【家紋】歌舞伎役者の屋号と家紋!意味から由来をご紹介
この記事の目次
音羽屋
[おとわや]
歌舞伎の大家の一つである「音羽屋」は江戸中期の頃に初代尾上菊五郎の父「半平」が京都で芝居小屋で飲食店を営んでおり、彼らの住まいが清水寺の近くだった事から、境内にある音羽の滝にちなんで「音羽屋」と名乗るようになったと言われています。
重ね扇に抱き柏
かさねおうぎにだきがしわ
出典:Wikipedia
この家紋は初代尾上菊五郎の御贔屓筋から扇にのせた柏餅を頂いた際にそれを扇に乗せて受け取ったというエピソードからこの紋を作ったとされています。
柏は古くは神様に捧げる食べ物のお皿として使われていて「神聖な木」とされてきました。そんな柏の葉を使った御餅を貰った事から音羽屋では家紋にしたのかもしれませんね。
四ツ輪に抱き柏
よつわに だきがしわ
出典:Wikipedia
音羽屋宗家は重ね扇に抱き柏の家紋になりますが、尾上松緑や尾上辰之助の門弟筋は別の紋を使います。
音羽屋の替紋である四ツ輪をベースに宗家の抱き柏を乗せた紋を定紋にしていますが、尾上松也や坂東彦三郎などの門弟は抱き若松や鶴の丸といった縁起の良い定紋に使う場合もあるようです。
怪談物や盗賊を主人公にする白浪物を得意とする音羽屋の紋と思うとより面白さを感じますね。
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澤瀉屋
[おもだかや]
市川猿之助や歌舞伎の大家市川団十郎の門弟とする名門の祖である澤瀉屋は、現在では伝統的な枠に捉われないスーパー歌舞伎を行う一門として人気があります。
屋号の由来は初代市川猿之助(二代目市川段四郎)の生家で副業で薬草の「オモダカ」を使う薬屋さんだったことからと言われています。
澤瀉
おもだか
出典:Wikipedia
名前のオモダカの葉をモチーフにした紋を使う市川猿翁や市川猿之助の宗家と、オモダカの花をイメージした八重澤瀉の紋を使いますが、市川猿之助だけは名前の猿をモチーフにした三ッ猿の紋を替紋として使い、また市川段四郎は元々の祖である成田屋の三升に段の字が入った紋を使っています。
門弟の市川中車は澤瀉ではなく大割牡丹、門弟筋は四つ澤瀉や蝙蝠など様々な紋があるのは、伝統を大切にしながら捕らわれない澤瀉屋らしい感じがしますね。
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高麗屋
[こうらいや]
初代松本幸四郎が丁稚奉公していた江戸神田の「高麗屋」から屋号を取ったと言われる高麗屋は、もともとは市川團十郎の門弟筋になる屋号。
團十郎家に跡取りがいない場合には高麗屋から養子をとって宗家を継がせることが多くあるというこの一門は、その立ち位置から松本金太郎から市川染五郎、松本幸四郎、松本白鸚と出世魚のように名前を襲名するのも特徴です。
四つ花菱(定紋)
よつはなびし(じょうもん)
出典:Wikipedia
高麗屋の四つ花菱は古事記や万葉の時代から親しまれてきた水草の菱を花びらのように見立てて並べた美しい家紋です。
この紋は門弟筋を含めて松本性を持つ役者さんの定紋になりますが、市川染五郎は四つ花菱を替紋として定紋に三つ銀杏の紋を、松本金太郎も浮線蝶や四つ花菱紋を使っていましたが、4代目から新しく四つ菱花と三つ銀杏を組み合わせたような美しい紋を作り使うようになっています。
他の名跡に比べてあまり紋が多くない高麗屋ですが、伝統と格式を保ちながら新しい紋をつくる柔軟性も持ち合わせた家と言えますね。
浮線蝶(替紋)
ふせんちょう(かえもん)
出典:Wikipedia
松本白鸚や松本幸四郎が四つ花菱の替紋として使う浮線蝶は、左右対象で羽を広げ伏せた蝶の姿が美しく、古くは平安時代から使われている文様になります。
