沿いにありましたが、慶長14年に津波で流され内陸側へ移転しました。旅籠の数も25件と閑静な宿場で東海道の中で最も少ないです。

海岸沿いの宿場は、この原宿だけでなく地震や津波の被害をたびたび受けました。特に元禄13(1703)年に起きた元禄大地震とその地震の影響で起こった元禄大津波では大きな被害が出ました。震度7クラスの大きな地震だったと推定され、相模湾沿いの宿場町大きな被害をもたらしました。

静岡県沼津市原


吉原

[左富士]


この宿場から蒲原宿へ向かう道は、曲がりくねっています。そのため、はじめは右手に見えていた富士山が、ある地点から左手に見えてきます。

それを優雅に遠くの富士を眺めながら進む大名の姿は、絶景を満喫しているように見えます。

右手に描かれているのは千本松原です。現在も富士山の見える絶景スポットとして知られています。この千本松原の写真は富士山が右・海岸は左にある写真が多いです。千本松原は沼津国道沿いです。

吉原宿は。本陣2・本陣3と東海道中でも本陣と旅籠の数が一番く、だいたい宿場数も40件前後が平均的ななか60件あり、栄えていたことがわかります。

原宿と同じように駿河湾の海岸沿いにあったので、たびたび津波の被害にあって内陸側に本陣が移りました。現在は商店街入り口になっていて、本陣跡などはありません。樹齢があるので、現在の千本松原に当時の松はほとんどありませんJR沼津駅より200m。

静岡県富士市吉原


蒲原

[湖水図]


55枚中でも最も秀作と名高い作品で歌川広重の代表作として紹介されることの多い作品です。雪山の富士を背景に瓦ではなく藁吹き屋根の村があります

防寒のために蓑を着てとぼとぼと歩く旅人の男性と女性の姿が見られます。

この一枚は有名な絵ですが、謎を残しています。

蒲原宿は静岡県の駿河湾沿いにある雪が降らない温暖な地域で、めったに雪が降りません。雪景色は。旅行した時に珍しく雪が降っていたのか、海沿いのこの名所にだったら、という広重の空想なのでしょう。

蒲原宿は、ほかの海岸沿いの宿場同様に、たびたび津波の被害がありました。

特に元禄16(1703)年の元禄大地震の際、駿河湾や千葉沖に襲った津波では小田原から先の海岸沿いの宿場では大きな被害がありました。この地震後、蒲原宿など海岸に面した宿場は陸側に移転をしました。

蒲原宿はJR静岡駅からバス30分ほどの場所にあり、駅前になまこ壁の建物があり、景観保存に力を入れています。今も宿場の古い町並みが残る観光地です。

静岡県静岡市清水区蒲原


由比

[薩埵嶺]


薩埵峠(さったとうげ)から、左手に富士山を眺めながら帆船が浮かぶ駿河湾を描いています。前方に岩を斜めに大きく配置した対角線構図が、山と海に広がりを持たせ、有効に作用しています。

広重は、人物中心、風景メインと数枚ごとに構図を変えています。この絵は55枚中でも人物の存在感がしない一枚です。

薩埵峠は薩埵山(224m)に続く標高90mの小さな峠です。山肌は波による浸食があり、たびたび崩落がある急斜面です。この場所は古くから戦場となることが多く 古くは足利尊氏が弟と戦いました。戦国時代には北条氏と武田信玄がこの地で戦いました。

国道1号線沿いにある薩埵峠からは、現在も広重の絵と同じ風景を見ることができます。富士が一望できる日は絶景が広がります。

静岡県静岡市清水区由比


出典:Wikipedia


興津

[興津川]


富士山を描いた絶景から一転して、駿河湾につながる興津川(おきつがわ)を渡る力士の姿を中心とした構図です。刀袋を持っていることから、大名のおかかえ力士ではないかと思われます。

