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【川中島の戦い】15年5度にわたる信濃の覇権争い!上杉謙信と武田信玄[簡単解説]

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越後の龍・上杉謙信

[うえすぎけんしん]


出典:Wikipedia

上杉謙信は、1530(享禄3)年1月21日、越後守護代・長尾ながお為景ためかげの次男として、越後・春日山城(新潟県上越市)で生まれました。
謙信の虎千代という幼名は、この年が庚寅だったことからつけられています。

謙信が生まれたころの越後はまさに混乱の極みにありました。
実家の長尾家はもとは東国の豪族で鎌倉時代以来、上杉家の筆頭家老を務める家柄でしたが、為景が、国政をかえりみない越後守護上杉房能ふさよしを自刃させ、その養子・定実さだざねを守護において、実質的な越後の支配をしていました。

1536(天文5)年、為景が亡くなると、虎千代の兄・晴景はるかげが家督を相続しますが、病気がちであったため、上杉定実さだざねが実権を取り戻そうと画策。そのために越後国内でも定実派と晴景派の対立が発生しました。
13歳になった虎千代は元服し、栃尾城に入りましたが、1548(天文17)年、兄に代わって越後守護代に就任。国内の定実派を退け、ようやく越後が統一されました。

やがて、「越後を統一した若き国主」として名が知られはじめていた謙信を頼る人物も現れました。
当時の関東管領・上杉憲政のりまさです。従来、室町幕府体制に対する尊敬の念が強く義侠心に富んだ景虎は憲政を庇護しました。この後もさらに多くの敗者が謙信を頼りに救いを求めてやってきます。

1552(天文21)年には信濃守護・小笠原長時が、翌1553(天文22)年には北信濃最強の豪族・村上義清が、武田信玄に奪われた本拠地奪還の助力を求めて越後に逃げ込んできました。謙信は要請にこたえて北信濃に出兵。武田軍を敗走させ、村上氏の本拠地・葛尾城と北信濃一帯を奪回します。ところが、体制を立て直した武田軍が再び北信濃に進行し、両軍は長野盆地を東西に流れる犀川と千曲川の合流地点にある三角州・川中島で対峙しました。

甲斐の虎・武田信玄

[たけだしんげん]


出典:Wikipedia

甲斐武田氏は遡ること平安時代、源八幡太郎義家の弟・新羅三郎義光しんらさぶろうよしみつであった義清が武田氏を名乗ったことから始まりました。
そのため、甲斐武田家には源氏の象徴といわれる白旗と楯無鎧たてなしよろいが継承されています。武田信玄は、1521(大永元年)年、武田氏の山城があった要害山で甲斐(山梨県)の守護、武田信虎の長子として生を受けました。

信玄が生まれた十六世紀、世は戦国時代の真っただ中でした。
京都の室町幕府の権威が衰え、各地で戦国大名が領土の奪い合いを繰り返していました。このころ、父・信虎は自ら軍を率いて戦い、甲斐一国を平定。甲斐武田氏繁栄の基礎を作り上げました。さらに信濃への攻略を進めていましたが、国内の情勢を顧みることなく戦に明け暮れ、家臣に理不尽な成敗を加える専制的な暴君だったため、領内の信望を急速に失ってしまっていました。
そこで信玄は、1541(天文10)年、父親を追放して武田氏を継ぎ、甲斐国守護となります。
領地のさらなる拡大を画策する信玄は周辺諸国を次々と平定。一方で三方ヶ原で徳川家康を破り甲州金で知られる金山開発、信玄堤で有名な治水事業などを行い、領国内の富国強兵に努めました。また「甲州法度之次第」を制定し、領内の武士たちの統制も行いました。