この替紋は4代目松本幸四郎が使ったことで江戸っ子の間で大流行した模様でもあり、現代もで歌舞伎文様の高麗屋格子と組み合わせたグッズが出るなど、人気のある紋です。
三つ銀杏
みついちょう
出典:Wikipedia
市川染五郎の定紋として使われる三つ銀杏のイチョウの木は、古来より神木として神社やお寺の境内に植えられ、また長寿の象徴として愛されてきたもので、独特の扇形の葉は紋に取り入れやすいという事と縁起の良さから多くの家紋に取り入れられてきました。
出世魚のように名前を変えて伸びやかに続いていく高麗屋の中で唯一祖である成田屋の「市川」を名乗る染五郎の紋として銀杏を定紋とするところに、血を超えて続く深い絆や歴史の意味を感じますね。
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中村屋
[なかむらや]
歌舞伎の名門である江戸三座の中でも最も古い「中村屋」は、江戸歌舞伎の劇場を興した祖である猿若勘三郎が名古屋市中村区のあたりで生まれた事からその名前を付けたと言われています。
江戸で中村屋を開業した猿若勘三郎は座元になった際に「中村勘三郎」と改名し、これが後々の中村屋の名跡となりますが、屋号は柏屋や舞鶴屋と変わり、17代目中村勘三郎が中村屋にしたという歴史があります。
現在でも中村屋は役者と座元を兼業するスタイルは初代から受け継がれてきた伝統と言えるではないでしょうか。
角切銀杏
すみきりいちょう
出典:Wikipedia
中村屋は他の名跡と違い宗家と門弟筋が同じ「角切銀杏」の紋を定紋として使っています。
唯一違うのは中村屋は座元として中村座という芝居小屋を開く際にはこの「角切銀杏」ではなく「隅切り角に銀杏鶴」という銀杏の葉を鶴に見立てた可愛らしい紋を使う事です。
中村勘三郎の元々の家紋は丸の中に舞鶴が描かれていたのですが、5代将軍の徳川綱吉が娘の名前に関連する鶴の紋を使うのを禁止した為に、それに似ていて由来も形も縁起の良い銀杏を使うようになったと言われています。
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成駒屋
[なりこまや]
成駒屋は元々は加賀屋という屋号でこれは初代中村歌右衛門が加賀藩金沢の出身だったことから加賀屋と名乗っていましたが、4代目中村歌右衛門が親交が深かった4代目市川團十郎から成駒柄の着物をプレゼントされ、それに感謝して屋号を團十郎の「成田屋」と将棋の様々に変化する「成駒」にかけて「成駒屋」に改名したのが始まりです。
祇園守
ぎおんまもり
出典:Wikipedia
中村歌右衛門や中村芝翫が定紋とする祇園守は、京都東山の八坂神社のお守りを指しその由来には諸説ありますが、紋そのものにお守りとしての効果があると
成駒屋の定紋になったのは、初代中村歌右衛門が八坂神社にお参りをして芸道を極める祈願をしていたことが由来と言われています。
その他にも門弟筋ではイ菱や寒雀など様々な紋を使っていて、定紋を眺めるのも楽しい一門です。
成田屋
[なりたや]
初代市川團十郎の父親の堀越重蔵が千葉県成田市の成田山新勝寺の近くが出身で、子どもに恵まれなかった初代團十郎が父親に所縁のある新勝寺で祈願したところ翌年に2代目團十郎を授かった事からそれに感謝して山村座という芝居小屋で「成田不動明王山」を上演し、その際に客席から「成田屋!」という声が掛かったことからそれを屋号にし、これが歌舞伎の一門の屋号の始まりと言われています。
この成田屋の屋号は宗家のみが名乗る事が許されている由緒ある屋号なのです。
三升
みます
出典:Wikipedia