力士が載っているのは山駕篭という簡易的な籠です。

道中用には四つ手篭と呼ばれる4人で担ぐ籠があり、使い分けられていました。庶民が乗ることを許されていたのは簡素な作りで、「乗物」と呼ばれる豪華な籠は大名や将軍など身分の高い人のみ許されていました。

画面奥に広がる松林は、許奴美の浜(こぬみのはま)とよばれる名所で、万葉集の中にもこの地が詠まれています。現在も海沿いの松林のある浜は観光名所となっています。

静岡県清水区興津本町


江尻

[三保遠望]


画の下に影絵のように描かれているのが清水港の街並みです。

江戸時代は江尻という地名で、その街並みの上に帆掛け船が浮かぶ駿河湾の遠景が広がります。さらにその向こうに、伊豆半島が見えています。

この風景は久能山の高台から見える風景です。

ひとつ前の興津宿では人物中心の構図でしたが、一転して55枚中で人の存在が最も薄い作品です

ジグザグに遠景から前方に色の変化をつけ、風景に奥行きを出しています。突き出ている岩がアクセントになっています。画面上部の線が黄色なので、朝の風景と分かります。

広重はこの線の色で天気や時刻を描き分けています。

江尻宿は、古くは武田信玄の城下町として栄えていました。1601年の街道整備の時に最初から宿場に制定されています。

広重は、城下町や門前町として有名な宿場では、ほかの名勝地を選ぶ傾向があり、それには、版元か本人が支配階級の人々を嫌っていたのでしょうか。

現在も重要な漁港の一つの清水港は、開港前から賑わっていたことがわかります。

ちなみに『好色一代男』二巻にはこの宿の遊女を身請けする話があります。清水は飯盛女のいる旅籠が多数ある栄えた港町の宿場とわかります。

静岡県静岡市清水区江尻町


出典:Wikipedia


府中

[安部川]


画面の半分近くを覆うようにある水辺は安倍川です。

その川を駕篭に乗って渡る女性がいます。興津宿と違って4人で担ぐものです。駕篭は豪華な誂えのものは大名用で「乗物」といい、武士階級専用でした。

この画や興津宿にあるような簡素な駕篭のみ許可されていました。

53次の中で川や海を描いていることは多く、この画も画面の半分が青のコントラストで表現された川です。しかし広重は水面に波や水の流れを描いた絵は53次では一枚もありません。

同じ時期に活躍した葛飾北斎と対照的です。波の北斎といわれた葛飾北斎を意識していたのでしょうか。

府中宿には徳川家康が秀忠に政権を渡した後、晩年に居城としていた駿府城があります。宿場の人口も14000人と大津宿に次ぐ多さで、城下町として栄えていましたが、広重は宿場町や城の風景ではなくなぜか安部川を選びました。

JR静岡駅近くには復元された駿府城があり、近くに安部川が流れ観光地となっています。

静岡県静岡市葵区伝馬町


丸子

[名物売店]


副題にあるように、土地の名物を出す茶店の風景です。

『東海道中膝毛』の弥次喜多コンビを思わせる旅人が美味しそうに名物のとろ汁をすすっています。茶屋は主に昼食や軽食を出す店で、宿泊施設ではありません。茶屋で土産を買い、名物を食べることは、旅人たちの楽しみの一つでした。ちなみに二つ前の江尻宿の名物の追分羊羹です。

建物の外にある梅の木、店の屋根につがいの鳥が泊まっていて春の音連れを感じさせます。

鞠子宿は53次の中で一番小さな規模の宿場です。

宿場が国道一号線から離れていたため、開発の手もあまり入らず現代でも宿場町の面影が残っています。

宿場町を観光の目玉としていて、広重の絵とそっくりの慶長年間開業の老舗とろろ店があります。秀吉も食べたという名物とろ汁は、現在も受け継がれています。

静岡県静岡市駿河区丸子


出典:Wikipedia


岡部

[宇津之山]


