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【浮世絵】歌川広重「東海道五十三次」江戸から京都まで解説![日本橋〜掛川編]

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歌川広重とは

歌川広重は1797年に火消屋敷の同心・安藤源右衛門の子として生まれました。13才の時に両親を亡くし、火消同心の家業は親戚に譲り、15歳で幼いころから好きだった絵を学ぶため。歌川豊広に入門しました。最初は役者絵を描いていましたが、『東海道五十三次』を皮切りに、『名所江戸百景』など数多くの風景画の揃い物を製作しました。安政5(1858)年に63歳で死去しました、

同じ時代を生きた約30歳年上の葛飾北斎とともに風景画の双璧として知られています。

作品は開港を迫って来日した外国人たちにも好評で、海外でもゴッホが「名所江戸百景」を模写したのは有名です。ヨーロッパ画壇におけるジャポニズムブームにも影響を与えました。

作品を楽しむ豆知識

画面上にある一文字にひかれた線は、青が晴天や日中、赤や黄色は朝夕、茶色は雪と描き分けられています。

53枚の中のいくつかには、登場人物には『東海道中膝膝栗毛』の弥次喜多を思わせる旅人が描かれています。また、土地にまつわる伝説や有名な歌を主題とした作品が多く、エピソードを知っているとより楽しめます。

東海道五十三次

東海道五十三次については、【浮世絵】歌川広重「東海道五十三次」江戸から京都まで解説![袋井〜京都編]にて解説。

江戸日本橋

[朝の景]


日本橋の朝の風景です。

そこにいるのは早く到着していた大名行列の先頭、魚河岸の商人たち、左手には高札場があります。高札場は幕府からの伝達を示すもので各宿場に置かれた掲示板のようなものです。

日本橋は江戸市中に入るための木戸(他は高輪・四谷・板橋)の一つで他の木戸よりも早い明け7ツ(時刻4ツ半、季節によって3-4時頃)に開門しました。

うっすらと赤らんだ夜明け空の先に時の鐘が見え、旅の出発点としての風情を感じさせます。

1604年にかけられた木製の橋は明治11年に石橋に変わりました。江戸時代は、橋の近くにある三越の場所に越後屋呉服店があり、小判を作る金座があった場所は日本銀行がありました。今も昔も経済の要所でした。

図中にある時の鐘は、江戸時代は日本橋本石町にありました。現在は十恩公園に移築されて見学可能です。首都高速が橋梁の上に覆いかぶさるように開通したので、現在は絵のように朝焼けの空を眺めるような景色ではなくなりました。

中央区日本橋


出典:Wikipedia


品川

[日の出]


江戸から2里(約8キロ)を過ぎると最初の宿場・品川に到着します。

宿の入り口で客引きをする女性の姿に、宿場町が賑わっていたことがうかがわせます。道を行くのは大名行列の最後尾です。画面右下には大名行列のために道をあけている旅人がいます。テレビでよく見る土下座はしていません。

品川宿は、江戸四宿(内藤新宿 板橋 千住)の一つとして栄えました。幕府公認の遊郭は吉原のみですが、品川宿は北の吉原に対して「南」「見南美」呼ばれる遊郭街でした。食事だけでなく男性の相手もする飯盛女(めしもりおんな)が1000人を超す大きな宿場でした。

品川浦は海苔の養殖が盛んにおこなわれ、帆船が連なって往来するような港町でした。

英国公使焼き討ち事件の時に長州藩は、この宿場の土蔵相模という大きな旅籠から出発しました。水戸藩の浪人が井伊直弼を襲撃した時もこの宿場から出発しているなど、江戸から4里の品川宿は幕末の志士たちにとって要所でした。

その旅籠は今ななく、JR北品川駅近くの商店街が本陣跡となりますが当時の面影はありません。

東京都品川区北


川崎

[六郷渡舟]


六郷川の渡し船の風景です。雪山の富士を喜ぶ女性、キセルを吸う男性、あと少しと一生懸命に舟をこぐ船頭が頑張っています。

旅人たちは二つ目の国・相模のへ入り、これから始まる道中を楽しみにしている様子が伝わってきます。

登場人物を表情豊かに描かれていることがこのシリーズの特徴です。広重のユーモアセンスと人柄がうかがえます。

江戸時代。橋のない川を渡るには、船による渡しと、人足による川越えの二つの方法がありました。

旅人が渡っている六郷川は、上流の入間では入間川、下流の街道沿いでは多摩川、最下流が六郷川と名前を変えて流れています。台風の季節になるたびに川の氾濫があり、元禄元(1688)年の大洪水で橋が流されて割れた際に、幕府は再び橋を架けず渡し船の運行を決めました。

