【茶道】3つの流派!はじまりや所作から違いがわかる[表千家・裏千家・武者小路千家]
この記事の目次
茶道とは
茶道と言えば「ややこしい決まりに従って抹茶を飲む儀式」だと考えられがちです。しかし、三千家の祖の千利休は、「茶道とは何か」と尋ねられた時にこう答えたそうです。
「おいしいお茶を点て、ほどよく炭を焚き、夏は涼しく冬は暖かく感じられるようにし、花は自然に活け、時間には余裕をもたせ、いつ雨が降っても慌てない用意をし、相客には心遣いを」。
この教えは利休七則と呼ばれる茶席の心得で、難しいことは説いていません。
茶会は、ただお茶を飲む集まりではなく、その場の皆がお互いに敬い合い、自然や季節を感じ、道具を愛で、共に過ごす時間を楽しむための集まりであり、茶会をスムーズに運ぶための様々な決まり事が、各流派それぞれで究められてきました。
茶道の始まり
お茶が最初に中国から持ち込まれたのは奈良時代ですが、今の抹茶に近いものは、鎌倉幕府成立前後に臨済宗の開祖栄西によって伝えられました。
やがて武士や裕福な町人の間で「茶の湯」が流行しました。
一椀の茶を飲み、中国から輸入された高価な茶道具や仏画を鑑賞するという、華やかな会でした。その後、大徳寺の一休の弟子の村田珠光は、「茶の湯」に禅の思想や能や連歌をとり入れました。きらびやかさとは一線を画して、将軍足利義政の庇護のもと、精神的に深い茶の湯を目指したのです。
その志を継いだのが、堺の豪商で教養人の武野紹鴎です。
紹鴎は「侘び茶」を唱えて茶の湯をより一層質素にし、彼や門人達によって茶道が形成されていきました。
茶道を大成させた千利休
紹鴎の門人であり同志であったのが、千利休です。
利休も堺の豪商出身でした。利休は茶の道に励みながら、茶道具の工夫にも力を注ぎました。中国や朝鮮のものだけでなく、国産の茶道具も開発したのです。
茶の手前や道具に、そぎ落とされた美を追求し、茶道を大成させていきました。
出典:Wikipedia
やがて信長の茶道指南役となり、「本能寺の変」以降は豊臣秀吉に仕え、茶の湯をより一層普及させていきました。
秀吉は利休を重用し、度々茶会を催したり、利休好みの茶室を作らせるなど、よきパトロンでした。しかし、次第に利休を疎んじるようになり、ついには利休を切腹させてしまいます。
その理由には諸説がありますが、はっきりしたことは謎となっています。
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茶道の代表的な三流派
利休の死後、家康などのとりなしによって、利休の婿養子の少庵による千家再興が許されました。そして、利休の意志を継いで茶道をさらに確立させていったのが、少庵の子の宗旦でした。宗旦の息子達の中から三千家が興り、今日に至っています。
表千家
おもてせんけ
宗旦の長男が勘当され、次男は他家の養子になっていたので、千家の当主となったのは三男の宗左でした。
少庵が再建した利休の茶室「不審菴」 は、宗旦の隠居に際して宗左に受け継がれました。
不審菴が表通りに面しており、その裏の宗旦隠居所が分家になったため、宗左直系の千家を「表千家」と呼ぶようになりました。
表千家は三千家の本家筋に当たります。
宗左以降、幕末まで紀州徳川家の茶道指南役を代々勤めました。
現在京都市上京区にある表千家の門は、幕末に紀州徳川家から拝領したものです。武家的な堂々とした門構えは、徳川御三家の茶道指南役としての風格を見せています。
裏千家
うらせんけ
宗旦は、隠居する際に不審菴の裏に「今日庵」という茶室を建て、四男宗室と暮らしました。
宗室が今日庵を受け継いで興した分家が「裏千家」です。
裏千家は大名への茶道指南も行っていましたが、代々市中の町人に精力的に茶を広めてきました。宗旦が市井の茶人として生涯を送ったので、その姿勢が宗室以降も受け継がれたのでしょう。
利休が切腹を命じられて果てたこともあり、宗旦は敢えて権力と交わることを避けたと言われています。
表千家が本家の格式でオーソドックスに茶道を守ってきたのに対し、裏千家は、カルチャースクールや学校茶道、海外普及など、茶道の裾野を広げる活動を積極的に行ってきました。
裏千家の門は、草庵を思わせる檜皮葺です。隣接する表千家の武家風の格式高い門とは対照的な、風雅な趣です。
武者小路千家
むしゃこうじせんけ
宗旦の次男宗守によって興されました。
宗守は長兄宗拙同様、宗旦の先妻の子で、早くに家を出ていました。しかし、後年千家に戻り、武者小路通りに「官休庵」という茶室を建てて茶人になり、武者小路千家として分家しました。
