【講談】講談とは?はじまりの歴史から話芸に道具について魅力を徹底解説!
この記事の目次
講談の歴史
講談のはじまり
元禄の頃(1688年〜1704年)、赤松清左衛門が浅草見附(両国橋の近くの盛り場)で『太平記』を講じたのが、講談のはじまりといわれています。
以来、それを真似て浪人や僧侶、学者といった知識人達が盛り場に出て、色々な読物を講釈しました。その読物の中には、軍記物が多く、合戦の場面では抑揚をつけて面白く聞かせる工夫がされていきました。
人気講談師の登場
宝暦の頃(1751年〜64年)には、2人の講談師が人気を博しました。
1人目は、深井志道軒です。志道軒は、浅草に簡易な小屋を建て、松茸の形をした木の棒で拍子をとりながら、自身の若き日の冒険の話をし、それが奇想天外で面白く、人気者になりました。
2人目は、実録物の話で活躍した馬場文耕です。文耕は、実際に起こった事件の話を作って語る、今日の新聞記者のような役割を担っていましたが、「金森騒動」という実際に起こった事件を取材し、講談として演じたうえに事件を記した小冊子を発行したため、奉行所に捕らわれ死刑となってしまいました。
また、寄席(講釈場)に行灯で看板を出したのも、馬場文耕が最初です。
講談中興の祖
馬場文耕の弟子だった初代 森川馬谷は、軍談、御記録物、世話物の三部構成で講談を聞かせ、後世に続く講談の上演の基本を作りました。
さらに、幕末から明治に活躍した二代目松林伯円は、多くの新作講談を作り、講談中興の祖と呼ばれました。
明治〜現在まで
明治28(1887)年には、400人近くの講談師が居ましたが、浪曲や映画の登場で娯楽が多様化したうえに、関東大震災で多くの寄席が倒壊したことから、廃業をしたり地方に行く講談師が多くいました。
昭和3(1928)年には、講談の寄席は10軒、講談師は70人となり、戦後残った講談の寄席は、上野にある本牧亭一軒だけとなってしまいました(2011年閉場)。
しかし、絶体絶命の低迷期でも、人気者の講談師が生まれ、講談は現代まで受け継がれており、東西合わせて約90人の講談師が活躍しています。
講談の芸
講談とは
講談は、釈台と呼ばれる小机を、張扇と呼ばれる自家製の小さな棒でパンパンと叩いて拍子をとりながら、物語を読んで語る芸です。
これは、昔の本は「文語」といって、難しい言葉や漢文を日本風の読み方で綴られたもので書かれていたため、一般の人達には内容が分かりづらかったのです。
なので、講談師がそれを分かりやすく、そして面白く解説して聞かせていました。
講談で使う道具
釈台[しゃくだい]
釈台は、寄席などで準備されているところ以外は、講談師がそれぞれ自分のものを使用します。また釈台には、サイズや素材に関しての明確な決まりがありません。なので、それぞれの講談師が自らが使う張扇との相性などで釈台を新調します。
[補足]「伝説の釈台」と呼ばれるものがいくつか存在し、かつて本牧亭にあり、現在は一龍斎貞水(いちりゅうさいていすい)が所有されている釈台が、そのひとつと言われています。
張扇[はりおうぎ]
張扇も釈台と同じく講談師が自ら作成します。スタンダードな張扇の作り方は、昔の講釈師の張扇が残っていないので、それぞれの流派によって伝承され、それに基づき作成します。主な材料としては、竹の板、障子紙用の糊、和紙、そしてボール紙を使用します。サイズ、色ともに基本は自由です。さらに講談師が使った張扇は、毎年12月28日に薬研堀不動尊で行われる「張扇供用」で焼いて、1年使った張扇を弔います。
講談の演目
講談には「連続物」と一席で話が完結する「一席物」があります。
連続物には、『慶安太平記』『畔倉重四郎』などがあり、複数話にわたり物語が連続していき、10日間ずつ興行される寄席で読まれることが多いです。
一席物の主な演目としては、「金襖」といわれる政談、「世話」といわれる一般庶民の人情あふれる話や「怪談」「侠客」「武芸(武芸者の話)」「白浪(泥棒の話)」などがあります。
[補足]講談の演目は「読み物」というのが、正式な言い方です。もともと講談師は「天下の記録読み」と呼ばれ、偉人などの物語を町民に読んでいたので、その名残りで「読み物」という言い方を今でも好む講談師が多いです。
わつなぎオススメ記事 >>【講談】悪者にも心惹かれる?!息を飲む芸!講談の演目を解説[11演目]
まとめ
ここからが益々面白くなるのですが、丁度お時間となりました。この続きはまた次回。
と、連続物は話を切ります。それも見せ場のひとつといわれています。
ぜひ、講談話芸を体感してみてください。