市川團十郎や市川海老蔵の定紋である三升は、初代市川團十郎が父親の親友からから3つの枡を贈られ、その意味を「ますます繁栄」「ますます繁盛」「観客が舞台を見ます」という洒落と願掛けを兼ねて家紋のデザインにしたそうです。
シンプルながら力強さを感じるこの定紋は、歌舞伎の数ある家の中でも最も権威と歴史に裏付けされた伝統の重みを感じますね。
替紋は杏葉牡丹で、門弟筋では升田屋の藤巴の中に桔梗や三芳屋の八重桔梗など、優美な定紋を持っているところに、力強さだけではない優しさを垣間見れます。
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播磨屋
[はりまや]
中村吉右衛門の屋号である播磨屋は初代中村歌六が播磨屋作兵衛の養子となったことが由来とされており、それを屋号としたのが3代目中村歌六です。
そもそも「中村吉右衛門」という名跡は江戸中期の佐野川屋を源流とする系統と明治以降の播磨屋系の2つがあり、佐野川屋は名女形と知られる初代佐野川萬菊の弟を祖とする家系ですが、現在では途絶えているため、吉右衛門といえば播磨屋となっています。
播磨屋は他の名跡に比べると歴史が浅く感じますが、人間国宝である2代目中村吉右衛門は母方の播磨屋と父方の高麗屋の芸を受け継いだ名役者として現役で活躍されています。
揚羽蝶
あげはちょう
出典:Wikipedia
播磨屋の定紋である揚羽蝶はその名前の通り、美しい蝶をそのまま図案にした変わり揚羽と呼ばれる文様で、少し丸みを帯びた可愛らしいデザインなのも特徴です。
蝶の文様と言えば平家を代表する家紋ですが、古くは奈良時代から使われている伝統文様でもあり、近代化が進む時代に古典文様を定紋とする播磨屋の心意気を感じさせます。
替紋は村山片喰で、カタバミ自体が生命力のあふれる植物である事から子孫繁栄の象徴として古くから愛されてきました。
松嶋屋
[まつしまや]
上方系の中で最も歴史のある名跡である片岡仁左衛門の松島屋は、延宝の年間に活躍した女形の豐島春之丞の弟を初代とします。
当代で15代目となりますが初代から6代目で仁左衛門を襲名できなかったり、7代目からは生前に襲名できずに死後名跡を贈られたりと大変複雑な流れがあります。
そんな松嶋屋の屋号の由来は不詳で残念ながらなぜこの名前になったのかはわかりません。
ちなみに7代目片岡仁左衛門の門弟となった初代片岡市蔵が宗家を憚って屋号を「松島屋」と1字を変えて使用していますよ。
七つ割丸に二引
ななつわりまるににひき
出典:Wikipedia
片岡仁左衛門や片岡我當など松嶋屋の定紋である「七つ割丸に二引」の引両紋は、元をたどると足利将軍家を始めとした武将に好まれた図案です。
これは平安時代にまで遡り丸に線を引くことで領地や家を守る、身を守る結界の文様として利用されてきました。
基本的に松島屋の役者さんは七つ割丸に二引を定紋として使い追っかけ五枚銀杏を替紋としています。
追っかけ五枚銀杏
おっかけごまいいちょう
出典:Wikipedia
松嶋屋の替紋である「追っかけ五枚銀杏」は片岡愛之助や片岡千之助などの名跡ではこちらの紋を定紋として使っています。
前述のように銀杏は長寿繁栄のシンボルとして古くから利用されていますが、この追っかけ五枚銀杏は5枚の葉が追いかけるようにそれぞれに繋がり、さらに五角形を象るっているというとてもデザイン性の高い文様となっています。
長寿繁栄と共に松嶋屋の歴史が永遠と続くようにデザインされたような気がしますね。
山城屋
[やましろや]
山城屋の由来は諸説ありますが、一説では上方歌舞伎の2代目坂田藤十郎が襲名をした際に初代の出身地である京都にちなんで「山城屋」と屋号をつけたとされています。
