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【嘉納治五郎】柔道・日本の体育の父!嘉納治五郎が生涯かけて切り拓いた道

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嘉納治五郎とは

嘉納治五郎は「柔道の父」「日本体育の父」と称される教育者です。

嘉納は、柔道の発展のため、そして日本の体育発展のためにさまざまな取り組みを行い、日本のスポーツ界に甚大な影響をもたらしました。

1860年に現在の兵庫県神戸市で産声を上げた男児が嘉納伸之助、後の嘉納治五郎です。治五郎の実家は地元屈指の名家。実父の治郎作は廻船業を行うと同時に幕府の廻船方御用達を務め、あの勝海舟のパトロンにもなった人物だといいます。明治時代を迎えると、治五郎は時の政府に招聘された父に同行して東京へ向かい、書道と英語を学びました。

治五郎は生涯13回の海外渡航を経験していますが、彼は英語、ドイツ語、フランス語を自在に操ったと言われ、渡航するたびに彼のその語学力は高く評価されたそうです。その高い語学力をもって柔道を広く海外に紹介し、また東洋人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員として、日本のオリンピック参加を実現するなどの偉業を成し遂げています。

教育者としての治五郎は、現筑波大学や現熊本大学の校長を歴任、日本女子大学や英語学校「弘文館」を創立、文部参事官に就任するなど幅広く活躍しました。

日本をオリンピックという世界の舞台に導いた治五郎の最期は突然訪れました。カイロで行われたIOC総会に参加した後、帰路に就く治五郎を病が襲い、肺炎をこじらせ、1838年5月4日、横浜到着の2日前に船内で息を引き取りました。治五郎の遺体は氷詰にして持ち帰られ、船から降ろされた棺にはオリンピック旗がかけられていたそうです。

治五郎の没後、彼の生前の功績に対し勲一等旭日大綬章が授けられ、多くの人が彼の功績を讃えました。


講道館柔道の創始者

数ある治五郎の功績の中でも、講道館柔道を創始したことは日本体育そして世界のスポーツを発展に大きく寄与しました。治五郎は日本古来の柔術に研究と創意を加えて近代化し、「柔道」という新しいスポーツを編み出しました。

治五郎は東京大学在学中から生来の虚弱非力を克服し、自らの意志を鍛錬する手段として古流柔術に注目しました。柔術の教育的価値を痛感した治五郎は、より多くの人がこれによって心身を鍛えることができるよう、柔術の抜本的な合理化と体系化に取り組みました。

1881年に東京大学を卒業した治五郎は、その翌年、台東区東上野に今なおその姿を残している浄土宗寺院「永昌寺」の一部を「講道館」と名付け、畳12畳の居間と7畳の書院から成る道場から柔道の普及を始めました。治五郎はこの時、柔道の普及を終生の事業とする決意を抱いたといいます。

治五郎は柔道の本義、「心身の力を最も善く使用する道」(精力善用)と「己を完成し、世を補益すること」(自他共栄)とし、彼のこの考えは現在に至るまで、柔道のみならずスポーツ発展の理念として受け継がれています。

柔道は第二次世界大戦後に国際的なスポーツへと発展し、現在ではオリンピックの正式競技種目の一つとなり、さまざまな国を代表するアスリート達が世界の舞台で技を競い合っていることはご承知の通りです。


日本の体育

教育者として数々の教育機関の創設に携わり、また教頭や校長という要職を歴任した治五郎は、優れた人間性を培うためには、机上の学問だけではなく、スポーツが欠かせないと考えるようになりました。

体育の教育的価値を見いだした治五郎は、日本でのスポーツ振興のため、世界的なスポーツの祭典であるオリンピックに着目し、東洋人として初のIOC委員に就任しました。治五郎はIOC委員就任から3年が経過した1912年に、日本人選手のオリンピック参加を実現させ、自らも団長としてストックホルム・オリンピック競技場の土を踏みました。

さらに治五郎は、アマチュアスポーツの統括機関として大日本体育協会(現在の日本体育協会)を設立し、初代会長に就任しました。治五郎は日本のオリンピック参加を実現させただけでなく、「体育・スポーツによる人間教育」、「学校体育の充実」、「国民体育の振興」、「スポーツの国際交流」など、さまざまなイニシアティブで日本のスポーツの礎を築きました。

日本体育協会創立の趣意書の中で、治五郎は次のように国民の体育の普及振興の重要性を訴えています。

「我が国の体育の振興体制は、欧米諸国に比べ著しく劣っており、必然的に青少年の体格も劣弱の状況である。そのため、一大機関を組織し、体系的に国民の体育の振興を図ることが急務である。」

治五郎のこの熱い想いが、日本におけるスポーツの道を開いたことは言うまでもありません。


オリンピック参加・招致

前述の通り、日本のオリンピック参加は、1912年に開催された第5回ストックホルム大会に始まります。

治五郎がアジア人初のIOC委員に選出されたのは当時、IOC会長であったフランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵の呼びかけによるものでした。

クーベルタン男爵はオリンピックの復活とIOCの創設に尽力した人物で、大会をより国際的なものにしたいとの思いから、オーギュスト・ジェラール駐日フランス大使にIOC日本代表委員の推薦を依頼。スポーツに造詣が深く語学が堪能といった理由などから治五郎に白羽の矢が立ちました。

治五郎は、1911年7月にオリンピック選手派遣の母体として大日本体育協会を設置し、同年11月には羽田でオリンピックの陸上競技予選会を開催。この予選会で金栗四三と三島弥彦という二人の若者が、オリンピックという世界の檜舞台に立つチャンスを手に入れました。

2020年に東京が夏季オリンピックをホストするのは、アジア地域で初めて開催された1964年の第18回大会に続いて2度目となります。しかし、東京がオリンピックの開催地として選出されたのは、実は3度目だということをご存知でしょうか。

治五郎をはじめとする日本の体育関係者たちは、IOCに対して、それまで欧米でしか開催されていなかったオリンピックをアジアで開くことで、オリンピックが真に世界的な文化になると説得。ついに1940年に開催が予定されていた夏季オリンピックの東京招致を成功させました。

オリンピックの東京招致に奔走した治五郎でしたが1938年に他界。その生涯に幕を閉じる瞬間まで、東京オリンピックの実現を気にかけていたといいます。

しかし治五郎が亡くなった2ヶ月後、日本のスポーツ界を衝撃が襲いました。日中戦争の激化に伴い、日本政府がオリンピックの開催権を返上してしまい、これにより治五郎らの東京オリンピック開催の夢は散ってしまいました。この大会は、今なお「幻のオリンピック」と称されています。


まとめ

2020年の東京オリンピック開催にあたり、嘉納治五郎が身を粉にして柔道、そして日本のスポーツ界を国際ステージへと導いたことを思い起こして欲しいと思います。

治五郎の思いを胸に、多くの選手達が輝くことを切に祈っています。

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