1548(天文17)年、信玄は北信濃に侵攻し、同地の有力豪族であった村上義清と上田原(長野県上田市)で決戦しました。この戦いは武田軍の有力家臣である板垣信方、甘利虎泰を揃って失うという、信玄にとって生涯初の大敗北でした。それでも信濃平定に執念を燃やす信玄は、1553(天文22)年、ついに義清の本拠地・葛尾城を攻略します。ところが、葛尾城を失った義清は越後の上杉謙信(長尾景虎)を頼って逃亡。
「隣国のこととはいえ、不義は許さない」と立ち上がった謙信が北信濃に出兵してきたのです。ここに、終生のライバルであった両雄は初めて対峙します。

川中島の戦い


出典:Wikipedia
故人春亭画 応需広重模写「信州川中嶋合戦之図」

信濃国北部には長野盆地があります。この盆地の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地は、古くから川中島と呼ばれていました。川中島は、その地形的特徴から古来より、軍事・交通の要地として知られていました。十数年の長きにわたって行われた北信濃を巡る戦いは、まさにこの地を舞台にして行われたのです。

上杉謙信・武田信玄という両雄がこの地で最初に激突したのは1553(天文22)年のことです。
まず、謙信が信玄に書を送って決戦の意志を伝えています。「われらが信濃へ進むのは自身の欲望のためではなく、村上・小笠原両氏に貴公が奪った旧領を返さんと望むからである。これに同意なくば潔く一戦を交えられよ」と。
これに対して信玄もすぐに返書を出しています。「志はもっともながら、術をもって国をまとめるは古くからの習い。ひとたび、手にした領土を手放す気は毛頭ない」
信玄の言い分が “ 実 ” であるとするならば、謙信の言い分は “ 義 ” でした。あくまでも“義”を貫こうと考えました。


▲ 注:分簡略化した図になります

第一次合戦

1549年(天文18)年8月、謙信は5000の兵を率いて春日山城を発ち、犀川と千曲川が合流する川中島の地へと到りました。軍のなかには晴信に追われ、景虎の元に身を寄せる村上義清らの姿もありました。

甲府を出立した信玄も同地の南端に布陣し、しばらくは両社のにらみ合いが続きました。これが史上名高い「川中島合戦」ですが、その初戦ははかなくも静かなものでした。

9月、上杉軍は突然越後へと帰っていきます。武田方が追撃の機を逸したほどの素早い行動でした。その真意を測りかねた信玄は、しばらく川中島に近い塩田城にとどまっていました。敵方の軍勢が勢いを増して再来してくることを警戒したためです。ところが、謙信の狙いは別のところにありました。いったん越後に退いた彼は、その秋のうちに京都に上がって後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を賜ることに成功しました。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、景虎は、武田氏と戦う大義名分を得ました。急いで勝敗を決めるより、武田追討の大義名分を得ることを優先させたのです。
一方、武田軍は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡の制圧を進めました。

第二次合戦

続く1555(天文24)年6月下旬、信濃へ出陣した謙信は善光寺近くの丘陵・城山に布陣しました。信州の名刹・善光寺には二家の別当職が存在し、一方の粟田寛明は長尾方に与していました。ところが、利害を異にするもう一方の粟田永寿は武田方につき、いち早く要害・旭山城に立て籠もって謙信の陣と正面から対抗する構えをとりました。ここで素早く状況を読んだ信玄が援軍を差し向け、旭山城は上杉方にとってさらに厄介な存在となりました。

7月19日の早暁、川中島合戦で初めてといえる両軍の本格的な激突が起こりました。ところが結局、勝敗はつかずじまい、睨み合いの態勢から再び膠着状態に戻ります。

旧暦の閏10月15日、両軍は撤兵。第二次川中島決戦もえるものもなく終結し、武将二人には痛い“負債”だけが残りました。阻喪した士気、大軍を動かす経済的基盤―それらを立て直すにはかなりの時間が必要でした。