旅の難所の一つである宇津谷峠の風景です。

道行く旅人も後ろに荷物を抱えて一生懸命に急斜面をのぼっています。薪を担いだ木こりの服がはだけている様子からも大変さがわかります。

カーブを描くように山を流れている川は、急流で有名な岡部川です。山の勾配の激しさを表現するのに効果的に作用しています。

この先には蔦の細道というさらに細い道があり「駿河なる宇津の山辺のうつつなり 夢にも人にあわぬなりけり」と在原業平が『伊勢物語』で読んだことで知られています。

岡部宿は旅籠数27の規模の小さな宿場でした。

宿場跡は国道から外れた場所にあり、現在も自然の残る山あいです。

IR静岡駅・岡部駅からからバスで山道を行くと、宿場最大の旅籠・福田屋を再現した建物があり、当時の宿場の雰囲気を味わえます。

静岡県藤枝市岡部町岡部


藤枝

[人馬旅立]


問屋場で荷を運ぶ人足の交代風景です。

右側の高い床に座って指示を出しているのが、問屋場(といやば)の役人です。その左下で帳面をもっているのは帳付けという記録係の役人です。黒い紋付の羽織の役人も荷を確認しています。

問屋場についたほうの人足は、キセルを吸ってリラックスし、これから行くほうの人足は上半身裸で出発は今かと準備しています。

問屋場の仕事は、荷物を運ぶために必要な人馬を用意しておくこと、大名の書簡や荷物を次の宿場へ運ぶ仕事の二つです。各宿場に必ず設けられていました。藤枝の人足は旅の難所と言われる宇津谷峠の急こう配を行き来するのですから、相当の激務だと想像がつきます。

藤枝宿は、8つの村が協力して運営する特殊な宿場でした。

宿場が細長い形をしていて、問屋場が一か所しかないと離れた場所から入った馬や人足が不便なため上伝馬町では上り荷物、下伝馬町では下りの荷物を分担という形で二つの問屋場ができました。

東海道の人馬交代の要所として重要な宿場でした。

静岡県藤枝市藤枝


島田

[大井川遠岸]


川越えする庶民を大きく描いた藤枝宿とはうって変わって、大井川を渡る大名行列の様子を高台から見た風景です。俯瞰的なアングルを描くのに、日本画で街や合戦図でよく使用される構図です。

川を輦台(れんだい)という板で渡る武士、肩車で渡る武士、川岸の先頭には、荷物の重さを天秤で測っている人の姿があります。

川を超えるには、輦台と呼ばれる板に乗せてもらう、声をかけて手引きをしてもらう、肩車、駕篭の方法がありました。列の最後尾には、質素な駕篭(かご)に乗った旅人が大名行列の川越を待ちわびています。列の前方にある「乗物」と呼ばれる身分の高い人が乗る駕篭です。

この画のように大井川を見ることのできる高台は実在しません。広重のカメラアイ的な俯瞰のセンスが光る作品です。

大井川の川越は旅の中でも難所でした。

川越人足の料金設定を整備するため1695年に川越制度が制定され、業務を管理する川会所(かわかいじょ)という役所が置かれました。

JR島田駅近くが宿場跡で大井川はその先に流れています。

静岡県島田市本


金谷

[大井川遠岸]


島田宿と2枚続きで大井川の川越しの様子を描いています。

島田宿では描かれていなかった山が構図のアクセントとなって効果的です。空の色が赤らみ、夕刻までかかって川越えも終わろうとしています。

島田宿の画と一緒に見ると、昼と夕、山の有無、川を渡る方向が対称的になっていて、鑑賞する人を飽きさせません。

島田宿と金谷宿は川を挟んで対岸に並んで設置されていました。

大井川は東海道の中で一番大きな川で江戸時代も川幅が12丁あったので、行列がわたり終わらうには相当の時間が必要でした。

JR金谷駅を降りると、すぐに旧東海道に出ます。現在、大井川周辺はSLの走る観光地となっています。

静岡県島田市金谷本町


日坂(にっさか)

