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【元禄文化】上方で町人中心に華やかに栄えた文化!代表的な人物と作品[簡単説明]

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「元禄文化」とは

元禄期(1688~1704)前後に、主に上方で栄えた文化のことです。

特徴

富裕層の町人を中心としていたことから「華やかさ」、そして武士や貴族ではない町人層を対象とした文学作品や浮世絵の出現から「庶民性」と捉えられています。
この後に起こる化政文化と対応させて西の元禄文化・東の化政文化といわれています。

時代背景

世は江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時代。諸説ありますが、元禄3(1690)年頃の人口は、江戸・京都で40万人 大阪は20万人くらいと推定されています。その後、江戸中~後期にかけて徐々に増えていき江戸は100万都市になったという記述も当時の書物に見られます。

人口増加と、新興成金の台頭により都市は活気を帯び、工業や商業の技術も発達し、流通経済の基盤も作られて行きました。また、一般町人の中に余裕を持つ層が生まれ、寺子屋教育によって読み書きのできる庶民も増えました。

元禄文化の主な担い手

俳諧の松尾芭蕉、浮世草紙の井原西鶴、人形浄瑠璃の近松門左衛門、歌舞伎の市川團十郎、浮世絵の菱川師宣、絵師の尾形光琳などが各分野でほぼ同時期に活躍しました。

井原西鶴と松尾芭蕉は2歳違い、師宣は西鶴よりも10歳年下、光琳と近松はさらに10歳年下で、近松と市川團十郎は4歳違いです。まさしく彼らは時を共にしていたのです。


松尾芭蕉[俳諧]

[まつおばしょう]


出典:Wikipedia 旅姿の松尾芭蕉と河合曾良(1693年)

1644年、伊賀国下野で下級武士・松尾家の次男として生まれました。父を早くに亡くし、藤堂良忠とうどうよしただに仕えながら俳諧はいかいを学び、京都で北村季吟きたむらきぎんに師事しました。

藤堂良忠の死後、芭蕉は30歳で江戸深川の芭蕉庵ばしょうあんに住まいを移します。俳諧の西山宗因にしやまそういんにも師事し、西山宗因率いる談林俳諧だんりんはいかい(江戸時代の俳諧流派)の宗匠そうしょう(師匠)となります。その後、衰退とともに蕉風俳諧しょうふうはいかいを確立しました。

芭蕉の俳風

蕉風俳諧しょうふうはいかいは、正風俳諧しょうふうはいかいとも書かれ、特徴は、わび、さび、かるみを重んじ、不易流行ふえきりゅうこうを説かれています。「不易」変わらないことと「流行」は対立するものではなく、変化のなかで変わらないこともある。それを追求していくのが真の俳諧の姿である。

“夏草やつわものどもが夢のあと”

平泉の建物は夏草が生えて今も残っているが、それを取り巻く人々は変化する。しかし平泉をみてそこでほろんだ武士たちを思う気持ちは時代を超えて変わらない。

“閑けさや岩にしみいる蝉の声”

セミが鳴いているのに静かとはどういうこと?となりますがセミが鳴いていることと、それ以外の世界の静かさは別のものという解釈です。ちなみにこの鳴いている蝉はニイニイゼミ説が高いそうです。

平たく言うと、ある風景を見て別の事象の妄想にふけり、それを品のある文章で残す。ということだと解釈しています。

『おくの細道』

芭蕉46歳の時 弟子の河合曾良かわいそらとともに、江戸から仙台・仙台から日本海側に入り、日本海沿いに大垣までの旅を綴った旅行記・句集です。
冒頭文「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」は有名な一説ですね。時は永遠の旅人という意味です。

芭蕉の謎

旅の行程のなかに、46歳ではとても不可能ではないかという距離の移動がある。
仙台まで行ったとされているのに当時から名所であった松島に立ち寄っていない。
武士の志を捨てない清貧の旅だったといわれていますが、その資金源が不明である。