本陣跡は川崎駅近くにありますが当時の面影はありません。

神奈川県川崎市川崎区本町


神奈川

[台ノ原]


江戸から約7里(27キロ)の神奈川宿で、多くの旅人が最初の休憩をとりました。旅籠の前では客引きの女性が呼び込みをしています。旅人の後ろには行者といわれる修行僧が歩いています。

画面左手に港・右手に宿場町の様子という構図は、品川宿と同じですが、坂道の傾斜を表現するため、家々の屋根を重ねるように描く工夫がこの画に面白みを加えています。

神奈川宿は坂の多い場所で高台から見る海は「金屏海」と呼ばれる絶景スポットでした。当時の観光名所として賑わっていました。

神奈川湊は、現在はありません。

幕末に開港を迫られた江戸幕府が、神奈川港ではなく横浜港を開いたため、人が横浜のほうに流れて神奈川湊は衰退していきました。

京浜急行の神奈川駅~神奈川駅までが旧宿場町ですが、そこから海は見えません。横浜港は、みなとみらい地区開発が行われて江戸時代とは一変した風景となっています。

神奈川県横浜市神奈川区神奈川


保土ヶ谷

[新町橋]


川に架かる帷子橋(新町橋)の風景です。画からは、瓦屋根ではなく芽吹き屋根との宿、田んぼのなかにあるような、のどかな場所だったことがうかがえます。

「二八」と書かれている店先の看板は、一杯16文のそば店です。

『東海道中膝栗毛』には、保土ヶ谷宿は客引きが激しすぎ、素通りしてしまったエピソードもあります。

保土ヶ谷宿は帷子(かたびら)町と周辺の3つの地域を合わせた宿場です。

帷子川は、開発のため当時とは流れが変えられました。現在はJR天王寺駅付近に旧帷子橋跡があります。

神奈川県横浜市保土ヶ谷区保土ヶ谷


戸塚

[元町別道]


足に自信のある旅人は、この宿を最初の宿にしました。江戸から10里(葯39キロ)です。

「ここから先は鎌倉」と書かれた道標にあるように、鎌倉街道との分岐点がこの先にあります。川にかかる大橋を右手に、「古めや」の看板のかかった店先には、馬から急いで降りている男性。何を慌てているのか、絵にユーモアを加えています。

ここは、お米を売る店ではなく旅籠です。ごはん処という意味です。

軒先の「講中」の講は江戸時代に作られた互助組織で、メンバー内でお金を出しあってプール金を作り、メンバーが困ったときに順番に使うシステムです。講ごとに御用達の宿があったのでしょう。馬から急いで降りる旅人がユーモアユアt化に描かれているのが印象的です。

戸塚宿は、当初は宿場ではありませんでしたが、実質的な宿場の役割をしていました。1601年に開通した藤沢宿の間が長いため、宿場認定の朱印状をもらおうと嘆願書を作成していたところ3年後の寛永4(1604)年種々場となりました。

宿場の本陣はJR戸塚駅近くになりますが、絵に描かれている大橋はその場所からバスで約30分の場所になります。

神奈川県横浜市戸塚区戸塚町


藤沢

[遊行寺]


「江の島一の大鳥居」と呼ばれた遊行寺の鳥居が、画面中央にそびえたっています。奥に江の島、前方に盲目の参拝者の姿が見られます。

江戸時代の鍼灸師・杉山検校が、盲人のための道標を江の島弁財天に作ったことで盲人の参拝者が多く訪れました。この標は江の島に今も残っています。

藤沢宿は時宗の総本山・遊行寺の門前町として、また鎌倉や湘南方面の観光の拠点として宿場に制定される前から栄えていました。

明和6(1769)年に建設された鳥居は火災や関東大震災どの災害で失われるたびに再建されてきましたが、藤沢駅の拡張工事にともなって取り外されました。

現在は礎石の跡が寺にあるのみです。宿場跡にはJR藤沢駅から徒歩の場所にあります。

神奈川県藤沢市藤沢


平塚

[繩手道]