その際には、千家の兄弟達の勧めがあったと言われています。以降、讃岐国高松藩の指南役を代々務めました。
三千家の中では流派としての規模は小さいものの、講演や雑誌記事などで、わかりやすい言葉による茶道の啓蒙活動を続けています。武者小路千家は現在の京都市上京区に位置し、表千家と裏千家からもすぐ近くで、京町屋風の趣ある佇まいをみせています。
流派による違い
※先生によって異なる箇所もございます。“違い”としてご覧ください。
抹茶の立て方
三千家の間には、お茶の点て方に違いがあり、見た目でも区別がつきます。
表千家のお茶は、泡のない部分が半月状に残っています。裏千家のお茶は、表面全体が細かい泡で覆われています。武者小路千家も、あまり泡がでないように点てます。
茶筌の使い方は、表千家は、腕全体を使って茶筌をゆるやかに動かしてから、半月の状の泡のない部分が残るように回して抜きます。裏千家では、まず茶碗の底の部分、そして中程部分で早く茶筌を振って泡をたくさん出し、最後に表面を軽く振って泡を細かくふんわりさせます。武者小路千家では、茶碗を少し傾け、空気が入らないように茶筌を丸く回します。
茶筌[ちゃせん]
どの流派でも基本的には同じような茶道具を使いますが、細かな特色の違いはみられます。茶筌の違いもその一つです。
表千家で使用する茶筌は煤竹でできています。煤竹とは、古民家の屋根に使われてきた竹を材料にしたもので、長年囲炉裏の煙で燻され、独特の風合いを持ちますが、近年は貴重なものとなっています。 裏千家は、特別な場合以外は、正式なお茶事でも白竹の茶筌を使います。武者小路千家は、紫竹と呼ばれる黒っぽい竹でできた茶筌を用います。また、茶筌の形にも、流派によっての若干の違いがみられます。
袱紗[ふくさ]
お茶の袱紗には、手前で茶器や茶杓を拭き清めるのに使う「使い袱紗」と、濃茶茶碗を乗せるためなどに使う「出し袱紗」があります。
男性の「使い袱紗」は紫。女性は、表千家と武者小路千家では朱、裏千家では赤が正式です。しかし、お稽古のときは、違う色のものや、グラデーションやワンポイント模様の入ったものでも良しとされることがあり、稽古をつけてもらう先生に相談するといいでしょう。
一方、「出し袱紗」は、表千家と武者小路千家では、「使い袱紗」と同じ大きさですが、裏千家では、「古帛紗」と呼ばれる小振りのものを使います。
所作
手前の順番を始め、立ち方、座りかた、お辞儀、襖の開け締め、客としてのお茶やお菓子のいただき方などなど、茶道の所作には様々な決まりがあり、流派による違いがみられます。
例えば、袱紗のさばき方では、裏千家は、動作がやや多くメリハリもあるのに対し、表千家と武者小路千家は、さりげない流れでさばきます。しかし、三家とも、全体的な流れは概ね同じです。
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歩き方
茶道では、畳の上での歩みの進め方に決まりがあります。
席入りの際、表千家は左足から、裏千家は右足から茶室に入ります。武者小路千家は、柱付きの側の足から入る決まりなので、右足か左足かは茶室の造りによって変わります。また、表千家と武者小路千家は畳一帖を6歩で、裏千家は5歩で歩きます。
正座
表千家と裏千家は、男女共に膝と膝の間を若干広げて座ります。
女性はこぶし一つ分。男性はそれよりもやや広めで、表千家は膝が安定する間隔、裏千家はこぶし二つ分が目安です。武者小路千家では、膝をあまり広げず、男性は拳一つ分、女性はぴったりくっつけて座ります。
三流派とも、亭主は手を両膝に離して置き、客は手を重ねて置きます。表千家には重ね方に決まりはなく、裏千家は右手が上、武者小路千家は左手が上になるように重ねます。
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まとめ
表千家、裏千家、武者小路千家は、もともと家族でした。
三人の兄弟が曾祖の父千利休の意志を継ぎ、続く世代が茶道を発展させてきました。
三千家の間には、所作や普及の仕方などに三者三様の特色がありますが、現在も親戚としての関係を保ち続け、協力し合いながら共通の流祖である千利休の教えを次世代に繋いでいます。
流派の違いこだわらず、是非、茶道を体験してみてください。
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