以上のことから、実際は旅行していない説や平泉より北に行ってないことを唱える研究者もいます。また、出身から幕府の隠密説や忍者説など多くの謎を残しています。

松尾芭蕉 VS 井原西鶴

2歳違いの松尾芭蕉と井原西鶴いはらさいかくですが、「近年の句を見ると漢文に仮名を入れたり和歌に漢文を入れたり、西鶴のような下品な文章になっている 我々の俳諧はそのようにならないように」と西鶴のことをけなしています。また、西鶴は芭蕉の句を「あれは発句ではなく連歌だ」と記しています。


井原西鶴[浮世草紙]

[いはらさいかく]


出典:Wikipedia 井原西鶴像(生國魂神社)

寛永19(1621)年生まれ大坂の商家の家にうまれ、15歳から俳諧はいかいの道を志し、当時大坂で隆盛を誇っていた西山宗因にしやまそういんに師事しました。

34才で妻をなくし、それを機に店をたたんで俳諧師はいかいしとなります。俳諧師となった5年後、25000句の記録を打ち立て2万翁と呼ばれましたが、これ以降の大矢数の興行はありません。

大矢数おおやかずで活躍した後、デビュー小説『好色一代男こうしょくいちだいおとこ』で人気作家となり、武家物。町人物とジャンルを広げ、「浮世草子」のジャンルを開拓しました。

『好色一代男』

7歳で女性を覚えた商家の放蕩ほうとう息子・世之介よのすけの一代記。
章立てと構成を『源氏物語』をモデルとしています。くるわの女を買い取ることに夢中になり、女だらけの島・女護にょごが島へと向かいます。

大きく分けて、世之介が店を出されて江戸に行って廓を身請けしようとする前半と、放蕩の末に生家に戻った挙句、店を売ったお金で遊び歩き、女だらけの島へと闘争の旅に出る後半に分けられます。

このような廓を主な舞台とした大衆小説はこれ以前にはありませんでした。

『日本永代蔵』

当時の商人の盛衰を描いた全6巻30話の短編集です。「現金掛け値なし」の三井呉服店のほか実在した店をモデルとした話も多くみられます。

話の中に、“倹約を大切にしなさい” “ただまじめなだけでは商売は繁盛しない” “2・3代目は店を食いつぶすことが多い”といった商売の心得を示した記述があることから現在は、ビジネス書としても読まれる一面もあります。


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近松門左衛門[人形浄瑠璃]

[ちかまつもんざえもん]


出典:Wikipedia 近松門左衛門(自画像)

承応2(1653)年に越前の国に生まれました。本名、杉森信盛すぎもり のぶもり。父は杉森信義で藩の下級武士の家系でした。
父が浪人の身になったことから京都へと移り、後水尾ごみずのお天皇の弟の一条恵観えかんほか、何人かの公家に仕えことで文学的な素養を身につけました。
京都に立ち上げられた浄瑠璃の宇治座の創設者、宇治加賀掾うじかがのじょうのもとで修業を始め、そこで浄瑠璃作家としてデビューします。

貞享2(1685)年、初めて竹本義太夫たけもとぎだゆうと組んだ人形浄瑠璃「出世景清しゅっせかげきよ」の上演で人気を得ました。同時期に、師匠の宇治加賀掾は、井原西鶴が脚本した作品を上演し、人気の軍配は近松に上がりました。

歌舞伎では坂田藤十郎と組んで「国姓爺合戦こくせんやかっせん」など歌舞伎作品を書きます。
それまで歌舞伎は役者が主で、作者は影の存在でしたが作者の存在を格上げしたのが近松でした。浄瑠璃でも同じように作者の地位を上げ、先に作品を読んでから劇場へ向かう習慣ができました。

『曽根崎心中』

元禄16(1703)年に醤油屋平野屋の手代徳兵衛と遊女おはつが大坂の曽根崎の森で心中をしました。実際に起きた事件を、すぐに近松は浄瑠璃作品として描き大ヒットしました。