高麗山(こうらいさん)を背景としたあぜ道には、「ここから東は平塚」という道標が立っています。書簡の入った包みをもって颯爽と走る飛脚と、客を捕まえられずに空駕籠で宿へ戻る駕籠かきの姿が対照的です。
高麗山の向こうに富士山が半分見えます。

高麗山は、仇討ち事件で有名な『曽我物語』にまつわる伝説があります。主人公の曽我兄弟の兄・十郎の愛人だった虎御前が出家してこもった山といわれています。

『曽我物語』は、建久4(1193)年に起こった仇討事件をもとに書かれました。

平塚宿は、旅籠数54と比較的多く賑わいのある宿場でしたが、広重は『曽我物語』にちなんで、高麗山と田んぼ道を描いています。

JR平塚駅近くには宿場跡があり、そのあたりからは画と同じようなこんもりした高麗山(こまやま)を見ることが出来ます。高麗山は標高160メートルの小さな山です。

神奈川県平塚市平塚


出典:Wikipedia


大磯

[虎ケ雨]


55枚中、雨を描いた作品3枚中の一枚です。

出家して愛宕山にこもった『男鹿物語』の曽我十郎の愛人・虎御前が、十郎の死を悲しんで困山にこもり、海岸に涙を流したといといわれています。この風景が雨である理由ですね。

大磯の海岸は日本初の海水浴場で、波が高くサーフィンの好適地として知られており、その海岸を眺める国道から200mの場所に本陣跡があります。

神奈川県中郡大磯町大磯


小田原

[酒匂川]


江戸から約20里の小田原宿は、多くの旅人たちが、2か所目または3か所目の宿に利用されていました。

画は小田原を流れる酒匂川(さかわがわ)を徒歩で渡る風景です。小田原宿に行くには、必ず通る川で、ここから江戸への敵の侵入を防ぐため、この場所に橋を架けませんでした。

そのため旅人は、川越人足を使って徒歩で渡りました。

画に描かれているのは、駕篭の仕様から身分が高い人とわかります。

江戸から行くとこの先に旅の最大の難所・箱根峠があるので、これから向かう峠に向けて体を休め、気力を養う旅人や、峠を越えて一休みする旅人で賑わっていました。

小田原宿は旅籠数が65もあり、戦国時代は北条氏の居城だった小田原城の城下町として栄え、江戸時代に入ると城は家康の直轄となりました。

現在も小田原駅前は宿場町の面影が残る観光地で練り物を特産とした港町として栄えています。

高台からは今も画と似た風景が広がっています。

神奈川県小田原市本町


出典:Wikipedia


箱根

[湖水図]


急な坂道をのぼっているのは、関所を通過して三島宿へと向かう旅人たちです。左手に青のコントラストの効いた芦ノ湖、右手に大きく日本画風の箱根峠です、奥に富士が見えます。遠近感を工夫した山は迫力があります。しかし、この坂の傾斜は、広重が誇張したものです。

明和16(1619)年に設置された箱根宿は作られました。はじめは中心街の元箱根地区に作りたいと計画していましたが、人のいない芦ノ湖峠と芦野湖のほとりに小田原宿・三島宿から50件ずつ人を移住させて作りました。

この村人の所属がそれぞれ移る前の場所だったので、領主が二人いるという特殊な宿場でした。

「入り鉄砲と出女」といわれていたように、幕府は関所での人の出入りを厳重に監視していました。特に箱根関所は将軍のいる江戸へと続く道ですから、その取り締まりは厳しいものでした。

芦ノ湖畔にある関所跡や商店街は今も宿場町の面影を残し、観光名所となっています。

神奈川県足柄下郡箱根町畑宿


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小さいころから歴史好きで、大学では日本美術・江戸文学を学び、歴史系の学芸員の資格を取りました。

40代の主婦ですのでかれこれ四半世紀前のことになりますが、研修旅行では、おいしいものもろくろく食べず京都の寺社を東奔西走していました。博物館や美術館にもレポートなどでよく行きました。

現在は子育てや体調もあり、実物を見る機会はめっきり減りました。それでも、家にある図録などから縄文式土器のパワーに惹かれ、仏像の美しさに見入り、焼き物や工芸品の匠の技に感心し、庶民の力が花開いた町人の世界に思いをめぐらせ・・と、江戸文化や美術をできる範囲で楽しんでいます。

作品から当時の人々の息遣いを感じることができると、歴史を楽しむ醍醐味がわかります。そのお手伝いができたらいいなと思います。

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