[佐夜ノ中山]


左に小さな富士山を見据えて、画面前方に大きく描かれた急斜面の山は、「小夜の中山」です。松尾芭蕉や西行法師もこの地で句を詠んでいます。

滑り台のような山道は、ユニークですが、実際よりかなり誇張されて描かれています。

道に無造作に置かれた大きな石を旅人たちが見ています。この石は『西行物語』にある夜泣き石と呼ばれる石です。お石という妊婦がいしに腰かけていたところを、山族に襲われ。命を落としました。切られた腹から生まれた赤子は寺に預けられ、乳の代わりに水飴を与えられて立派に育ち、仇討ちをしたという話です。

日坂宿は旅籠数33の小さな規模の宿場でした。金谷宿との間にある日坂峠は東海道中で旅の難所の一つでした。現在はハイキングコースに整備されています、宿場跡はJR新幹線掛川駅からバス20分。

また、この画に描かれた夜泣き石は中山トンネル脇にあり、 似た形の石が久遠寺神社にあります。

静岡県掛川市日坂


出典:Wikipedia


掛川

[秋葉山遠望]


二瀬川にかかる大淀橋の風景です。

背景の富士山は頂上まで描かずに、後ろから伸びている凧が頂上に重ねるようにワンポイントとなっています。

橋には僧侶に挨拶する旅人、その後ろで空を見上げているのは、裸足ですから旅人ではなく川の下で凧あげをしていて、空に浮かぶ凧を見あげています。

橋のたもとの田んぼには田植えをする農民がいます。手前が副題にある秋葉山で、この橋の近くに秋葉山につながる分岐点となる道があります。

掛川宿は掛川宿の城下町として栄えました。

掛川城は別名「雲切り城」といい小高い山の上にありました。画の富士山が雲で隠れているのは、城の別名を伊七記してのことでしょう。また、この地域では四角い大凧を川であげる大凧祭りが盛んで現在も続いています。

駿河国で今川義元の戦勝を祝って凧をあげたことが発祥といわれています。凧がここに描かれている理由です。

本陣跡はビルになっていますが、掛川城は復元されてJR掛川駅からすぐのところにあります。

静岡県掛川市連雀


まとめ

歌川広重はこの53次の一枚一枚を、細部にこだわって描いています。

小さく描かれた旅人にも意味があることが多いです。

土地にまつわる伝説や歌に詠まれた場所を題材にしている作品も多く、それらのお話を知っていること前提ですから、江戸庶民に知識も教養もある層が増えたことを示しています。

前半の宿場では「日本橋」、蒲原宿の雪景色「沼津宿の夜景」が秀作として有名で、旅の最難関である箱根越え、静岡県の宿場にみられる山の急斜面は見ごたえがあり、少々不完全な遠近法の描写が味わい深いです。

地理的なリアリティーに欠ける作品もありますが、静岡県の山間の風景は今も同じように見ることのできる場所があります。


 わつなぎオススメ記事 >>【浮世絵】歌川広重「東海道五十三次」江戸から京都まで解説![袋井〜京都編]


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ライター紹介 ライター一覧

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小さいころから歴史好きで、大学では日本美術・江戸文学を学び、歴史系の学芸員の資格を取りました。

40代の主婦ですのでかれこれ四半世紀前のことになりますが、研修旅行では、おいしいものもろくろく食べず京都の寺社を東奔西走していました。博物館や美術館にもレポートなどでよく行きました。

現在は子育てや体調もあり、実物を見る機会はめっきり減りました。それでも、家にある図録などから縄文式土器のパワーに惹かれ、仏像の美しさに見入り、焼き物や工芸品の匠の技に感心し、庶民の力が花開いた町人の世界に思いをめぐらせ・・と、江戸文化や美術をできる範囲で楽しんでいます。

作品から当時の人々の息遣いを感じることができると、歴史を楽しむ醍醐味がわかります。そのお手伝いができたらいいなと思います。

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