第三次合戦

第二次合戦の後、武田勢は講和条約を無視して北信濃諸将への軍事行動を進め、所領の拡大を図っていきました。

この間、越後では謙信の引退騒動が起こり、国内が混乱状態に陥っていました。そのため、信濃における武田勢への対応が大幅に遅れてしまいました。

越後での動きを察知したかのように武田軍は葛城山を落として犀川の北側へ進出します。葛城山城が陥落したことによって上杉方の勢力は越後へ逃げていきました。出兵準備に手間取った謙信をあざ笑うかのように信玄はさらに北へ侵攻しました。4月に入ってようやく信濃に出陣した謙信は、18日にようやく善光寺に布陣、武田方の要害を複数攻略し、武田方の武将たちを追討。その後、景虎は南下政策を進めながら、武田方の市川藤若がこもる野沢温泉に兵を進めます。このとき信玄は、市川氏への支援の旨を伝える使者として「山本勘助」を派遣します。この経緯は山本勘助の実在が証明されるのですが、勘助が歴史上に姿を現したのは現在のところ、このときのみとされています。

8月29日、武田軍と上杉軍が上野原(長野市若槻)で衝突しましたが、これが第三次合戦における唯一の戦いでした。九月、芳しい成果を上げることができなかった謙信は越後へと帰国し、武田方は北信濃への領土の拡大に成功しました。

第四次合戦

信玄と謙信の一騎打ち、啄木鳥戦法、車懸かりの陣等々・・・。
誰もがイメージする川中島の戦いといえば、この第四回目の戦いであろうと思われますが、その実態についてはほとんどわかっていません。
それにもかかわず現代の私たちがこの戦いを容易に思い浮かべることができるのは、江戸時代に流行った『甲陽軍鑑』などの兵学書や軍記物に描かれた川中島のイメージが与えた影響のせいでしょう。ではこの戦い自体、どのような内容だったのでしょうか。

確実な史料から知ることのできることは、まず1561(永禄4)年9月10日、両軍が会戦。信玄の弟である信繁が討ち死にし、謙信は太刀を振るって戦闘に及びました。武田方の小山田勢が上杉軍を側面攻撃し大きな損害を与え、戦闘終了後、上杉軍の残党が野尻城・市川城に立て籠もりました。
この戦いで武田側は討ち取った敵兵を3000人、上杉側は8000余とし、互いに自軍の勝利を語ったとされています。

第五次合戦

1561(永禄4年)年11月、激戦の第四次合戦から二か月後、謙信は関東に出陣します。ちょうど北条氏が関東各地で反撃に転じていたのです。上杉軍が出陣すると武田軍は北条氏と連携し、毎年のように関東に繰り出す上杉軍と戦闘を繰り返しながら西上野の攻略も同時に進めていきました。

3年後、信玄は、会津の蘆名盛氏とともに信越国境の野尻城を陥落させて越後へ侵入。その後、上杉軍によって野尻城は奪還され、盛氏も敗れ去ってしまいました。同じころ、信玄は越後を背後から攻めるため、隣国飛騨への介入を開始。これに対し謙信は信玄の動きを牽制するために信濃への出陣を決意しました。これが最後の川中島の戦いになります。

7月29日、謙信が川中島に着陣。一方、信玄は8月24日までに塩崎(長野市)に到着します。その後、60日間ほど両軍の対陣が続きました。この戦いでは結局、謙信が飯山城を直して武田軍の攻撃に備えるようにしただけで、11月に越後へ帰ってしまいます。
この後、信玄、謙信の両者が信濃を舞台に大規模な軍事行動を起こすことはありませんでした。

まとめ

川中島の戦いは、武田氏の信濃侵攻の過程で繰り広げられた北信濃をめぐる戦いでした。

謙信と信玄という両雄が刃をぶつけ合ったこの合戦は、結局、決着がつくことなくそのまま歴史の渦に飲み込まれてしまいました。


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ライター紹介 ライター一覧

湯本泰隆

湯本泰隆

1984年12月21日生。2014年、長岡の歴史を学びたい有志とともにながおか史遊会を結成。以後、長岡市内で数多くの歴史系イベントを企画・主催する傍ら、執筆・講演なども精力的に行う。2018年には、にいがた史遊会の創設にも関与。アメリカ留学経験をベースにした欧米的な視点から、独自の日本文化論を展開している。

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