醤油屋平野屋の手代徳兵衛は、遊女おはつと恋に落ちます。しかし、平野屋の主人は、別の人との縁談を進め、徳兵衛は結婚します。
徳兵衛は貯めたお金を友人に貸しますが、そのお金を返してもらえないどころか、金銭トラブルに見舞われる。
徳兵衛は、自分の潔白を証明するためと、おはつとの恋を成就させたくて心中を決行します。

幕府の禁令

近松門左衛門が残した約100の浄瑠璃作品のうち21作品を世話物、他を時代物といい2つに分類されています。

主に心中を題材とした世話物は、町人の日常で起こった事件を題材としていたことから多くの共感を呼びました。しかし、真似をする人が出ないように幕府から禁令が出ました。


市川團十郎[歌舞伎]

[いちかわだんじゅうろう]


出典:Wikipedia 初代市川團十郎による『象引』の山上源内左衛門(3代目歌川豊国画)

万治元(1660)年に江戸生まれました。(父重蔵は甲州の出身であることから市川家の発祥の地は甲州になっています)
元禄期に人気を博した歌舞伎役者で、屋号は成田屋。俳名は才牛さいぎゅう

14歳のときに初代市川海老蔵を名乗って、中村座の『四天王稚立』でデビューしました。このとき、坂田金時役を演じました。全身を赤く塗り、紅と墨で顔に隈を取り、荒い格子の衣裳に丸ぐけの帯といういでたちで、大太刀をかついで斧を提げて豪快に立ち回りました。

これが市川家得意の芸・荒事の始まりといわれています。

成田不動の霊験記を自作して演じたこと、両親が子供を成田山に願ったら授かったことから「成田屋」と称し、成田山新勝寺とは今も縁が深く、市川家の発祥も千葉としています。

元禄年に京都へと上京し椎本才麿しいのもとさいまろに入門し、俳諧を始め「才牛」という俳名を与えられました。また三井屋という名で浄瑠璃作品も書いていましたが、気風が合わなかったのか京都の滞在は一年でした。

44歳の時、役者の生島半六に舞台上演中に刺殺され命を落とすというセンセーショナルな最期となりました。

『暫(しばらく)』

市川家の代表的演目で、初演は1697年の初代団十郎といわれています。『参会名護屋さんかいなごや』の一幕です。

悪役の清原武衡きよはらのたけひらが、家来を使って人々を切ろうとします。そこへ、主役の鎌倉権五郎かまくらごんごろうが登場し、人々の命を助けるというストーリーです。

「しばらく」「しばらく」と悪を追い払う仕草で登場し、花道で「つらね」とよぶ祝言的な長台詞ながぜりふを述べ登場し、角前髪すみまえがみのかつらに紅の筋隈すじくま、柿色の長素袍ながすおう大太刀おおたちという扮装ふんそうをします。

そのほか悪役や家来役の化粧が決まっているのが荒事歌舞伎の特徴です。


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尾形光琳[装飾画]

[おがたこうりん]

万治元(1658)年、京の裕福な呉服商の雁金かりがね家に生まれ、呉服の反物に囲まれて育ちました。

光琳の浪費と店のお得意様だった東福門院の死とともに店の経営は悪化し、光琳が絵師として京の裕福な豪商を相手に作品を描くことで生活を成り立たせていました。

弟は陶芸家の尾形乾山で、光琳が絵を担当した共同制作の作品も数多く残されています。

絵画の一流派「琳派」は、俵屋宗達によりはじまり、光琳により発展させました。

『燕子花図屏風』

[六曲一双(ろっきょくいっそう)] 


出典:Wikipedia 『燕子花図』(左隻)


出典:Wikipedia 『燕子花図』(右隻)

金箔を張った下地に、青みがかった紫色の燕子花きつばた左隻させきから右隻うせきへと流れるように配置され、『源氏物語』の八つ橋の段をモチーフにした作品です。

左隻の第1・2扇の花群と、第2・3扇の花群、右隻の右から第1・2扇の花群と、第4・5扇の花群で同じ型紙を使用してます。型紙を使って文様を作る反物づくりのアイデアを絵に応用したのです。屏風が大きいので歩いて確認するようですが、場所さえわかれば肉眼で確認できます。