初代坂田藤十郎は上方歌舞伎の創始者の一人でもあることから、成田屋の市川團十郎に並ぶ大名跡として権威ある名前となっていましたが、3代目が急死した事で名前を継ぐ者がいなくなり、伝説的な名前として歌舞伎の歴史に残るだけでした。
しかし平成17年に3代目中村鴈治郎が231年ぶりに山城屋4代目坂田藤十郎を襲名したことで、再び山城屋の屋号と名前が歌舞伎界に戻って来たのです。
五つ藤重ね星梅鉢
いつつふじがさねほしうめばち
出典:Wikipedia
坂田藤十郎の定紋である「五つ藤重ね星梅鉢」は4代目の定紋であり、替紋は向い藤菱となっていますが、初代をはじめ3代目までの定紋がどのような物であったかははっきりとはしません。
演目に「藤十郎の恋」という芝居があり、ここで初代坂田藤十郎は「丸に外丸」を定紋としているとされていますが、別の話しでは「梅鉢紋」という現在の五つ藤重ね星梅鉢によく似た紋を使っているとも書かれ、長く途絶えた時間の中で真相は不明となってしまいました。
大和屋
[やまとや]
元々は上方で人気のあった竹田巳之助という役者が坂東三八に芸を見込まれ、江戸へ出て来た時に坂東三津五郎を名乗ったのが始まりとされ、屋号はその初代坂東三八の実家の屋号から「大和屋」となったと言われています。
初代はもちろん10代目まで続く坂東三津五郎は、代々踊りや演技だけではなく様々な和芸事に秀でてその時代ごとの名役者として人気を博してきました。
特に3代目坂東三津五郎は舞踊の名手と称され、現在まで続く演目を残しさらに日本舞踊の坂東流の基礎を作った人としてその名前を残しています。
三ツ大
みつだい
出典:Wikipedia
大和屋の定紋である「三ツ大」は一見すると植物紋のような印象を抱く独特の形が特徴です。
これは初代坂東三八の「三」と大和屋の「大」を合わせた判じ絵のような図案となっていて、江戸の粋な遊び心が垣間見れますね。
替紋は花勝見に梶の葉など、代によって複数あるのも特徴です。
花勝見
はなかつみ
出典:Wikipedia
坂東三津五郎の替紋であり、一門の名跡である坂東玉三郎や坂東志うかなどの定紋である花勝見はイネ科の水草の一種で万葉の頃から使われている紋様ですが、3代目坂東三津五郎が舞台衣装にこの図案を利用したことで大流行し、それから替紋や定紋として使われるようになったと言われています。
萬屋
[よろずや]
播磨屋の門弟だった初代中村錦之助ら小川一門が昭和46年に独立をした際に屋号を「萬屋」としましたが、これは3代目中村歌六の妻の小川かめの実家が営んでいた芝居茶屋の名前が「萬屋」だったことが由来とされています。
播磨屋から分かれたことから、萬屋に連なる名跡の初代は播磨屋であることが多く、また上方仕込みのこってりとした味わいのある芸風が特徴です。
俳優としても有名な中村獅童も元々は播磨屋の名跡で、名役者と言われる3代目中村歌六の俳名が獅童だった事も知られています。
桐蝶
きりちょう
出典:Wikipedia
萬屋の定紋は桐の葉を蝶に見立てた遊び心と美しさのある紋ですが、大元となる播磨屋の変わろ揚羽蝶によく似たシルエットをしているのが特徴です。
そのため桐蝶は別名で「桐揚羽蝶」とも呼ばれ、豊臣家や皇室などが使う桐紋をモチーフとした格式高い文様をモチーフとしているところに、祖である播磨屋へのリスペクトと萬屋という屋号の誇り高さがうかがえますね。
まとめ
江戸初頭より人々に愛されてきた歌舞伎は今では日本を代表する芸能として触れる機会も多くあります。
そんな歌舞伎の深い歴史は一朝一夕では芯まで理解する事はできませんが、
お気に入りの役者さんから屋号や紋の由来、その系譜を辿ってみると、また違う視点で楽しめますよ。
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