また、構図に加えて橋が描かれた「八つ橋図」という燕子花の横に橋の描かれた別バージョンの作品もあり、比べてみると「燕子花図屏風」のすっきりとした良さがわかります。

『紅白梅図屏風』

[二曲一双(にきょくいっそう)] 


出典:Wikipedia 『紅梅白梅図屏風』(尾形光琳)

光琳の晩年の作品です。
屏風の空間に2本の梅を左右に描き、中央に黒で描かれた川という斬新な構図ですが、配置のバランスが絶妙です。
光琳の描く5枚の花びらの梅は、光琳梅といわれ文様としても使われています。
川は銀泊地に水分をマスキングさせ、硫化水素に変化させて黒色にするというまれな作例と最近の科学調査で判明しています。

※屏風の一面をせんといい、折れ曲がった形状をきょくといいます。また、一つの作品として屏風を数える時はせきと数え、左右で対になった屏風をそうと数えます。『燕子花図』は、六つ折りの屏風が対になっているため「六曲一双」といい、『紅梅白梅図屏風』は、二つ折りの屏風が対になっているため「二曲一双」といいます。


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菱川師宣[浮世絵]

[ひしかわ もろのぶ]

安房国保田(千葉県)に縫箔刺繍業を営む菱川吉左エ門の家に生まれました。母は医師の家系。生年ははっきりわかっていませんが1630年ごろといわれています。

小さいころから絵が好きで、父の刺繍作品を見ながら育ち狩野派などを学びました。物語の挿絵となる版木の制作をしていて、差し絵の多い版本をつくることで人気を得ていました。西鶴の『好色一代女』の江戸初版も菱川師宣が絵を担当しています。

師宣は、当時、一枚の掛け軸に美人を一人描くという形式が流行し定着させました。また、版木で印刷した一枚物の浮世絵の様式を確立したことから美人画の祖と呼ばれています。

元禄文化は派手・化政文化は地味というくくりですが、浮世絵に関しては師宣が素地を作り進化していきました。

『見返り美人図』


出典:Wikipedia 菱川師宣『見返り美人図』

切手や便せんなどのデザインでは、女性部分だけがピックアップされることが多いですが、実は掛け軸に描かれ上は余白部分があります。掛け軸のやや下のほうに女性が描かれていて、実物を見ると女性は意外と小さいです。

描かれている女性の着物は、赤地に桜の丸い模様と菊の模様の入った綿入りの着物を着ており、この文様は当時流行していました。
帯は吉弥結びで、化政期ごろまで流行押した庶民の娘が幅広の帯を大きその先駆けとなった結び方です。


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まとめ

彼らの多くが、身分は低いのにその生い立ちのどこかで文化的な素養がある中で育っています。
そして商いがうまくいかなくなり、士官の道を閉ざされたりして、もともと持ち合わせていた才能で生きていく道を選んでいきます。

時代の流れで都市や社会が発達し、彼らの才能を開花させる経済的余裕がすでにできていたことを示しています。

江戸時代の文化・芸術を栄えさせたのは、士農工商の下の身分である工商の人たち、都市に住む町人たちだったと思います。


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ライター紹介 ライター一覧

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小さいころから歴史好きで、大学では日本美術・江戸文学を学び、歴史系の学芸員の資格を取りました。

40代の主婦ですのでかれこれ四半世紀前のことになりますが、研修旅行では、おいしいものもろくろく食べず京都の寺社を東奔西走していました。博物館や美術館にもレポートなどでよく行きました。

現在は子育てや体調もあり、実物を見る機会はめっきり減りました。それでも、家にある図録などから縄文式土器のパワーに惹かれ、仏像の美しさに見入り、焼き物や工芸品の匠の技に感心し、庶民の力が花開いた町人の世界に思いをめぐらせ・・と、江戸文化や美術をできる範囲で楽しんでいます。

作品から当時の人々の息遣いを感じることができると、歴史を楽しむ醍醐味がわかります。そのお手伝いができたらいいなと思います。

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